第九話 欠けたもの

 私は嗣跟つぐくびすに犯された事を誰にも言わなかった。処女の娘ならともかく、男が男に犯されるなどあってはならないし、そんなことが露呈すれば、父の沽券に関わる。

 父だけならばまだ良い。我が家には穢れを持った処女の娘が二人と、父の話が確かであれば、母もまた処女なのだ。私一人が黙っていれば、家族は今まで程度の風当たりで暮らしていける。それに幸いにも、嗣跟つぐくびすは私とのことを他言している風ではなかった。文字通り気に入りの玩具らしく、唐突に現れて、何も準備もへったくれもない状態で襲いかかってくるものの、その時はいつも一人だったし、人気の無いところへ引き摺って行った。それは私達がツィポラの拡張工事に携わっている間、ずっと続いた。

 その日、嗣跟つぐくびすの相手をして、月の沈みかかった頃になって漸く家に帰る事が出来た。父は今日、ツィポラに泊まるということを知っているので、私の事は待っていないと思っていた。

「にっちゃ!」

 家の扉を開けると、ひこばえが飛びついてきた。足腰がガクガクになっていた私は、堪えきれず尻餅をつく。ひこばえは震えて泣いていた。

「どうしたんだヒコ、怖い夢でも見たのか? まさかずっと起きてたんじゃないだろうな。」

「だって…だって、にっちゃ、帰ってくるって、言ってたのに…帰ってこないから…。ずびっ。」

「帰ってこないって………。お前、今日父さんは泊まるって言ってたじゃないか。…いいから家に入れろ、寒い。」

「うん、パンと魚、作っておいたよ。」

 家の中に入り、ひこばえがやたらとずしりと重い肩掛けを私から外し、片付けに行く。正直今は何も食べたくない。だがこんな夜遅くに起きて用意していた妹達の事を考えると、少しでも口を付けた方が良いと思い、無理矢理椅子に座った。残りかすと、出口から僅かに漏れる血が、泥に濡れた下着に染み込む。

「はい、にっちゃ。あのね、あのね。これ、ボクも作るの手伝ったんだよ。」

「は? 家事をお前が?」

「うん。今日は村でのお仕事が無かったんだ。だから―――。」

「女の仕事を男がするもんじゃない。あそこの家の息子は外に働きに行かないで、女の真似事をしてるだなんて噂が立ったら如何する。父さんが恥かくんだぞ。」

「でも、にっちゃとごはん、食べたかったから………。」

「ぼくのことはいい。お前は母さんを守る事だけ考えてろ。お前が立派な人間になってくれれば、父さんだって鼻が高いんだから。」

「………うん。にっちゃの言う通りにする。」

 差し出された葡萄ぶどう酒を飲み、口の中を清めたが、喉の奥の感触が残っている。パンで押し流そうとしたが、一口の大きさに千切ったものの、どうしても口に入れるために腕が持ち上がらない。もう何も、口の中に入れたくない。

「にっちゃ?」

「………うるさい。にっちゃじゃない、兄ちゃんって呼べって、言っただろ。」

「どうしたの? 具合悪いの?」

「うるさいって言ってるだろッ! 良いから寝ろ!!」

 問い詰めるような追求に耐えられず、机を強かに叩いて怒鳴りつけた。ひこばえは少し驚いたようだったが、涙を溜めて、ふるふると頭を横に振った。

「…やだ。」

「何がだ。飯なら勝手に食べて片付けておくよ。明日辺り、かずの肌に塗る香油を買いに行くんだろ、もう寝ろよ。」

「やだっ! にっちゃといる、にっちゃと起きてる!」

「鬱陶しい! 寝ろ!」

「やだ!!」

「この馬鹿―――。」

 馬鹿ヒコ、と言おうとした時、ぐらっと頭の中身が揺れるような感覚がした。パンを取り落とし、椅子から転落する。ひこばえが受け止めてくれていたが、その胸に思い切り、を吐き戻してしまった。少し変色した、唾液よりもねっとりとしたものが、ひこばえの胸にかかる。

