第二話 浮気な青年

 六歳ともなれば、成人するのが十二歳くらいであることを考えると、半分の人生を歩んだことになる。多くの子供は、その頃には既に父親の仕事を手伝い始めているし、女子であれば、両親が許嫁を愈々いよいよ紹介してくる程の年だ。少なくとも私は、故郷イスラエルの慣習を忘れておらず、エジプトにあっても、イスラエル人として育った。エジプトの神殿には、遙かな昔、出て行かなかった奴隷の子孫や、出稼ぎのイスラエル人が少なからずいた。そして彼等は己の神の祭壇を作ることを怠け、エジプト人の現地妻と共に神殿に来る事があった。その中で、故郷の香りや言葉を使う娼婦は、少なからず人気だった。外国にきて外国語ばかりを喋るというのは、とても窮屈だからだろう。それとは別に、『正義感』のために、態々買う者もいた。………これについては、あまりにも娼婦達が哀れなので、説明を差し控えたい。

 身も心も『大人』になる前の子供に、性別の違いはない。ただ神殿で神の依代となり、客と共に交わることは、自分のあらゆる『らしさ』と引き替えにしても良いくらいに、生活の基板を支えてくれる。私は終ぞ男であり、妻を娶らなかったので詳しいことは分からないのだが、この六、七歳の頃には既に、子袋を傷めて子供が産めない身体になっている『子供』は、多かったと思う。

 そのような事情を分かっているか否か、或いは、それをどのように裁くか、目の前の男はその四つの選択のうち、どれとどれを採択しているのか、娼婦達は生き抜く為にそれを次代の幼い娼婦達に教えていくので、いつでも目がぎらついていた。結局の所、彼女達は固定客というものを常日頃から奪い合う仲でもあったからだ。それを思うと私のような子供の男娼や、或いは子供を孕めている娼婦など、一度その手の味を占めたなら動かない客を持つ者は、どちらかというとのほほんとしていただろうと思う。自分の事だけを考えていればいいのだから。


「ひょわっ! 冷たい!」

「黙れ鉤鼻かぎばな。膿んだら面倒だぞ、ちゃんと洗え!」

 毎朝、ナイル川が星の燦めきを天に返す頃になると、私達は店じまいをして、銘々に身体を洗った。娼婦達は一人の客を取る度に洗いに行くが、抑も回数が少ない私達は、群れて洗いに行き、自分では出来ない所まで洗う事の方が重要だからだ。

「しくしくするぅ…酢がきついんだよ! 油、油は?」

「そんな上等なもんあるか、ツバでも付けとけ。」

 私達のような色物は、存在そのものに大きな違和感があると同時に、需要も確実にある程度ある。だから一人の客をずっと取れるように、自分の身体の手入れや、消毒、手当の方に気を遣った。目の前の男娼や、訳あり娼婦は決して自分の客を奪わないからだ。もし客が奪われるとすれば、それは自分の商品価値が失われたときだ。だから私達は、自分が自分でなくなることを最も恐れた。

鉤鼻かぎばな、お前、今日は二人もとってたけど、大丈夫だったかい。」

 最近私達側に来た、妊婦の娼婦が、身体を手拭いで擦りながら聞いてきた。

「どっちも中折れの早漏だったから平気。ちょっと裂けたかもだけど、痛くないし。」

「イヤだよ、全く! お前さんみたいなカワイイ子が、そんな汚い言葉使うご時世なんてねェ。」

「よく言うよ、おっかさんよ。そういうお前さんだって、テメェのくせぇ汚門戸おまんこにぶっかけて貰わねえと、おまんまの食いっぱぐれじゃねえか。かわいいかかわいくないかなんて、そんなもなァな、親がちゃんといて、跡継ぎがいて、処女の娘がいる奴が使うお世辞みてえなもんだ。連中、胃袋以外にも腹を持ってやがる。そいつを満たすにゃ、言葉と女しかないんだと。」

