第2話
【一】
出会いは必然だったのか、偶然だったのか。
彼女に出会ったのは、桜がとても美しく咲いた春のことだった。彼女は親に売られ、ここ、色街に連れてこられたのだという。彼女は毎日俺の祀られている神社へ参りに来た。ある時は朝に、ある時は昼に、ある時は夜に。
俺の声など聞こえていないのだろうが、俺は彼女の話にいつも相槌を打ち、聴き続けた。
辛かったこと、嬉しかったこと、厳しい姉さまのこと、友人のこと。そして最後に願うことはいつも同じ『私をここから連れ出してくださいまし』
そうして見目麗しく成長していった彼女は、ある日ぱったりと俺の元に姿を見せなくなった。
「……沙彩」
彼女の名前をそっと唇にのせる。
彼女に良くあっている名だ。
何度彼女を呼んだだろうか。何度彼女をまぶたの裏に描いただろうか。
やっと現れた彼女はあの時とは全く違った様子だった。疲れ切っていて目には光がなくなっていた。
それでもなお、彼女は美しかった。
「……私は、死ぬのでしょうか」
ぽつり、と彼女が零したのは初めて聞く彼女の声だった。心の中でのみ話しかけてきていた彼女がついに言葉を発してくれたのだ。
舞い上がりそうだった。
「死ぬのでしたら、あなた様に今一度、名を呼んでいただきとうございます……。源氏名ではなく、本当の、私の名を。私が私で無くなる前に…」
『沙彩……沙彩』
俺は彼女の目の前に降り立った。
聞こえていると思わない。
見えているとも思わない。
けれど、彼女の願いを叶えてやりたかった。
彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。
「病にかかったのでございます。もうこんな金のかかるだけの私を身請けしてくださる方なんていらっしゃらないでしょう。でも、死ぬ前にあなた様にこの名を呼んでいただけて、大変嬉しゅうございました」
ハッとした。
彼女には見えていたのだ。
聞こえていたのだ。
『待ってくれ!」
そう言って手を伸ばすと彼女は立ち止まった。
嗚呼やはり。
『聞こえているのか? 俺が、見えているのか?』
「……はい。初めてこの目にあなた様を映したその時から、お慕いしておりました。妓楼からも、毎日のようにあなた様が呼んでくださるのが聞こえていて……。死ぬ前に一度、あなた様の唇が私の名の通りに動くのを見たかったのです」
頬を可憐な薄紅色に染めて彼女は言った。
『待っていてくれ。今夜必ず迎えにいく』
彼女はそれを優しい嘘とでも思ったのか、嬉しそうに目を細める。
「お待ちしております」
そう言って優雅に膝を屈めると、彼女は振り返らずに山を降りていった。
その晩。
彼女の霊力を辿って、俺は地下牢にたどり着いた。暗くて寒くて狭い。じめじめしているし、おまけに酷い悪臭が鼻を突く。彼女のように美しい人が最期を迎える場所としては、全く似つかわしくない。
「沙彩、迎えにきた」
格子越しに見えるのは、壁に寄りかかるようにして青白い顔で眠っている彼女。彼女は俺の声を聞くと目を覚まし、弱々しい声で呟いた。
「それは、まことでございますか」
「ああ。……俺の、神域へ」
酷い男だと恨んでもいい。
俺は格子をすり抜け、痩せ細った彼女を抱きしめる。そうしてその耳元で囁けば、沙彩は俺を抱きしめ返し、「恨むだなんて、そんな……」と幸せそうな声で言った。
神域ならば、病の進行は遅くなる。
神気を注いで人でなくしてしまえば、彼女は元気になるはずだった。
しかし彼女はそれを望まなかった。
人として生き、人として死ぬことを望んだのだ。
俺は彼女の選択を尊重し、のちにそれを後悔した。
彼女はその一ヶ月後、眠るようにこの世を去ったのだ。
彼女の過ごした一ヶ月間は夢のようだった。
日に日に弱っていく彼女を見ているのは辛かったけれど、その彼女がとても嬉しそうで、幸せそうだったから。
そんな彼女は輝かんばかりの美しさで……。
最期のとき、俺の手を握り彼女は言った。
「******さまを愛しております。あなた様と過ごした日々は、私の一生の中で一等幸せでございました。本当に、ありがとうございました」
花の綻ぶような笑みを見せて、彼女は去っていった。
「沙彩……俺も、君を愛している」
俺が泣いたのは、その時だけだったような気がする。彼女の亡骸にすがって何度も名を呼び、愛を叫んだ。そして、彼女が二度と戻ってこないのだと悟った。
「さ……あや、沙彩なのか」
それから何十年、何百年経っただろうか。
俺は目の前に現れたその幼子を穴が空くほど見つめた。間違いない。
沙彩だ。
「さあやだよ! おにいさんは?」
そう無邪気に答えたその子を、有無を言わせず神域に攫った。暗闇に放置し、怖がって泣いているところに漬け込んで愛を誓わせた。
なあに、すぐに思い出すさ。
彼女と俺は前世で深く契った仲。
「******を愛してる、******のお嫁さんになる」
そう誓った彼女は、一週間後に死んだ。
何人もの沙彩に出会い、俺はそのたびに沙彩を攫った。
しかし、沙彩と俺が一年の間一緒にいられることはなかった。
何人もの沙彩が俺の元を去っていった。
何人もの沙彩を見送った。
俺は次第に、壊れていった。
虚ろな瞳で俺の腕の中におさまる彼女は、一体何人めの沙彩なのか。
これだけ豊富な霊力があれば、長い間一緒にいられるかもしれない。俺の神気にあてられることもなく、神嫁になることができるかもしれない。
俺は期待に胸を膨らませた。
最初の沙彩の願いを裏切るのは辛かったけれど、仕方がない。愛し合っているニ人で幸せを永遠に紡ぐことの、なにがいけないというんだ?
ニ人で縁側に座り、桜を眺める。
俺は彼女に語りかけた。
「なあ沙彩、初めて会った日のこと、覚えているか? とても綺麗な桜が咲いていた」
彼女は違う沙彩だ。記憶もない。
それは知っている。
けれど、気がつくとそう言っていた。
それほど良い色の桜だったのだ。
「ええ….あなた様を始めてこの目に映した時、桜の精かと思ってしまいましたのよ。
あまりにも嬉しそうに桜を眺めていらしたから」
俺は目を見開く。
それまで虚ろだった彼女の目から一筋の涙が溢れた。
「……あなた様、ようやく、またお会いすることができましたのね」
かみかくし かながわドミノ @KaNaGaWa_DoMiNo
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