「あ、ああ…。ああああ、ああああああああああ、あああああああああああああああ!」

 私が縛られて嗣跟つぐくびすの前に跪いている間、すぐ隣で、縛られてさえいなければ手が届く所で、ひこばえ嗣跟つぐくびすの手下や友人達が群がっている。嫌がるひこばえを一人が抱え、一人が抑え、一人が脱がせ、一人が開かせ、一人が圧し進み、一人が捻じ込む。私が嘆願しようにも、嗣跟つぐくびすは私の頭をがっしりと抑えて動かさない。私が抵抗すれば、ひこばえをもっと酷く扱うだろう。喉の奥深くまで塞がれて、涙が詰まって息が出来ない。

「にっちゃ、にっちゃ。」

 ひこばえのなく声がする。私が男娼だったから、何も知らないひこばえが巻き込まれたのだ。喉が詰まって苦しい。

「にっちゃ、ダメ、ダメ! 血が出ちゃうよ、掻かないで!」

 ハッと我に返り、目の前を良く見つめ直す。

 ここは、私の家だ。嗣跟つぐくびすの相手はし終わっているし、彼は私の相手に友人を招いたりしない。この家には私の家族以外は住んでいないし、今起きているのは私とひこばえだけだ。ひこばえは私の吐瀉物で胸を汚しているが、至ってだ。

 よかった。私の見た幻だ。

「ああ………。ごめん。兄ちゃん、疲れてるんだ。悪いけど、ご飯は明日の朝食べるよ。だから先におやすみ、ひこばえ。」

「やだ。にっちゃと寝る。」

「そうかい? なら、そうしようか。」

 問答をするのも面倒で、私は生返事を返し、ひこばえの服を脱がせ、洗い場に放り込むと、ぐらぐらする身体を横たえた。私の服を寛げ、上半身裸のひこばえが、手拭いで私の身体を拭き始める。

「明日で良いよ、ひこばえ。もう数時間すれば起きるんだから。」

「だって、汚れたままだとにっちゃ、気持ち悪いよ。」

 汚れ、気持ち悪い、という言葉に、本当に気分が悪くなる。最低限の掃除しかしてこなかったから、確かに今の私の身体は汚れている。

「…自分で拭くよ、ひこばえ。」

「ボクにやらせて。にっちゃ、疲れてるでしょ。ボクがやりたいの。」

「………。じゃあ、背中の方やってくれるか。その他は自分でやるから、その間に新しい下着を持ってきておくれ。」

「うん、いいよ。にっちゃ、俯せになって。」

 漸くひこばえが笑った。言われたとおりに俯せになると、服越しに砂や石や岩に削られた肌に、少し人肌に温まった手拭いの水が染み渡っていった。ひこばえが二度三度、私の背中を撫でただけで、私は眠りに落ちてしまった。


 翌朝―――と言っても、数時間後、私は催して目を覚ました。外は少し白み始めていて、妹達が竈の準備をしていたようだったが、寝ぼけていたのできちんと挨拶出来なかった。家の裏の厠まで歩いて行き、腰紐を解いて下着から取り出したとき、何か違和を感じて、手の中に収まっているモノを見下ろした。

「………。???」

 昨日、嗣跟つぐくびすの下手くそな遊びに付き合わされて、一部傷がついたことは理解していた。いつの間にか下着も綺麗になっているな、と、ぼんやり思いながら、昨日の被害者をじろじろと見る。裏も表も横も、特に大きな傷はない。しかし少し全体的に大きいような気もするし、なんとなく張っているような気もする。色も、なんというか、いつもより………。………黒い? 男というものは、夢にも見ないうちに姦婦の霊に誑かされるものだが、今朝もそうだったのだろうか。少し違うような気もするが、いずれにしろ昨日さんざんな目に遭っていながら、浅ましいものだ。まだ家族の何人かが寝ているうちに、さっさと出しておくか、と、とりあえず用を足した。その瞬間。

「ギャアアアアーーーーーーーーッッ!!!」

 尿意も何もかも吹き飛ぶような叫び声がして、思わずその場に腰を抜かしそうになる。ひこばえの悲鳴だ。慌ててモノをしまい込み、腰紐も禄に締めずに家の中に飛び込んだ。

 家の中では悲鳴で飛び起きたらしい母と、弟と妹たちが、ひこばえを囲んでいた。母が心配そうにひこばえを抱きしめているが、ひこばえは股を押さえてジタバタと足を動かした。