「なんだいそりゃ。食費がかさむのかい? かさまないのかい?」

「知らねーよ。俺に親と跡継ぎと処女の娘がいると思うのかい。…ほら鉤鼻かぎばな、洗ったんなら出ろ。ふやけたらふやけたで、めんどくさいぞ。」

「うわすごい音した! こら! ぼくのおしりは商品なんだぞ、大事に扱えってンだ! ヒビが入ったらどうする!」

 いつも軽口を叩きながら、パロの治世に文句を言いながら、身体を洗う度に、私達の身体に、何かどうしようもなく、べっとりとして、軟らかいのに硬いものが、覆われていくのを感じていた。金や食ベものを得なくては生きていけない事は、初めのあるじの元にいるとき、様々な使い捨てを見ていて理解していたつもりだった。恐らく私は今でも、そのように理解できているだろう。しかし同時に子供ながら、殺された両親や、名前も忘れてしまった小さな弟に、軽蔑されているような感じが、猛烈に襲ってくることがある。

 そんな時は、とっとと品物の手入れをして、客が品物を傷付けないための道具を仕入れて、さっさと寝るに限る。

 ただその日は、それをすることすら出来なくて、川から上がって少し歩いた所の岩陰に隠れてしゃくりあげた。ひっく、ひっくと、肩が震えることはあっても、何時の頃からか、私の眼からは涙が流れなくなった。欠伸をした時に、すこし目元が湿るくらいで、めっきり私は、涙を流さなくなっていた。それと同じように、胸が縦切りになって風が吹くような感じこそするが、痛いと思うことも無くなっていた。身体を売り物にする以上、痛みが無くては、商品を綺麗に保てないので、困るのだけれど、痛くないものは痛くないのだ。尻が裂けても、口の中を噛んでも、指を切っても、抜か六の相手をして腹を下したときでさえ、私の身体が痛むことはなかった。

つまり、私にとって、病気や怪我は、不便や不具合と言えるものだった。私は『心が痛い』という表現を知らなかった。そしてその表現を知った今でも、きっとその頃の私は、『心が痛い』という事は無かったと想う。

「かあちゃん…とおちゃん…。」

 ―――その言葉を、あの人は聞いたのだろうか。否、きっと聞いていないのだろう。

「坊や、どうしたんだい? そんなに薄着で…。風邪を引くよ。」

 私に声をかけた青年もまた、苦しそうな顔をしていて、とても人の苦しみに寄り添える余裕があるようには見えなかったのだから。


 青年は漱雪しょうせつと名乗った。私と同じイスラエル人で、数年前に訳あってエジプトに、妻と子供を伴ってやってきたのだという。彼がそのようにしなければならなかった理由は、幼いながらにいくつも考えついたが、それを突くと客にならないかもしれないので言わなかった。子供が幼く、しょっちゅう転んでは泣き、転んでは泣きを繰り返すので、傷口につける油がいくらあっても足りず、四六時中油を買いに行かなくてはならないのだという。私がどこにも身体の痛いところの無い事が分かっても、漱雪しょうせつは自分の上着を脱いで、私の身体を包み、懐に抱いて温めて気遣った。彼はどこまで私の生活を推し量れたのか、今度服を持って来るからどこにいるのか教えてほしいと言った。私は困った。

 衣服には困っていなかったが、彼が前述の四択のうち、どれとどれを選んでいるのかが分からない。下手に私が娼婦の仲間だと、イスラエル人のくせにエジプトに住む異邦人、特にギリシャ人に自分の性器を量り売りしているなどと知られた時に、自分がその後生きていけなくなるようなことにはなりたくなかった。私は神殿の丁稚だと答えた。神殿に奉公に上がれるようなちゃんとした家庭の子供が、こんな夜中に人知れずしゃくり上げているなど、不自然にも程がある。しかしその時の私には、そうとしか答えられなかったのだ。

 案の定、漱雪しょうせつは何かを悟って、私を労るように抱き上げると、私が住んでいる聖牛の女神の神殿まで連れてきてくれた。そしてお金はないがと断り、一本の木片を私に渡した。

