第六話 エルサレム参拝

 私達の家族になった翌年、まさきびすは、一年遅れてエルサレムに詣でて、成人の仲間入りをした。しかしまさは相変わらず一つの物にしか興味を持たないし、きびすの足に少しでも骨が生えたかというと、そんなことはない。幸いにもきびすは、父の作った添え木を着けて、脇まである長い杖を使えば、走れるくらいには元気に育った。まさはそんな兄の杖に、炭で模様を描き、砂で消してまた描いて、ということを繰り返すばかりで、相変わらず禄に喋りもしないし、喋ったかと思えば、同じことを繰り返すばかりだ。しかしその背中は、家族のうちの誰よりも雄弁であったし、耳はきちんと、自分への毀誉褒貶きよほうへんを聞き分けていた。喋れない訳ではないので、道行く人に気付けば大きな声で挨拶をするし、なにかをしてもらったならば、やはり大きな声でお礼を言う。この辺りは偏に、母の教育と訓練の賜であろう。まさは多くの女の子が然う育つように、伝承を復唱したり料理をしたりすることは出来なかったが、それはやる気がないだけであって、時たま興味を持つと、素晴らしい成果を挙げた。父も母も、まさが最低限独り立ち出来るほどの技量を持ち合わせたので、ホッとしていたようだったし、私もとりあえず、娼婦や妾商売にならずに済むだろうから、何も心配していなかった。

 一方で、私、きんけいきびす、そしてひこばえは、父に大工仕事を教わっていた。大工と言っても、石を積み上げたり、窓を直したり、軛を削ったり、以外と使う素材は沢山あって、どれも器用にこなすには、十二年という人生はあまりにも短い。しかし父は、私達に職人としての早成を望んではいなかったので、各々得意な大工仕事という物を持ち始めていた。

 きびすは長い間立ったり、中腰でいたりすることができないので、石や木を素早く測り、正確に切り出すことが得意になった。定規をあてないでも正確に切り出すことが出来る。きんは上を向くことが出来ないので、窓や家を作ることは出来ない。しかし井戸を直したり、水をくみ上げたりと言った、中腰が続くような作業は得意だった。ただ井戸という物は、そうそう壊れる物ではない。きんは家族の仕事や、時に老いたやもめが井戸で四苦八苦しているのを手伝ったりして、近所から好かれていた。これから嫁に行く、嫁を貰う、子供を産む、育てるという心配が無く、悪い言い方をすればあとは死ぬのを待つばかりの老いたやもめ達にとっては、きんという傴の穢れなど何も怖くない。けいはとても丁寧な正確で、道具の手入れや修理がとても上手かった。出来た? と聞いても、もういいよ、と言っても、相変わらず「んむ、んむ」としか言わないが、けいとの会話は、それで十分成立した。ひこばえは、石を持たせれば落とし、金槌を持たせれば自分の指を打ち、すわ、この子は何もできないかと思われたが、意外なことに軛を作ることに欠けては誰よりも上手かったし、上達も早かった。牛やロバの首の形を、ちゃちゃっと測り、正確に削り出す。

 私達兄弟の中で、きんひこばえは、一番近所受けが良かったが、それも穢れに関係の無い、老寡ろうかに限ってのことだ。

 私は―――有り体に言えば、器用貧乏だった。父に長男として認められたことが嬉しくて、応えようとして賢明に努力したが、どれも中途半端な出来映えで、ひこばえより良い軛が造れたことなど一度も無かった。私は石を計るのにも木を計るのにも、大体五回に一回は間違えるし、その一回が三回目くらいになると、数字の上では合っているのに何故か上手く行かないという間違いになる。暗唱こそ父の英才教育と母の補習で完璧だったが、それは兄弟全員が出来ていた。けいは喋ることが出来ないので確かめようがないが、ひこばえは何の根拠があるのか、「分かってる」と断言していた。