「痛い痛い痛い痛い!! 痛いよう、お母ちゃん、痛い痛い痛い!! ちんちが痛いよう!!」

「え、おちんちん?」

まさかず、お前達はきびすと外に行って医者を呼んできなさい。きんけい、オリーブ油と手拭いだ。そそぐひこばえを支えてやれ。」

 困惑している兄弟達に指示を出し、とりあえずひこばえの身体を見る者を減らす。ひこばえは泣き叫んでいて、とてもじゃないが私の声が届くようではなかった。

「お母さん、ひこばえの服を解いていいですか。寝てる間に傷が出来ただけなら、ぼくでも大丈夫です。」

「お願いするわ。私はおちんちんのことは分からないもの…。見たことないし。」

 心配そうにひこばえの手を握る母に、ひこばえの相手を任せ、腰紐を解き、下着を外してよく触って、よく見定める。

 男娼時代、病気にかかって悶え苦しむ同僚のモノを何度か見た事があった。酷い客や悪趣味な客と寝た後、身体の手入れをきちんとしていないと、使った場所に出来た傷が膿んで、熱を持ったり、酷いときはそのまま腐ってしまったりするのだ。そういうものはもう使い物にならず、流石に他の男娼達に食わせて貰うわけにも行かず、病気を移される前にさっさと皆で追い出した。その前に、どのようにしたらそのような病気や怪我になったのか、その情報だけを置いて行かせたのだ。その時の形状のことを思い出しながら真面目にひこばえの陰茎と睾丸を触ったが、少なくとも素人目には、ごく普通の十二歳の少年の股間だ。

「どう? 瞻仰せんぎょう。」

「見た目だけだと分からないです…。怪我か何かじゃないみたいですが…。一応消毒だけして、医者が来るのを待ちましょう。」

「セン兄、ヒコ兄はどうしたの?」

 ひこばえの上半身を支えたまま、そそぐは心配そうに眉を寄せた。

「何、昨日ションベンした後にきちんと振らなかったか、それとも寝てるうちにちんこ擦っただけだろ。一応医者に診せるけど、そんな大袈裟なものじゃないよ。」

 そう言っている間にも、ひこばえは痛い痛いと大騒ぎしている。もしまさがこの場にいたら、一緒になって泣き出して大修羅場だ。きんけいが持ってきた手拭いにオリーブ油をたっぷりと吸わせ、そっと拭く。ひこばえは陰茎を拭かれてる時は普通に泣いているだけだったが、睾丸に少しでも触れるとギャアギャアと泣きわめいた。どうやら痛いのは睾丸と、それから陰茎の先の辺りが痛いらしい。とにかく素人の私に分かるのはそれくらいだった。

「兄さん! お医者さん、ツィポラに行ってていないんだって!」

 そのまま剥き出しにしておく訳にもいかず、ひこばえの下腹部を覆い隠した時、きびすが戻ってきて言った。

「どうしよう、兄さん、ヒコ、どうなるの?」

「祭司の家柄でもないんだから、タマが一つ潰れようが死にゃしないよ。とにかく医者はツィポラにいるんだな?」

「う、うん。なんか、昨日の夜に急患が出たらしくて、それから帰ってないんだって。」

「お母さん、ひこばえをツィポラに連れて行きます。馬を借りましょう。」

「それなら村長さんの所に…。」

ひこばえ、立て―――る、わけないか。きびす、ぼくがひこばえをツィポラに連れて行くから、もし父さんと入れ違いになったら、事の次第を伝えてくれ。」

 ビャービャーと泣くひこばえの股間になるべく衝撃を与えないようにして抱き上げ、私は家を出た。村長はひこばえがあまりにも激しく泣くので、何も言わずに馬を貸してくれた。本当なら走らせたかったのだが、そうするとどうしても激しく揺れてしまう。ただ、ぱかぱかとゆったり歩く訳にもいかない。ひこばえに動かないようにものをきつく握らせ、馬を走らせた。