「今日、窓を直すのに使った木の余りだ。もし僕が次来るまでに辛いことがあったなら、これを使って身を守りなさい。」

 それは刺すには鈍く、殴るには軽く、投げるには小さかった。当時の私の掌の中にすっぽりと収まるくらいの大きさだった。しかし、これを握って殴りつければ、少しはマシかも知れない、と、思い至り、私はそれを受け取った。

 漱雪しょうせつは、昼間は働きに出ていて、妻子の世話にも忙しいらしく、昼は来なかった。その上贈り物を買う金も無ければ、私自身を買う金も無かった。なので、いつも会うときは夜で、身体を洗いに行った川の近くで、彼が先に焚火をして待っていた。彼は私の昼間や夕方以降の生活に口を出さなかったので、私も彼の内面に踏み込もうとは思わなかった。

 彼が何か大きな淀みを抱えながら、私を買ったのは、それからもう一度、同じ形の月が出ていた、店じまい間近の時だった。彼は神殿で抱くことを嫌がったので、神殿から少し歩いた郊外の川の畔まで連れて行った。漱雪しょうせつが抱き方を知らず、また商品の使い方も知らなかったので、私は漱雪しょうせつが満足し、私に依存し、私に溺れるように、丁寧に愛撫した。漱雪しょうせつはその甲斐あって、無事満足出来たらしかった。

「もし、人祖じんその呪いが、男も女も同じだったなら、男も子供を産んだと思う?」

「ふぁ?」

 口と顔を濯ぐ水面から顔を上げ、目を瞬かせる。何の話だっけ、と、ぐるぐる考えて、やっとの思いで思い出す。

「ええと…。人祖じんその女のほうが、神さまの言いつけを破ったから、だから赤ちゃんを産むときに苦しんで、時には死ぬって奴だっけ。」

「そう、よく覚えていたね。男の罰より、女の罰の方が重いんだ。だけど女に誑かされたからだって、罪をなすりつけた人祖じんそは、非常に男らしくないし、女々しい奴だ。だから、もしかしたら、もしかしたらだよ? もしかしたら、男の方に産みの苦しみが与えられていたかも知れないし、両方に産みの苦しみが与えられていたかも知れない。」

「ううん…。だから、それがなんなの?」

 何を言いたいのか分からず、私は顔を袖で拭いながら、あしらうように答えた。洗ったばかりで、少し冷えた身体に、漱雪しょうせつの麻の着物が張り付く。

「僕は、僕はね。十二の時に、僕と同じ大王の子孫の家の夫婦に長女が生まれたら、その子をお嫁さんに貰う事になったと聞かされた。その数年後、その夫婦に女の子が産まれた。年老いてから産まれた子だったから、神殿に奉公に行って、貧しいながらも良妻賢母になるべく研鑽してきたって聞いたんだ。僕はだから、そんな素晴らしい女性に跡継ぎを産ませるからには、素晴らしい夫であろうと、素晴らしい大工であろうと、僕なりに努力してきたつもりだ。彼女の処女を貰って、彼女の全てをお世話してあげるつもりだった。―――だのに、なんてことだ。僕が崇拝し、僕にあのかわいくて素敵な許嫁の恵みを与えたもうた神が、僕の妻を奪ったんだ!」

 その時、漱雪しょうせつは初めて吠えた。狼が肉を食い千切る様に吠えた。山羊が羊を突き殺すように吠えた。蛇が赤子の頭を噛み砕くように吠えた。私には漱雪しょうせつの言葉はこれっぽっちも分からなかったが、ただ目の前の慈愛に満ちた男もまた、家族を奪われた男なのだという事を理解した。私に出来るのは、妻が欲しかった、貞節を交換したかったと嘆く漱雪しょうせつから、その貞節を貰ってやることだけだった。

