第三話 弟
一体どういう風の吹き回しかと、尋ねる雰囲気になれないまま、彼はあるぼろ家まで来た。恐らくここが彼の家なのだろう。
「戻ったよ、
扉を開けると、中は薄暗かった。戸締まりをしているからだ。中は綺麗で、生活感がなくなっていた。
「お帰りなさい、あなた。」
「○×!」
形容しがたい人の声がして、ぎょっとして目をこらす。
「あなた、その子が昨日話していた子?」
「ああ、そうだよ。―――さあ、挨拶をしておやり。」
「よろしくね、今日から貴方の弟よ。
「ひこばえ。」
私はそのような名前を初めて知った。イスラエルではありふれた名前なのかすら分からなかった。私はずっとエジプトにいたし、客は皆、名前では無く、『旦那様』『お兄様』『父上』『ご主人様』と呼ぶことを望んでいたから、エジプト人の名前についても明るくない。
「………。」
「………。」
私が神殿で見ていた、産まれたばかりの赤子や、死んだ赤子とは全く違う。この子は生きていた。
「お兄ちゃん、貴方の名前は?」
「………?」
「そう、貴方の名前よ、お兄ちゃん。」
『お兄ちゃん』が私の事だと気づき、赤子の頭を取り落としそうになった。
「え、ぼく? ぼくは…。ええと、皆は
「まあ、そんな名前、いやだわ。ご両親はなんと名付けてくれたの?」
「ええと…。ええと、…なんだったかな。」
必死に頭を動かしたが、思い出せない。普段から人の名前なんて気にする生活ではなかったからだ。私が困っていると、
「この子さえ良ければ、僕達でつけてあげよう。この子は
「せんし!?」
何処を如何すれば、男娼の子供を戦士に宛がうなどという馬鹿げた発想が出来るのか。私は自分をじっと見つめる
「まあ、それはいいわ。私はもう子供を産むつもりは無かったから、一度名付けがしたいと思っていたの。何が良いかしら、何が良いかしら。」
楽しそうに空中に文字を書く視線を見つめながら、
「決めたわ、
三日月の様に微笑むその瞳に、侮蔑の眼差しは無かった。きっと彼女にとって、エジプトにある神殿もイスラエルにある神殿も、大差ない事なのだし、そこには心の聖なる者が住まうと信じているのだろう。私はなんと言って良いか分からなかったので、
「きゃっきゃっ。」
「
「この子をよく護ってもらいたい。君なら出来ると思って、今日、迎えに行ったんだ。」
「………、はい。お父さん、お母さん。」
お願いします、と、私は頭を下げた。よく分からないが、食べていけるのなら、生きていけるのなら問題はない。格闘技も剣も、棒すら禄に使えないし、生活の知恵は穴にしかなかったが、私はとにかく、新しい環境に置かれたのだから、そこで生きる事しか考えなかった。
………。………、ん?
「わああ! 漏らした! この子漏らした!」
「あらあら、さっきおむつを替えたばかりなのに…。お兄ちゃん、ちょっと…、あ、そうね、お兄ちゃんなんだから、おむつを替える事くらい出来なきゃね、いらっしゃい、教えてあげるから。」
………生きねばなるまい。
私は上着を敷いただけの床に寝かされ、自分で排泄の処理も出来ない小さな生き物を護る為にここに呼ばれたのだ。これくらい大きくなった赤子が排泄するのを、私は初めて見た。
ぴゅっ。
「うわっち!」
「あらあら、大丈夫? おむつを替えると、よくなるのよ。男の子だと、それが顔にかかるくらい勢いがあるの。」
「大丈夫か?
…子供も大人も赤ん坊も、シモの機能は一緒なんだな、と、しみじみ思った。
こんなに可愛らしい、小さな生き物も、自分と同じように排泄する。否、自分よりも無節操に排泄すると言う意味では、自分よりも不潔と言えるだろうか。だってこの子は、大便の後に尻を拭くことは勿論、小便をした後に振る事も出来ないのだ。そうとも、その意味では、私はこの生き物よりもずっと清潔だし、自立していて、自分の足の土埃を落として、いくらでも清潔な床で眠ることが出来る。この生き物は、こんな獣にも劣るような行為をして、何の屈辱も感じない。私の弟がこれくらいだったとき、既に人の言葉を話していたような気がするのだが、この子はまだ発音がちゃんと出来ていなくて、聞き取れない。そんな生き物と私と、どちらがより、らしいかと言えば、私の方がよっぽどらしいのだ。
そんな、普通の家庭を持っている子供なら考えもしないような事を考えて、少しホッとしていた。この家には、綺麗なものだけじゃなく、ちゃんと汚いものもあるのだ、と。
私は新たな家族と共に、エジプトを発った。目指すは北、祖国イスラエルである。
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