 哀しいことに、朝出しそびれた私のほうのものは、その時になってもまだ、大分ぼったりとしていて、我ながら緊張感がないと思った。


 ツィポラに着くと、会堂に人集りが出来ていた。血の臭いがする。恐らく怪我人が出たのだろう。

「すいませんッ! こちらに医者はいませんか、弟が苦しんでいるんです!」

 人混みを掻き分けてビイビイ泣き止まないひこばえの背中を摩りながら前へ行く。

 ひこばえと同じくらいのシリア人の少年と、老いたユダヤ人の女がいた。ナザレの医者の姿はない。沢山の布の上で、腹が破けたらしい職人の治療を終えたばかりのようだった。

「すみません、そちらの方の治療は終わってますか。ナザレ村から来たのです。医者がツィポラに行っていると聞いて来たのです。」

 すると少年は、血塗れの革手袋を捨て、白い濡れた手拭いで手を拭くと、こちらに近づいてきた。

「ナザレから来た医者なら、丁度帰ったところです。入れ違いになってしまったのでしょう。しかしわたしも医者です。その男の子ですか?」

「はい、朝起きたら悲鳴を上げてて…。」

「名前は?」

ひこばえといいます。」

ひこばえさん、ひこばえさん。わたしの声が聞こえますね? どこが痛いか言えますか?」

「ちんち!!!」

 会堂に間抜けなその単語がよく響いた。後ろにいる職人の何人かがひそひそ笑う声が聞こえたので、私はキッと振り向いて怒鳴りつけた。

「散れ散れ! もしこの子のちんこから病気でも垂れてみろ、お前等全員穢れたモノとして特別高い供え物を要求されるぞ! 子供のいない者は嫁を弟に取られるぞ! それが嫌なら出てけッ!」

 私の声も非常に良く響いたので、彼等は仕事に戻っていった。気まずそうにしている治療を受けた職人を担いで行かせ、私は会堂の扉を一度閉めた。何が哀しくて成人した男の性器を大衆に見せねばならないというのだ。

「痛いー!」

「大丈夫ですよ、今診ますからね。…師匠、もう手拭いはないですか。」

 そう言えば、ここにある手拭いは全てあの職人の血で汚れてしまっている。私は咄嗟に着ているものを脱ぎ、医者に渡した。

「ぼくの服を使ってください。ないより良いでしょう。」

「ありがとうございます。」

 医者はあまり清潔そうではない湯に私の服を浸し、ひこばえを座らせ、何の変哲もなさそうに見えるひこばえの性器を診察し始める。痛い痛いと暴れるひこばえを後ろから抱きかかえて落ち着かせていると、くんくん、くんくん、と、老婆が動き出した。

薬光やっこう、肉の腐ってる臭いがする。この子の身体のどこかが、壊死してるんじゃないかしら。」

 どうやら彼女は、目が良くないようだ。

「いえ、師匠。至って普通の健康な性器です。睾丸も陰茎も普通ですし、特に熱があるわけでもありません。…つかぬ事をお聞きしますが、お兄さん、彼は精通は迎えていますか?」

「え? あ、ああ、一応は…。こんなナリだが十二歳だ。とっくに迎えてる。」

「となると…。」

薬光やっこう、股じゃないよ、この子の背中から腐った臭いがする。」

 ぎょっとして、慌ててひこばえをひっくり返す。何も覆われていない性器が床に当たったようだがそんなことは問題ではない。大事なのは腐敗という皮膚病がひこばえに出ていないかということだ。

 しかし、ひこばえの背中は綺麗な肌色で、多少の肌荒れこそあるものの、決して腐っているような場所は見当たらない。化膿もしていないし、何なら面皰だってない。念のため脇腹や脇も見せたが、やはり何もない。

「んん? 今度はこの子の腹側から腐った臭いがするよ。」

「師匠、この子のお腹はさっき陰茎を見たときに見ましたけど、背中と同じですよ。触ってみますか?」

「いいや、このアタシの鼻は確かだよ。どこかが腐ってる。」

「???」

 なぞなぞのような老婆の進言に、二人で首を傾げる。その時、ハッと医者が、何か気付いたように言った。

「お兄さん、お兄さんの家族で、身体のどこかが腐ったり、酷く一気にやせる病気にかかったりした人はいますか?」

「い、いや、ぼくの知る限りでは…。」

「ちょっとひこばえさん、失礼しますね。」

 悶えるひこばえを私の腕から話し、そっと横たわらせると―――一気に私に距離を詰め、下着を暴いた。その途端、医者が思わず顔を背ける。老婆は私の股間に顔を近づける間もなく、それじゃそれじゃ、と、騒ぎ立てた。

「そこが腐っておろう。薬光やっこう、切り取るのじゃ。」

「は!? いやいやいや! 昨日沐浴しなかったからそう感じるだけでしょう、何も痛くないし!」

「そんな馬鹿な!? 睾丸が二つとも肥大してますし、陰茎の先が化膿してますよ! ひこばえさんの訴える症状よりも痛いはずです! なんで立っていられるんですか!? 両足に力を入れることも出来ないはずです!」

 なんでと言われても。

「とにかく手遅れになる前に、今すぐ処置をします。横になってください。」

「ぼくは大丈夫ですよ! それよりひこばえが苦しんでいるから―――。」

「ちんちんが腐って毒が回って死んだなんて、末代までの恥も良いところでしょう!!」

 嫌すぎる。

「もしかしたら、もう腐りすぎてて痛くないだけかも知れません。睾丸や陰茎の病気は恐ろしいんですよ。すぐ処置をしないと。」

「にっちゃ、治療受けて、にっちゃ。」

 その時、脂汗を滲ませたひこばえが、私に縋り付くように懇願してきた。

「お前ね、村長から馬を借りたのはお前のモノのためであって―――。」

「先生、兄を助けて下さい。お願いします。」

 ひこばえは先ほどまでとは打って変わって、酷く冷静に、しっかりとした目で医者を見つめると、足先に口づけた。

「こらひこばえ! 医者なんぞに何してる!」

「師匠、ナイフ焼いてありますか? あと葡萄ぶどう酒とオリーブ油は?」

「はいはい、もう焼いといたよ。」

 いつの間にか、表面が白く揺らめく刃物が用意されていて、医者は何の躊躇いもなく、私の陰毛を削り出した。

「ちょちょちょ、ちょっと待て、困る!」

「師匠、ひこばえさん、お兄さんを押さえていて下さい。手元が狂ったら陰茎も切らなければならなくなる。」

 さらりと恐ろしい事を言われた。老婆が、私が舌を噛まないように轡を噛ませ、ひこばえが先ほどの私と同じように後ろから肩を押さえる。医者は私の片足を自分の肩に乗せ、一心不乱に私の股間で何か作業をしている。恐らく油を塗ってから剃っているらしく、風通りが良くなっていき、油が伝う感触がはっきりとしていくのが非常に恥ずかしかったし、屈辱だった。

「麻酔をかけます。ちょっとおしりが痛いかもしれないですけど、必要なので呑み込んで下さい。」

「は!?」

 待て待て待て! 昨日さんざんな目に遭わされたのだ! 中は傷だらけの荒れ放題だ、何を入れると言うのだ、今入れられたら何を入れられようと確実に下す!

「はい、息を吐いて。」

「ちょ、待った待っ―――ひゃっ!」

 女の小指くらいに細い何かが尻の穴に突き込まれ、飲み水よりも冷たいものがさらさらと入ってきた。途端に、ぶわっと身体の内側が膨らむ。目が回転し、頭から色々なものが腹の底まで落ちていく。喉の近くがぐるぐると渦巻き、ケッケッと吐き戻す。質の悪い葡萄ぶどう酒をしこたま飲まされた時よりも酷く酔っているようだった。轡を外され、口の中を拭き取られると、また別の轡を噛まされる。

「これでマシになるでしょう。」

 寧ろ悪化した。

「今から切り取りますから、ひこばえさん、お兄さんを励まして下さい。」

「はい。にっちゃ、頑張って!」

 何を頑張れというのだろう。しかし抗議しても聞き入れられそうにない。下を見下ろそうとすると、童女のようにつるつるになった恥丘に、不釣り合いな色合いの陰茎らしきものの、先が見えたり隠れたりしている。その向こうに医者の真剣な顔があり、眉間を私の陰茎が突いているような図になっている。なんと悪趣味な光景か。何か切ったり削ったりしている、触られているという感覚はあるが、痛みは全くない。

「う…っ!」

 それが逆に不味かった。ひこばえの助力で、全く知らない男に、それも穢れを纏う医者なんぞに暴かれている気分になり、また別の吐き気が出てくる。轡の上から掌で口を押さえたが、ごぷりと吐瀉物が口の中に逆流した。それに気付いた老婆が、先ほどと同じように、すぐさま轡を外し、私の口から吐瀉物を掻きだし、弱く弱く、私の身体が揺れない程度に背中を叩く。

「にっちゃ、にっちゃ。大丈夫、大丈夫だよ、良くなるよ。」

「お前のちんこはどうしたんだよ、ひこばえ………。」

「うん、切り刻まれるみたいに痛いけど、にっちゃの方が重傷だから、我慢する。」

 言っている意味が分からない。大体当人の私が要らないと言っているのに、この青年は何をしているのだろう。何が哀しくて、痛くもない睾丸を丸裸にされるために剃毛なぞされねばならんのだ。眩暈がしてくる。そんなものを万が一にでも―――。

 万が一にでも、嗣跟つぐくびすに見られたなら、どうなる?