 金も、食べ物も、衣服もいらなかった。信仰に裏切られた漱雪しょうせつを、本当に可哀相だと思ったのだ。涙を浮かべて激情を口にしながら私を抱く彼は、それでも優しく、貝から真珠を取り出すように繊細だった。きっとこんな風に、彼の妻を抱きたかったのだろう。妻の不貞を裁かず、誰の男の種とも分からない子供を、妻の子だからと育てたいと思うほどに、漱雪しょうせつは妻を愛していたのだ。

 私も神殿娼婦が出産した後の顛末を何度か見ているから知っている。子供は一度産めば良いというものではない。身体が戻るまで、子供に割礼を施すまで、子供が死ぬ危険の時期を過ぎるまで、そして乳をやり終えるまで。沢山の行程を、仕事と同時にこなしながら行う。家も無く金も無い娼婦達が、食べる為に赤子をほったらかし、死なせて乾涸びかせて行くのを、それを繰り返してでも堕ろしたくないと泣きながら、死体を産む娼婦達を、何度も見た。

 だから漱雪しょうせつは、妻を想うあまり、自分の妻に仕切れないやるせなさがあるのだということも理解できた。彼の妻は、既に他の男の妻になったのだから、そしてその男が死んでいないのだから、漱雪しょうせつは妻にすることが出来ないのだ。妻を一人の男だけの女にしてやりたい、複数の男に抱かれる必要がある身分にしたくないと思うから。

 その話をしてから、漱雪しょうせつは私に何を求めたのか、酷く陰鬱な言葉と、優しい手管と、激しい歯軋りと、穏やかな涙で、私を抱くようになった。相変わらず、金も食べ物もくれない。それでも私が彼に対して男娼でいたのは、偏にそれが、勘定抜きの価値があると思ったからだ。

 私は、私の顔(商品)に口付け、見つめ、撫でる客を知らなかったのだ。

 無論私は男娼(商品)だから、求めてくる客がいなければ品質を維持できない。漱雪しょうせつはそれも分かっているようだった。だが、私が望むなら、いつでもその商売を邪魔してやる気概はあったらしい。………自分は何も対価に寄越したことなど無いくせに。

 そんな遊びにも、雨季が始まる頃になると、飽きたようだった。


 凄まじい雨季が終わりそうになった頃、急に、本当に全くの急に、漱雪しょうせつが現れた。但し、旅支度をして、だ。私の珍妙な客の事は、仲間達も知っていたので、また酔狂なお戯れでもするつもりかと、くすくすと笑った。漱雪しょうせつは彼女達を一瞥した後、座っていた私を軽々と抱き上げ、たまたまお忍びで来ていた祭司に詰め寄った。

「一つ聞きたい。この子を連れて行きたいのだが、貴方方はいくらあればこの子を引き渡してくれるのか。」

 祭司は少しの間を開けて、自分に声をかけられたことに気付くと、慌てふためいて漱雪しょうせつの口を押さえた。

「キミ、キミ! なんてことを言うんだね。ここにに話しかけるなど!」

「いいから! この子を連れて行くのに、いくら欲しいんだ、アンタ達は!」

 すると祭司は咄嗟に答えた。

「その子供は神殿の中に居座ってた浮浪児だ! 連れて行ってくれるのならどうぞお好きにされよ。わしらには関係の無いことじゃ。」

「ああそうかい、じゃあこの子は頂いていくよ。僕にはこの子が必要なんだ。―――世話になった。この子のことは僕が幸せにするから、今までありがとう。」

 仲間達に言っているのだと気づき、私は身体を捻って、手を振った。

「皆元気でねー!」

 呆然と嵐のような出来事を見ていた彼女達だったが、私達が神殿の境内を出た辺りで我に返ったらしく、すぐに追いかけてきて見送ってくれた。


 この後、終生に渡り、私は淫らな行いで生活の糧を得ることはしなかった。私はその誓いのため、それまでの神殿娼婦達がしていたのと同じように、髪を切ることをしなくなった。父も母も、私の髪の毛を褒めてくれ、母は髪の梳かし方や整え方を教えてくれた。

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