第五話 穢れた子供
エルサレム神殿は、今は祭りの期間ではないとあっても、凄い人が集まっていた。同じ神殿でも、エジプトの神殿とは大分違う。エジプトの神殿は、神殿で暮らす娼婦しか居なかったが、エルサレム神殿はどちらかというと神殿の周りに住んでいる娼婦が多い。生贄を買うための店、外国からの金を取り替える両替商、占い師、そして娼婦に乞食に病人。様々な種類の人間が、ごった煮になっていた。私は目がくるくる回るような気分になった。
「凄い人ですね、お父さん。」
「ああ、今日は多いな。だが
「ええと…。えっと、えっと、エジプトから出たときのお祭りですね。」
「そうそう。」
そんなことを話していると、父の顔が強張った。何ぞと周囲を見渡すと、少年と、私より少し小さい子供を連れた青年が、近づいてきていた。何とも言えない威圧感を感じ、私は父の後ろに隠れた。
「お久しぶりです、大兄さん。」
「
「エジプトでの用事が済んだので、戻ってきたのです。」
「…それで、そのお前に隠れている子供はなんだ? エジプト人の召使いか?」
「いいえ、息子です。エジプトで引き取ったんです。正真正銘のイスラエル人の子供ですよ、言っておきますけど。」
「フーン、まあいいや。安息年にお前が帰ってきたのも、何かの導きだろう。神殿で穢れを落としたら、ベトサイダの俺の家に来てくれ。お前に渡したいものがあるんだ。」
「…分かりました。では、妻と息子達を連れているので、今はここで。」
失礼、と、父が頭を下げ、私と母と、母に抱かれた
「売女め、流れれば良かったものを、生き延びおって。」
それでも母は、その微笑みを崩さなかった。父が何も言わないので、私も何も言わなかった。
神殿の仕来りは窮屈で、入れる場所までもが決まっていた。母から
母の所へ戻ろうとしたとき、
「おとちゃ、だいじょぶ。かみしゃまは、おとちゃがだいしゅきだから。」
「………。うん、そうだね。
「うんっ!」
その日のうちに、私達はナザレに帰ることが出来た。母の実家が管理していたという手狭な、しかしそこそこ綺麗に保たれている民家に入ると、私はイスラエルを出たときのことを思い出し、思わず涙を流してしまった。父がせかせかと荷ほどきをしている間、母は
翌朝、起きたとき、父は自治体に挨拶をし終わり、帰ってきたところだった。昼間の日の照っている時にベトサイダまで行かないと、着くのが夜になってしまい、夕飯を向こうで食べなくてはいけなくなると言って、父は私を連れてナザレを発った。道中、父は私の手をずっと繋いでいてくれた。母も
しかしそれも、ベトサイダに入るまでだった。その時は既に中天から少し日がズレていたが、外は暑く、負い目のある者達が、部外者の私達をじろじろと見ていた。ベトサイダで一番大きな豪邸―――の、傍にある、それよりも少し小さな豪邸の前まで来ると、父は一度大きく深呼吸をして、戸を叩いた。直ぐに召使いが戸を開いて招き入れる。
「おや、
「引き取った息子でね。今日、大兄さんが話があるというから、連れてきたんだ。この子はぼくの長男だから。」
「ああ、そうですか。旦那様は大旦那様の部屋にいらっしゃいます。足を拭いてしまいますね、では失礼。」
召使いは跪き、入り口の瓶で濡らした布で父と私の足を拭いた。いつも私が拭く立場だったので、なんだか変な感じがする。父の掌は冷たく湿っていて、酷く緊張しているのが伝わってきて、私は身を摘ままれる思いで父の掌を握り返した。
案内されてやってきた部屋に入ると、神殿で出会ったあの威圧感のある男と、ころころと転がされている子供が五人。まだ幼く、
「大兄さん、それから―――ええと、どうして、貴方がいるのでしょうか、
「ご子息やご息女方はお元気でいらっしゃいますか。」
「ああ、良く育っている。
「いいえ、息子です。エジプトにいるときに引き取りました、イスラエル人の子供です。」
「確かに大きな鼻を持っているが、純血のイスラエル人であるのだろうな。」
「勿論です。」
「………。まあ良い、お前は末っ子だしな。さて、今日呼んだ理由なのだが、そこにそれ、子供が転がっていよう。」
「はあ、この子達は私達がエジプトに行っている時にお生まれになったのでしょうか。大きい子もいるようですが。」
すると
「この子供どもの親のことは考えるでない。だが一応、名前はある。お前から見て右側から、
「は、はあ…。」
随分と安直な名前だな、と思った。
「
「は、はあ。」
「これらの子供を、お前の息子と娘として育ててほしい。」
「………。一度にですか?」
「一度に。」
「………。訳を聞いても? 私は一族の
「如何にも、我が一族の
「引き取った? こんなに沢山の子が、一度に孤児に?」
「それは家に帰ったあと、お前がこの子らを裸にして確かめるがいい。」
「………。はい、大兄さん。でも、まだ皆子供で、よちよち歩きはおろか、首も据わっていない子も居るようです。馬には乗せられません。車かなにか、貸して下さい。」
「荷車でいいなら、すぐに用意出来るが。」
すると、その場にいた何人かが笑いを堪える声がした。
「構いません。『一度に』とのご命令なので、『一度に』連れて帰ります。」
しかし父がきっぱりとそう言うと、その声も無くなった。顔も禄に見せられていなかったが、恐らく見ても見なくても、父は同じことを言っただろう。
「
「はい、お父さん。」
そう答えると、大兄は鼻で笑い飛ばした。
