第一章 我が愛しの弟

第一節 導きの星

 私が初めて死体を見たのは、三歳の時だ。

 その年の春、ユダヤを統治していた皇帝が命令し、人口調査を行った。私は、首が座ったばかりの弟が、私の代わりに母に抱かれているのを羨ましく思いながらも、両親が生まれ育った村へ戻った。名前は覚えていない。私達は皆歩き疲れていたが、私は眠れなかった。いつもなら諦めるのに、その時は何故か、母が弟を寝かしつけているのが無性に羨ましくて、母に傍で寝てくれと駄々を捏ねて、夜遅くまで起きていた。父はさっさと寝ていたと思う。

「あ! かあちゃん、かあちゃん!」

「今度はどうしたの、お兄ちゃん。」

 風が入って来たのか、立てつけが悪かったのか、私の微睡んだ視界に、大きな光珠が飛び込んできた。いつも見る月よりも輝く、大きな月だった。

「みてみて、おつきさまが、ふたつもあるよ!」

「そんな―――あら、本当。大きなお星さまね。」

 母が良く見えるように、私の腰を持ち上げ、窓の外へ少しだけ顔を出させた。家のすぐ裏は、緩やかな崖で、その中を川が流れている。静かに流れる川にも星が瞬いていて、大きな星もまた、地において光っていた。

「ほら、とても強く光っているけど、お月さまではないわよ。」

「そーなの? おうちではみたことない。」

「そうね、エルサレムは夜でも働いている人がいるから、松明がいっぱいあったりするから、見えにくいのかも。この辺りで一番大きな村でも×××××くらいだからね。真っ暗だから、よく見えるのかも。」

、どれくらいおっきいの?」

「そうねえ、十五人家族のおうちが二十個はあったかな。それも何年も前に、お使いに行った時に数えてみただけだから。今は増えたかもね。」

「じゃあ、にじゅうにんのおもとだちができる?」

「そうだといいね。その為には、今は早く寝て、明日登録を済ませてから遊びに行きましょうね。」

「かあちゃん、いっしょにねんね。」

「はいはい、ねんね、ねんね。」

こんな具合で、私は寝付いた弟から母を奪って、母の胸に安らいだ。

母の乳房の間の匂いに包まれ、母の乳房を握り、谷間のほくろに吸い付いていた時間は、幸福だった。


突然外から悲鳴が聞こえた。それも、遠くから、近くから、凄まじい悲鳴がいくつもいくつも挙がったのだ。父が起きて、母は私ではなく、弟を抱きしめ、私の手を引いた。部屋の隅の甕の陰に私を座らせ、弟を抱かせると、私の前に背中を向けて座った。

 悲鳴が近くなっている。何か大きな怖いものが、迫ってきているのだ。

 ダンダンダンッ!

「開けろ! ここに子供がいるのは分かっているぞ!!」

「うるせえぞローマ人! 月がどんだけ高ェと思ってんだ!」

 父が吼える。がたがた、がたがた、扉を押し合っていたのだろうか。

「開けろ! 国王陛下の御命令だ、お前の子供は、男か、女か!」

「女だったら何だってンだよ! 悪いがソドムの二の舞になろうとしても、やれる処女ァいねえよ!」

「ええい、直接確かめてやる、邪魔だ!!」

「ギャーッ!!」

 母の背中がびくりと跳ねて、そこからかたかたと震えはじめた。一つの扉を破っただけでは入りきらないような大勢の足音が響いて近づいてくる。私の腕の中の弟が泣き出そうとしたので、私は慌てて口を塞いだ。顔を押しつぶすように、全身で口を塞いだ。

「邪魔だ!!」

「きゃあっ!」

 私の前にいっぱいに広がっていた母の背中が取り払われ、松明を持った兵隊が、私の頭を掴んで引きずり出した。

「いたいいたいいたい!! わああああああん!!!」

「おい、お前の抱いてるのは、弟か、妹か、どっちだ。」

「かあちゃん! とおちゃん! かあちゃんかあちゃん!」

 怖くて怖くて、私の身体は口の周り以外のどこにも力が入らなかった。ごとん、と、音がして、私の腕から弟が落ちる。弟は悲鳴を挙げなかったが、その代わりに血飛沫を上げた。

