第四話 毒婦の娘達
父はエジプトを発つ時、私の服を全て、自分の襤褸を繕い直したものと取り替えた。前日の夜には、私が引き取られる直前、おのこしをエジプトの外に出さないように、否、より正確には、おのこしは全てエジプトの
しかしその洗浄は決して乱暴なものではなく、私は寧ろ、久しく感じなかった、文字通り身も心も清潔であるという歓びに打ち震えていた。父が自分の子供として私を迎える為に、何か自分の中で折り合いを付けようとしているというのは分かったが、少々やり過ぎなような気もした。それでも父が絶え間なく、これから私が『帰る』国であるイスラエルの昔話や、仕来りを話して教えてくれていたので、それをフンフンと聞いているのは心地よかった。
それらの話は断片的で、私はその欠片の前後関係を整理するのに何度も質問したけれども、後にも先にも、父が私に、苦しみの根源の話を―――何故に悩むのか、その根拠の話を吐露したのは、この時だけだった。
父は、大王の嫡子であり、賢王の子の子孫に生まれついた。しかし、今や大王の子孫はイスラエルを統治してはおらず、エドム人の王がその玉座にかじりついている。私がイスラエルを離れるきっかけになったあの赤子殺しも、この出自の先王がやったことだと教えてくれた。父はその時、産まれたばかりの
イスラエルを最も繁栄させた、しがない元羊飼い、最後には最も偉大なる王として死んだ大王。その嫡流と
少年時代は、養父の大工仕事を
そんな父の元に、家系が途絶えてしまいそうな家がある、と、使いがやってきた。父が十二歳の時、成人し、エルサレム神殿に詣でたばかりだったという。
聞けば、その使者は父が元々住んでいたナザレから離れた、漁村カペナウムの網元から使わされた者だった。彼等は律法を司る家系の末裔であり、また、エジプトから民を導いた古の大祭司の血筋の娘である
詰まるところ、妻にする予定の女の母親の汚名を打ち消す手助けをしろ、という事だったらしい。少なくとも父はそのように解釈しているが、とにかくこのように複雑で長い前置きだったので、よく分かっていないという。
「結婚って、難しいね、お父さん。」
「いやあ、普通はね、もっとこう、仲人さんがちゃんとした人を探して、間に入ってくれるもんなんだけど…。少なくとも、僕の母さんはそうだったんじゃないかなあ。」
父はそう言って、言葉を濁した。しかし、少なくとも私の母になり、父の妻になった
イスラエルに戻った時、私が多くの人々にエジプト人と間違われないように、律法もたたき込まれた。石版に記されたという十の戒めは、三日三晩かけて、その具体的な罪の内容と、どのように処刑されるかを聞かされたので、悪夢に苛まれる事もあった。けれどもそうすると母は、すぴすぴと眠る
「お父さん、イスラエルに戻ったら、何処の町で暮らすの?」
「ナザレだね。北の方の外れの町だ。だから、国に戻っても暫く旅をしなければ。」
「南の方から入るから、エルサレムが近いわ、あなた。
「生贄を買う蓄えはないから、神殿を見るだけだな。それでもいいか、
「はい、お父さん、お母さん。」
私がそう答えると、私に背負われていた
道すがら気付いたのだが、
「ふえええん、にっちゃ、にっちゃぁ。」
「ん?」
砂漠を歩いている時、唐突に
「お父さん、お母さん。
「あら、また?」
「酢が足りないのか? あまり腹を下すようなら、エルサレムで医者に診せなきゃな…。」
すみません、と、頭を下げて、私は砂の盛り上がった所の影に隠れ、
「はい、しーしー。」
「いちゃいのー。」
「はいはい、悪いものは出しちゃおうね。」
いたいいたい、と繰り返しながらも、
「にっちゃ、もーいーの。」
「はいはい、じゃあふきふきしようね。」
襤褸布に砂を纏わせ、少しだけ汚れた
「お待たせしました、お父さん、お母さん。きれいにしてきたので、行きましょう。」
「ありがとうね、お兄ちゃん。」
「兄は、弟の世話をするのが当たり前ですから。」
私は照れ隠しにそう言った。母の無邪気な笑顔を見る度に、父の表情は、雲が形を変えるように変わった。父の心には、いつでも砂嵐が吹いているようだった。
かんかん照りの砂漠を歩くこと二十日、私は四年ぶりに祖国イスラエルの風を受けた。私は砂漠を歩いているうちに誕生日を迎えていたので、その時七歳だった。
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