「う…っ、げ、げええっ!」

 それを想像した時、猛烈な悪寒と怖気が襲いかかってきた。

 嘲笑されることはあっても、穢れだと認識されることはないだろう。あの人は私を、妻に出来ない色々な色事の噂を試すための人形か何かと勘違いしている。もし私の性器が自分たちとは大分異なる形になっていたら、その時こそ私は見世物にされるのではないだろうか。睾丸が無ければ男としての意味が無い。陰茎だけがあっても意味が無い。女扱いされるだけならまだしも―――実際そういう趣向を男娼時代に押しつけられたこともあったけれども―――下女の娼婦として大勢に見世物にされるのだけは我慢ならない。私の身体の一部が欠けている事がわかったら、弟達も妻を取れなくなるし、何よりも―――私は、父の長男でいられない。私のような身の穢れた男が妻を持てる等とは考えていない。けれども父が私を引き取ってくれ、ひこばえを守る戦士として育てると言ってくれたあの時から、父から一番頼られる息子でいたかった。私は―――父の実の子よりも、父の子供でいたかったのだ。

 それを思うと父との絆を育んできたこの六年あまりが、私の股間で蠢く刃物で刻まれるような心地がした。ぐるぐると、頭が一回転しては反対に、一回転して反対に揺さぶるように回る。

「―――。」

「大丈夫ですよ、もう少しで術式が終わります。」

 傷口を焼いているらしく、熱くて硬いものと、冷たくて柔らかいものが交互に私に触れ、その仲介を油がしているらしかった。油は人肌に温かく、揉み込むように、或いはすり込むように、油を丹念に陰茎の前後左右、切り取られたところ、丸裸になったところに塗られ、何かを確認しているのか、医者の手の中でいじくられているようだった。本当に睾丸を摂られたという絶望が足から絡みついてきて、湖で服を着たまま溺れるように呼吸が乱れる。

「もういい。」

「どうしました?」

「………もういいです、なおりたくありません………。きりとって、それでどうにかなるほど、いまのしゃかいは、ぼくにはやさしくない。そのナイフで、そのまま、むねをついてください。」

 うなされるように幻を振り払いながら、私は呻いた。すると、パチンッと頬が張られ、熱病にうかされていたような頭に冷水が浴びせられる。

「どうにかなる! どうにかなるように、ボクがにお願いする!」

 ひこばえだった。ひこばえは目に涙を溜めながら、後ろから私の顔を抱きしめ、私の頬に口づけた。

「太祖だって、息子を生贄にって言われて、とりあえずどうにかなると思って連れて行ったんだって、にっちゃ、教えてくれたじゃん。」

「………。ぼくは、そんなにしんじんぶかくないよ…。」

 生活のために、イスラエル人の誇りを捨て、エジプト人たちに身体を切り売りしていたこと。それそのものを恥と思えないこと。

 それだけで十分、私は理不尽を受けるに値するのだということは理解できていた。それを嘆く神を持たなかった。神を持てば、私は撃ち滅ぼされると分かっていたから。


「………。ん、んう?」

 何だか眩しい。目を開くと、会堂の天窓から、橙色の光が差し込んできている。どうやらあのまま、私は寝てしまったらしい。酷く頭が重くて、目の根が特に重い。ぐるぐる喉の奥が周り、息は吐瀉物のせいで酸っぱい味を含んでいる。下着は新しいものに取り替えられて、何だったら朝よりも私の下半身は清潔感に溢れていた。ただ、何とも言えない、上手く身体を真っ直ぐに保てていないような、どうしようもない違和感があった。起き上がろうとして、すぐに私の頭がひこばえの膝枕の上にある事に気付いた。

「にっちゃ、起きた! 先生、兄が起きました!」

「ああ、良かった。突然気を失ってしまわれたんですよ。血を流しすぎたようで、今薬湯を―――。」

 医者がのこのこと近づいてきたので、私は飛び上がって医者の首を締め上げて宙に浮かせた。身体の一部が欠けて、上手く真っ直ぐ持ち上げられず、ぐらぐらと脅しかけるように医者の身体が揺れる。

「にっちゃ!」

「よくも…よくも、ぼくの身体を不完全にしてくれたな!? この穢れた外人が! ユダヤ人にとってタマとちんこがどれだけ大切か、身に染みるように此処で教えてやろうか、あぁ!?」

「同じ男として同情はしますよ。しかし陰茎は膿を出しただけで―――。」

「デキるかデキないか、ヤれるかヤれないか、そんなことは問題じゃない!! 厠に行って隣り合ったときに見えるかが大事なんだ、ぼく達にとっては!!」

 震えだした両腕を、医者の体重を使って振り下ろす。ドダンッと激しい音がして、医者がせ返った。止めに来るひこばえの制止を振り切り、医者に馬乗りになって首を絞める。

「それとも何か? バビロンの意趣返しでもしようっていうのか、祭司でもない、穢らわしい医者風情が!!」

「ひつような、しょちを―――。」

「黙れ!! ぼくは頼んじゃいない、寧ろ止めろと言った筈だ!! こんな辱めを受けるくらいなら、殺せとも言った! それでも止めなかった!! お前は男のタマを集める趣味のために医者してるのか!!」

 医者はもう喋れず、私の掌を剥がそうとしていた指を離した。観念したか、と思ったのも一瞬、私の鳩尾に激しい打突を加えた。だが元より痛みを感じない身である。私が構わず首を絞め続けていると、医者は私への攻撃が効かないと察知し、指を剥がしにかかった。怒りで歯が震え、青白くなった爪を噛み剥いでやろうと、ぎりっと歯を突きだした、その時だった。

「止めなさい、瞻仰せんぎょう!!」

 ガンッ!!

 頭が激しく上下に動き、私は衝撃で手を離した。悶えて咳き込む医者の上から剥がされ、強引に立たされる。

 父だった。

「何してる、この馬鹿! お前の穢れを刮ぎ落としてくれた恩人だろうがッ!」

「でもお父さん! ぼくは痛くありませんでした! 痛がってたのはひこばえなのに!!」

「素人と玄人の区別もつかないのか、職人のくせに! だからお前はひこばえそそぐに劣るんだ!」

 ガンガン、と、二発頭上に戴く。痛くはないが、衝撃と、股間の比重が狂っていて、まともに立っていられなかった。父は咳き込んでいる医者を立たせ、平伏した。

「愚息が大変なことをして申し訳ない。助けてくれてありがとう。だがうちには、君に償えるような、処女おとめはいないんだ。金なら幾らでも積むから、どうか愚息を許してくれ。」

 しかし医者は、逆に父を立たせ、微笑んだ。

「いえ、いえ、いえ。慣れていますから大丈夫ですよ。わたしは実際シリア人ですし、医者ですし。急を要する事態だったので、説明する間もなく切り取ってしまいました。しかし、性交するために必要なものは残っていますので、どうかお気に止まないように。気の落ち込みは、術後経過を悪化させます。消毒の為のオリーブ油を渡さなくてはいけないのですが、患部が広くて、わたし達の手持ちは全て使ってしまったのです。申し訳ないのですが、お父さんが用意してあげられますか?」

「勿論だとも。ありがとう、ありがとう、本当にありがとう。―――お前も言え、瞻仰せんぎょう!!」

 頭を鷲掴みにされ、ぐっと下げさせられる。比重が傾いて、よろよろしながらも、私は渋々頭を下げた。だが口は真一文字に結び、絶対に何も言わなかった。隣でひこばえが頭を下げ、重ねて言った。

「兄を助けてくれて、ありがとうございます。」

ひこばえさんの股間は、もう問題ないんですか?」

「はい、兄の病が取り除かれたので、痛くありません!」

 ひこばえの不思議な物言いに、私達はきょとんとして顔を見合わせた。


 ―――ひこばえが、ただの弟が、何か得体の知れないことを考えていることを感じ取ったのは、この時が初めてだった。

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