「女だったらどうするんだ! しっかり確認しろ! 女は資源だぞ!!」

「あほか! 人が足りない、この後更に北に行かないといけないんだぞ! 一々確認するのァ、×××××だけで十分だ! 貧民のガキで二歳以下なら皆殺しにしちまえ! 一人でも残ってたら俺らが殺されるぞ!」

「止めて!! 殺さないで!!」

「チョーさん、この女も死んだことにしていいっすか?」

「つまみ食いなら仕事が終わってからだ。―――泣くな!! お前はいくつだ!!」

 私は何か言ったと思うのだが、思い出せない。ただ、漸く恐怖の時間が終わった時、私の頭を掴んでいた筈の男が、目の前で転がっていて、川へ遊びに行った時のような悪臭が広がってきていた。

 母が、男に抱きついていた。母の服は破けていて、肌からはもう、良い匂いはしなかった。髪がぐちゃぐちゃに乱れていて、あれはもしかしたら、骨だったのかもしれない。思えば腹に突き刺さった槍ごと、私を掴んだ男に掴みかかって、腹の槍を使って突き殺したのだろう。ただその時の私には、この家に生きている者は自分しかいないと言う事だけは分かった。

 その時私は、三才だったはずなのに、他の子供よりも、死を理解していたのだと思う。目の前で死体が大小四つ、並ぶと皆、そうなるのだろうか。

 私は日の出まで、彼等の身体に蛆が湧くのを見ていた。数えるように観ていた。誰も人は来ず、家の外はずっと人の狂い泣く声がしていた。私は誰に言われたわけでもなく、家を出た。乳は勿論、ここではパンが食べられない。お腹が空いたのだと思う。

 家を出た時は暗くて、道は分からなかった。太陽が照らす道は暗黒で孤独であった。途方もなく歩いていると、馬車を引き連れた大きな旅団が休憩している所に行き当たった。私は腹が減って、野営をしている食卓に近づいた。

「うわっ! なんだこの子供は!」

「まあ待て待て、昨日の国王の気紛れを生き残った孤児か何かだろう。仕入れる手間が省けた、このままエジプトに連れて行こう。」

「坊や、おいで。かわいいね、いくつ? パンがいい? スープがいい?」

「………。かあちゃんの、おかゆ。」

 そんなようなことを言ったような気がする。彼等は笑って私を食卓に招き入れると、私が食べられそうなものは全て食べさせてくれた。腹が満ちると、一気に疲れが押し寄せてきて、私は恰幅のいい男の腹に埋もれて寝入った。

目が覚めるとそこは馬車の中で、私は両手を後ろに縛られ、足首に枷がしてあり、別の子供の足首と繋がっていた。私はそのまま、エジプトに奴隷として売られた。仕事をする時、物が数えられるように、私は奴隷商人に、数を数えることだけは教えられた。それによれば、私はエジプトまで四十日間、馬車の中で、縛られたまま過ごしていたことになる。

私は『商品』の中でも最も幼く、エジプトのあらゆる工事には使えそうになく、給仕をするには身体が小さすぎた。もしもローマに売られていたのなら、私は今頃生きていなかっただろうが、エジプトの名士が私を買った。水を吸い込んだ砂のように黒い身体は、香油を塗られててらてらと光り、抱かれると香油の臭いが鼻を殴りつけてくるようだった。

主人は不思議な男だった。私をいつでも片腕に抱いて、食事は自分の胡坐の上で取らせ、眠るときは、母が私を寝かしつけていた方法とは全く違う方法で、共に寝た。寝ても寝ても疲れて身体は痛くて、もしこの上で主人の世話や家事をする事になるとしたら、死んでいただろう。しかし幸いかな、私は昼間であれば主人の腕の中でうとうとと船を漕いでいるだけで、褒められていたのだった。


私はそんな生活を三年続け、主人と過ごす夜を思うと涙が零れるくらいには、良識を得たとき、私は主人を殺し、屋敷を飛び出した。

しかし、結局私はエジプトから逃げ出すことは出来なかった。私は三年もの間、主人の愛人をしていた訳で、言うなれば私は、主人の趣向で、主人以外の男や、その妻とも児戯に興じた。その為、私が主人を殺したとしても、囲いたいという手は多かったのである。

結局私は、エジプトにあるギリシャ人のための神殿で、神殿娼婦の一人として飼われる所に落ち着いた。その時私は、六歳だった。


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