 ちなみに、そそぐであるが、彼は流石にめくらなので、父が大工仕事をさせなかった。しかし乞食もさせなかった。そそぐはめくらなので、指先が鋭い。本来なら女の仕事だと嘲笑われることもあったが、そそぐは丁寧に粉を練り、野菜を切り、火加減もどうやってか知らないが完璧で、今では母と一緒に台所に立っている。指先の感覚だけで、私達よりもよく食材を見極めていた。私は調理器具で何度か火傷をしたが、そそぐ蹴躓けつまずいて落とすことはあっても、火傷はしなかった。火の位置や物の温度は、指先と、あと理屈は分からないが、鼻の奥で分かるらしい。一方でかずは、皮膚の欠片が落ちるので、家事は殆どやらなかったが、暗唱を頑張っている。覚えだけなら、私と同じくらい良いだろうし、まだ八歳だから、これから可能性も開けてくるだろう。

 父は職人として厳しく私を育てる他に、大工という自治に関わる者としても私を厳しく育てた。私は職人としては上手く応えられなかったが、自治に関してなら、そこそこに応えられていたと思う。それは、兄弟を纏めるという意味でもそうだった。


「ヒコ兄、ヒコ兄。いよいよ明日だね、エルサレム神殿に行くの。」

 夜、ひこばえかずの身体に香油を塗ってやっていると、その匂いを嗅ぎつけて、そそぐが近寄ってきた。けいは兄がやってきたことを喜び、自分の隣に座らせる。

「そうだね、楽しみだな。ボクが赤ちゃんの時に行ったっきりだからね。」

「お土産とか、何があるのかな。」

「あんまり大した物は無いと思うよ。」

「えー、何か持ってきてよ。神殿に落ちてる石ころでもいいから。おらも神殿みたいよう。」

「そんなのでいいの? じゃ、神殿の壁から取ってくるよ。」

 大工の子あるまじき発言をしたので、私はひこばえの脳天に拳骨を叩きつけた。

「この馬鹿! 神殿を壊す大工がいるか!」

「―――ったァーーい!! うわああん、母ちゃん、にっちゃが叩いたー!!」

「十二にもなって母親を呼ぶな、この男女おとこんな、しっかりしろ!」

「痛い痛い! にっちゃ痛い!」

じゃない、兄ちゃんだ! いつまで赤ちゃん気取りしてるんだ!」

「ぎゃーん!」

 段々苛々してきて、ひこばえを叩く私の拳にも力が入る。喧嘩の気配を感じ取り、けいが大声を出し始めた。静かにしなければ、けいが怖がっている。そう思うのに、めそめそと泣いているひこばえを見ると、どうにも胸がざわついて仕方が無くて、叩く手を止められなかった。

 泣くな。泣くな。泣くな。

 子供のように泣くな。女のように泣くな。そんな風に―――、泣くな!!

「何してる瞻仰せんぎょう! 止めないか!」

 父が起きてきて、逆に私の頬を張った。泣いているかずを、母が抱きしめてあやす。漸く心の漣が凪に近づいてきて、仕置きを受けなければと二撃目に備えて目を閉じようとすると、ぐずぐずと鼻を啜りながら、ひこばえが私と父の間に入った。

「父ちゃん、いいよ、もういいよ。にっちゃは止めてくれたから、もういいよ。」

「………。いいか、瞻仰せんぎょう。お前は長男なんだ。弟や妹を護らなくちゃいけない。そういう風に育てたはずだぞ。」

「はい、お父さん。ごめんなさい。…ヒコもごめん。兄ちゃん、お前が赤ちゃんみたいだったから、明日成人するのにって思って、心配になったんだ。」

「うん、うん。知ってるよ。大丈夫だよ、にっちゃ。」

 それでもひこばえは、私の事を『にっちゃ』と呼ぶのを止めなかった。………この頃、もっとしつけるべきだった。

 翌早朝、まだ太陽も昇りいらないうちに、父母、ひこばえ、私、それにくじで決めたきびすは、エルサレムに向かって出発した。家のことは、くじで決めたまさと、それからそそぐ、近所の老寡ろうかが面倒を見てくれる。


 エルサレム参拝の行列に合流してから、更に歩いて五日ほどかかり、エルサレムに到着した。神殿に着く頃には、きびすは水筒の水を飲みきってしまい、汗もびっしょりとかいていた。ひこばえが途中から半分背負っていたので、ひこばえも汗だくだった。

「わあ、わあ! ここが、ここがエルサレムなんだ!」

 しかしエルサレムの門を潜ると、ひこばえはそんな汗もすっかり引いて、もういいよ、ときびすが離れるや否や、きゃっきゃと走り出して行った。

「あ! こら、ヒコ! ―――お父さん、お母さん、きびすと居て下さい。連れ戻してきます。」

 人混みではあったが、ひこばえを追うのに苦労はしなかった。ぶつかっているのか何なのか、生贄用の鳩がやけに騒いで、何匹か逃げ出しているのだ。

「ヒコ! ヒコ! こら、はしゃぐんじゃない、戻れ!」

 何度も呼びかけたが、ひこばえのきゃーきゃーという楽しそうな歓声との距離が縮まらない。いつの間にあんなに足が速くなったんだ、と思うほどに、その時のひこばえは速かった。やっとの思いで追いついたときにはすっかり息が上がってしまっていた。

「この、馬鹿ヒ―――。」

 叱りつけようとして、思わず振り上げた拳を降ろした。

 ひこばえは大衆の面前も物ともせず、跪いて胸を打っていた。夕べまでのあの乳臭い態度がどこかに行っていて、その横顔は泣いているようにも見えたのを覚えている。

 私は気を改めてひこばえの隣で跪き、あまつさえ神聖な境内の中で暴力を奮おうとしたことを深々と反省した。私が気持ちを整理してそっと目を開くと、いつの間にかひこばえが目の前にしゃがみ込んでいて、私の顔をじぃっと見つめていた。

「ウフッ、にっちゃ、お祈りしたの?」

「うわっ! 脅かすな! そんなことより、ダメじゃないか! きびすがあんなに疲れてるんだぞ、勝手に飛び出すんじゃない。」

「えへへ、嬉しかったんだもん。ねえにっちゃ、キビ兄が待ってるなら、パンを貰ってこうよ。」

「買うったって、お金、父さん達に預けたままだよ。」

「違うよにっちゃ、貰うんだよ。」

 そう言って、ひこばえは私の右の手を握り、こっちこっち、と、せかせかと歩き出した。

 ひこばえは、すぐ近くの貯水池までやってきた。病人達が、池の畔に集まって、もぞもぞと蠢いている。何か食べているようだ。

「こんにちは。」

 そう話しかけると、一人がくるっと振り向いた。片目が巨大な疣と吹き出物で見えなくなっている。恐らく、かずの皮膚と同じような都合の物だろう。

「おや、どうしたんだい、坊や。こんな穢れの吹きだまりに来るなんて。」

 彼は私が見えていないようだった。ひこばえは私の手を握ったまま近づいてきて、彼の持っている、緑がかったパンを指さした。

「お弁当が欲しいんだ。その半分でいいから、くれない?」

「こんな穢れたオジサンからわざわざ欲しがるんだ。訳は聞かないよ、もってお行き。但し、食べたあとはきつい酢水でお腹を膨らませなさいね。」

「うん、ありがとう!」

 あっさりとひこばえは交渉に成功し、差し出されたパンをぽんぽんと手で叩くと、緑の苔のようについていた黴が、かずの皮膚のようにぼろぼろと落ちて、白く綺麗なパンになった。器用に取るもんだな、と、ぼんやりと見ていると、ひこばえがパンを二つに裂き、はい、と、私に渡した。

「はいにっちゃ。これにっちゃの分。」

「は!? 何言ってるんだ、父さんと母さんときびすの分なんだからぼくが食べる訳にいかないだろう。…おじさん、恩に着ます。貴方の穢れが清められますように。」

「おや、これはこれは、綺麗な男の子に言われたものだ。ありがとうね、元気でね。」

「にっちゃ、早く行こう。」

 別れ際の男の言葉に何か違和感を覚えたものの、私はまたしてもひこばえに連れられて、その場を後にした。


 エルサレムの門の近くまで戻ると、父ときびすが座り込んでいて、母はいなかった。入れ違いになったか、と、ひやりとしたが、私達の後ろの方から合流してきた。母は葡萄ぶどう酒を買ってきたらしく、少しどたばたしたものの、予定より遅い昼食にした。

「それじゃあ、父さんはひこばえを神殿に連れて行くから、お前達は市場でも見ていなさい。」

「お父さん、弟や妹に買っていくお土産を探してもいい?」

 それを聞くと、ウーム、と、父は唸った。

「去年、きびす達を連れてきたときもそうだったが、結構穢れを持ち込む奴が増えている。気をつけなさい。」

「あなた、そうじゃなくて、お金の話をしているのよ。」

「ああ、すまんすまん。じゃあほら、瞻仰せんぎょう。お前の掴めた硬貨の分だけ、買っておいで。買いすぎるんじゃないぞ。」

 父はそう言って、金袋を自分の手に乗せて、私に差し出した。ちょろっと見ていると、少額な硬貨ではあるものの、結構な量の硬貨が入っていた。

「お父さん、こんなにどうしたの?」

「ほら、国王がツィポラを拡張工事するのに大工を集めてただろう。その前金だ。崩しておいたんだ。瞻仰せんぎょうは毎日帰っても大丈夫だろうが、父さんは多分毎日は帰れない。数日おきに帰ってくることになると思うよ。」

「分かったよ、お父さん。じゃあ、お父さんがいない間に使えるようなもの買ってくるよ。」

 そう言うと、父は安心したように笑った。遠慮無く私が金袋から硬貨を掴むと、十枚のアサリオン銅貨と、デナリオン銀貨が一枚取れた。

「兄さん、これ、いくら?」

 きびすが首を伸ばし、一枚、二枚、と数える。母も立ち上がって、覗き込んだ。

「わかんないけど、換金する必要が無いお金だから、大丈夫だよ。お母さん、きびすを任せてもいいですか。引ったくられないようにぼくがお金を持っておきます。」

「ええ、ええ。いいわよ。あなた、ひこばえ、行ってらっしゃい。私達は市場に行くわ。」

「じゃあ、日の落ちる前にここで。気をつけるんだよ、三人とも。」

 父とひこばえとは、そう言って分かれた。


 母がきびすの右腕を支え、私は半歩前を進んで、市場まで下りていった。市場では換金商ががなりたて、盲目の老婆が客の掌を指先で触りながらなにかぶつぶつ言っている。牛や鳩が繋がれていて、生贄用の市場はごった返していた。はぐれないように母の右腕を取り、なんとか普通の店が並ぶ方に向かう。

「お母さん、きびす、大丈夫だった?」

「私は大丈夫よ。きびす、貴方は?」

「少し疲れたかな。兄さん、買い物が終わったらどこかで休憩しよう。」

「こっちの方の店は、露店じゃないから少しはマシだよ。じゃあ、お弁当も買おうか。」

「お金足りるの、兄さん。」

「………。たぶん。」

 私は異種硬貨の計算が苦手だったので、その時いくら手元にあるのか分からなかった。ただ、三人分の弁当を買ってもちゃんとアサリオン銅貨が四枚残ったので、これで買えるものを買おう、ということになった。

 通りからあまり外れると物乞いに囲まれるので、私達は貯水池の近くに座り込んで、弁当を分けた。私が感謝の祈りを捧げて食べていると、誰かが近づいてきた。

「お前、きびすじゃないか?」

「んっ!?」

 きびすが村の外に出ることはあまりない。自分が呼ばれたことに驚いたきびすは、パンを喉に詰まらせて驚いた。私が顔を上げると、私も知らない顔だ。精巧な顔立ちで、ぼったりとした鼻と唇を持った、実に男らしい男だ。だが落ち着き払っている風ではない。半人前特有のやんちゃな目を持っていた。

きびす、知ってる人か?」

「………。………。あ! 若様!」

 お久しぶりです、と、きびすは慌てて立ち上がり、頭を下げた。きょとんとしている私と母に、きびすは彼を紹介する。

「母さん、兄さん。この方は嗣跟つぐくびすさま。カペナウムの網元の、礼物あやものの旦那様のご嫡男だよ。父さんと母さんに引き取られる直前、この方が、添え木を下さったんだ。若様、どうぞお座り下さい。」

「おお、じゃあ邪魔するぜ。―――いやぁ、久しぶりだな。お前、いくつになった?」

「十三です、若様。」

「そうかそうか。末の妹が今年参拝だから、そんなもんか。」

 にこやかに話す嗣跟つぐくびすという男が、私は少し苦手な雰囲気だった。きびすの顔も、なんだか少し引きつっているような気がする。私はそっと、ぺたんと座っている母の隣に移動して、距離を取った。

「その後お変わりありませんでしたか。」

「ああ、この間穏女やすきめ母さんに末の弟が生まれてな。今日はその子を捧げに来たんだ。」

「それはお目出度いことで。お名前はなんとなされたのですか。」

恩啓おんけいだ。良い名前を貰ったもんだぜ、俺なんか『かかと』だってのによ。」

「でも、過去に神の祝福を勝ち取った方の名前ではありませんか。長男で初子ういごなのですから、これより素晴らしいお名前はないかと思いますよ。」

「お、よく知ってるじゃねえか。ちゃんと教育してもらえたのか?」

「ええ、こちらの兄が、とてもよく出来ていたので。」

「ぶっ。」

 突然話を振られて、私は口に入れていた葡萄ぶどう酒を吹き出しそうになった。慌てて咳き込んだフリをすると、母が真に受けて背中を擦る。

「兄? こいつ、男だったのか?」

 失礼な奴だな。

「お初にお目にかかります。弟がお世話になったようで。」

「ふーん、声は男の声だな。………ホントに男か? 髭ももみあげも、ろくすっぽ生えてねえのに。」

「はい、ホントの男でございます。髭ももみあげも、薄いだけです。」

 嗣跟つぐくびすはじろじろと私の顔を見て、不躾に頬や耳周りを触ってきた。気持ち悪くて鳥肌が立つ。それでも私の顔の一部に、少し堅い産毛があることが分かると、やっと納得してくれたようだった。

「あ、そういえばさあ。」

 散々人の顔を撫でくり回しておきながら、彼は私に何も言わなかった。

「五年くらい前だっけ? お前が貰われてったの。」

「七歳になる直前だったので、六年前ですね。」

「うちのおもうさんが、お前達をまとめてナザレの遠縁に渡した日の夜、珍しく女を買いに行ってさ。ずっと穏女やすきめ母さん一筋だったのに、いきなり外に買いに出かけたんだよ。なんでも聞いたら、お前の父親になった男が連れてきた子供が、自分に性器を見せて迫ってきて、良からぬ誘惑をしてきたらしいんだけど、お前、それが誰か知ってる?」

 そういえばそんなこともあったっけなあ、と、ぼんやりと考える。私にとって特に恥ずかしい記憶ではなかったが、きびすは答えに困り、私に助けを求めて見つめてきた。私は答えた。

「さあ、父からは何も…。」

「そうかい? もしお前達のところに、そんな身の崩れた奴がいるなら、渡した方としても気になるんだけどなあ。」

「お気にすることなどありますまい。律法に背いたことなどしていないのですから。」

「そうか?」

「ええ、そうでしょう。」

 すると彼は、私をまたしてもじっと見つめた。そして何かムムムと考えると、何かに納得が言ったような顔をして、立ち上がった。

「…ま、その内機会があったら、だな。」

「ナザレにいらっしゃるのですか?」

「ああ、今ツィポラで工事があるから、職人が集まるだろ。あそこまでうちの魚を運ぶ仕事でね。帰り道にお前の家に寄るかもな。」

 来ないでくれ。

「昼間のうちに仰ってくれれば、晩餐のご用意をしてお待ちしておりますよ。」

「お母さん!」

「あら瞻仰せんぎょう、何か問題でも? お父さんのお昼ごはんを持ってきて下さる方なのに。」

「へー、お前、瞻仰せんぎょうっていうの。」

 あまり知られたくなかったが、母に悪気はなかったので、私は改めて自己紹介をした。

漱雪しょうせつの長男の、瞻仰せんぎょうと申します。弟が世話になったとの由、初耳でした。」

瞻仰せんぎょうか。十二部族の一人の名前だ、いい名じゃねえか。お前とは随分格が違うな? きびす。」

「それは違います、若様。父はおいらの産みの両親の気持ちを尊重してくれただけです。」

「フーン。まあ、一度に五人も増えたそうだし、新しく名前を付けるのも大変だろうからな。…さて、オレはじゃあそろそろ行くかね。もううちのの参拝も済んでるころだろ。妹達に上着を見繕って行かなきゃなんねえしな。」

 よいしょと立ち上がって、嗣跟つぐくびすは伸びをした。去り際にもう一度私の顔を見つめて―――一瞬笑ったような気がした。だがそれも本当に一瞬で、すぐにその場を立ち去ってくれた。

「………はあ。」

 誰の物とも言えない溜息が出た。

 私達はその後、残った金で、小さな皿を買い、父とひこばえと約束した場所に戻った。この皿に色々な食べ物を入れて、皆で食べることにしよう。

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