「計算が合わないんじゃないか、
「はい、そうですよ。この間七歳になりました。先ほども
「本当にイスラエル民族の出か? お前は家督から最も遠い弟だが、大王の系譜たる者として、きちんとした息子に跡を継がせて貰わなければ困るぞ。お前の妻の不貞は、このベトサイダでさえ知っている。」
「
「…まあ良い、どうせあの女が死ねば、あの娘の姉妹を娶れば良い。
「何度も申し上げますが―――。」
「いいです、お父さん。この方達に見せます。」
父が一方的に侮辱されているのが我慢ならず、私は大伯父と
「貴方方が恐れておられるのは、ぼくが本当にイスラエル人の両親の間に生まれた子で、エジプト人という異邦人の血が混ざってないかということでしょう。ぼくはエジプトで暮らしていましたが、生まれはこのイスラエルです。それは―――これを見て戴ければ、ご納得戴けるかと。」
少し脚を広げ、手を添えて彼等の眼前に自分の陰茎を見せた。二人は顔をしかめ、私を罵ろうとしたので、先に畳みかけた。
「どうぞ、必要でしたら触ってお確かめ下さい。ぼくは確かに、生まれてすぐに割礼を受けた、イスラエル人です。四つの時に人買いによってエジプトに渡り、エジプト人に仕えていましたが、ただそれだけのことであって、私はギリシャ人でもエジプト人でもありません。父が長男としてぼくを引き取ったことは、愚かでも何でもありません。寧ろエジプトという異国からぼくを連れ出してくれた、過去の預言者のように、ぼくの父は偉大です。…何を戸惑っておられるのですか? これが見たかったのでしょう? もっとよく近づいてご覧下さい、確かにぼくのおちんちんの先は切り取られています。これは一朝一夕で出来た傷跡ではありません。ぼくは確かに赤ん坊の時に、おちんちんの先を切り取ったのです。」
「わかった、わかった、もうわかった! その醜いものをしまいたまえ! 誰もちんぽを見せろなどと言ってはおらん!」
「いいえ、言外に仰っていました。ですからぼくはお見せしたのです。お分かりになりましたら、これ以上父を侮辱するのは止めて下さい。」
「侮辱だと? 何を勘違いして―――ええい、近づけるな! 近づくな! もう良い、そこの荷物ごとさっさと帰れ!」
「お父さん、この人達はぼくのおちんちんを見てご理解戴けたようです。帰りましょう。」
まさかこんな時に、男娼時代の度胸が活きるとは思わなかった。私は厠から出てくる時のように腰紐を締め直して、歩けそうな子を立たせ、歩けない子を右腕に抱きかかえた。私がけろっとしているからか、父は少しぽかんとしていたけれど、私が促すと頭を下げて家を出た。
家の外で召使いの男が持ってきた荷車に子供達を乗せ、私が荷車を引こうとした時だった。
「
「はい、お父さん。」
パシッ。
「―――いいか、
「………。はい、わかりました、お父さん。…ごめんなさい。」
「…行こう、ここにはいい人はいない。お前と
「はい、お父さん。」
しかし、帰ろうとしたところで、子供の一人が私達の後に続かないことに気付いた。私より小柄だが、恐らく同じ年くらいだろう。
「あの子は…。」
「たしか、
「
「大丈夫だよ、お父さんは怖い人じゃないよ。」
「………。」
そうじゃない、と、
「ごめんなさいっ! おいらは、生まれつき足が折れているんです。だから、瓶担ぎも牛追いも、子供の面倒も見ることが出来ないんです。だからお父さんは、お母さんの実家の
「折れている? 足を怪我したのかい、ちょっと見せてご覧。」
「だ、ダメです! 穢れてしまいます!」
「ぼくは君の父親になるんだよ。父親が子供を見て穢れたりするもんか。そんなことよりお前が今怪我をしていないかのほうが問題だ。」
父がそういうと、
確かに、驚く脚だった。手足が折れると、骨が着くまで添え木をするが、どうやら先ほど歩き出そうとしたとき、添え木が折れてしまったようだった。それで、骨が一本なくなって、立てなくなったのだ。足というものは、腿は前に曲がり、膝は後ろに曲がり、足首が外側にぐるりと曲がるものだが、
「
「はい、お父さん。」
それでも
嗚呼、そうか。この子もそうなのだ。
自分で言うのも何だが、
「………。お父さん、ぼくはお腹が空きました。でもぼくは兄さんだから、今日ぼくに出来た弟と妹達に、ぼくのおかわりする分をあげるべきですね。」
「んっ?」
ね? と笑うと、父は私の言葉の意味を汲み取り、ああ、と、答えた。
「そんな必要はないぞ、
「今日のごはんはなんですか、お父さん。」
「さあ、それを知るためにも、早く帰らないとね。さあ
父と私が畳みかけるように
「………。はい、お父さん。」
家に帰って、父が母に事の次第を説明している間、私は突如増えた五人の弟妹の身体を調べた。結論から言えば、彼等はその家の恥とされたので、妻について負い目があり、一族から見て好ましくない父の所に寄越されたのだった。
こうして私は、血の繋がらない、下の世話が未だ出来ない弟の他に、一癖も二癖もある弟妹が一度に五人も出来たのだった。
彼等は皆、人前に一人では出られなかった。だが誰かが傍に付き添えば、何処にでも歩いて行ける。身持ちの悪い妻、育ちの遅い息子、外国から連れてきた息子………。父を取り巻く家族事情は酷く
ただ不思議なことに、父は
その幸せは、何年も続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます