第22話 空の公女の心

「リオ、ゴホッゴホッ――リオンさん……リオン!!」


 軽くむせながら、アイリスお嬢様が崩れ落ちたリオンさんを追い、まだ満足に動かないのであろう体でベッドの淵へと這いずって行く。

 その必死な様子に、ハッとして動き出そうとした時には、先に動いていたお二人は既に倒れ伏す彼の下で容態の確認を始めていた。


「ルーファス、傷を確認します。服を脱がして、私は脈を診ます」

「畏まりました」


 ロザリー様の指示にルーファス様は、リオン様の足元の血だまりに片膝を着いて彼のシャツのボタンを外しにかかる。


「リオ! ほうけていないでそこの鞄を持って来てちょうだい。そしたら、アイリスを湯浴みにでも連れて行って」

「はい! あ、で、ですが」


 鋭い声に、咄嗟に返事をしましたが、今も彼の名を口にしながら、あまりにも必死な様子を見せるお嬢様の姿に躊躇ちゅうちょして足を止めてしまう。


「――ッ! リオンを床に寝転がしておくわけにいかないでしょう! ベッドを空けたいから早くこの子を連れて行きなさい!!」

「か、畏まりましたっ!」


 苛立ちをたぶんに含んだ声に気圧され、今度こそ行動に移る。同時に、その説明にも納得して、すぐそばに置かれた黒革の鞄を手に取る。大き目なそれを――ズシリと重く武骨で華美な装飾一つ無く、とても高位貴族のご婦人の物とは思えない――を指示通りにロザリー様のかたわらに運び、ベッドの反対側へと回り込む。

 主人と同じベッドに乗るなど本来は許されない行為だけれど、緊急事態だと自分に言い聞かせて膝を乗せ、端に寄っているアイリスお嬢様の両肩に手を添える。

 

「お嬢様、お嬢様! ここはお二人にお任せして、まいりましょう」

「リ、リオ……でも……リオンが……」


 蒼白な顔で振り返ったお嬢様は、今まで見たこともない程に狼狽え、不安そうに瞳を揺らしていた。


「ここにいてもお嬢様にできる事はございません。リオン様の為にも、今は行きましょう、さあ」

「…………え、ええ、わかり、ました。ごめんなさい、取り乱しました」


 意識が戻る気配すらなく処置を受けているリオン様を、ちらちらと見ていたお嬢様も最後は未練を断ち切り、私の補助に従ってベッドを降りる。

 感覚が戻っていないお嬢様の足取りは酷く覚束おぼつかず、肩を貸し腰に手を回す形でゆっくりと出口へと向かって行く。


「リオ、外に数名控えさせています。彼女達にお湯と清潔な布を持って来るよう伝えて下さい」

「了解しました」


 背後からのルーファス様の指示に返答して扉のノブに手を掛ける。

 いつもと違う感触に、『ん?』と思い手元を見ると、グレードの低い客室ながら精緻な細工を施された真鍮しんちゅうのそれには、くっきりと赤い私の手形が残っていた。


(ああ~、この後の掃除があぁぁ)


 思わず、明日以降の事を想像してしまい、天を仰ぎそうになる。

 考えてみれば当たり前。彼の血をたっぷりと吸い、今も徐々に下半身へと赤い染みを広げている白の薄衣に体を寄せ密着していたのだ、こうもなるだろう。

 だが、私とてこの家に仕えて十五年以上、長年の訓練の賜物で、実際に表情に出す事はないのだけど。


「リオ?」

「な、何でもございません。血で汚れてしまってますのでお気をつけください」

「……もう、今更よ。私達、血塗れよ?」

「え?」


 言われて下を見れば、赤く染まったエプロンドレス。

 集中していてまるで気づいていなかったが、確かに今の私達の姿は、他者から見てとても猟奇的なものだった。


 案の定、外に出てからは、待機していた同僚達やすれ違ったメイドや従者、会う人全てに驚かれ、その後同じ事情説明をすることを何度か繰り返す事になりかなり時間を取られてしまった。

 お陰で、脱衣場に着く頃にはアイリスお嬢様もすっかりご自分の足で歩けるようになり、一安心できたのが私にとっての唯一の収穫となった。


*******


「ではお嬢様、私はこちらを洗濯係に渡しましたら、様子を伺いに参りますので」

「ええ、お願いね。リオ」


 血で汚れ、半ば肌に張り付いていた服を殆ど破く勢いで脱がせたリオに、そう言って浴室へ放り込まれてしまう。

 一人になった途端、倒れたリオンさんの生気の失せた顔が頭を過ぎり、胸中が掻き乱される。

 もやもやとしながらも身体を洗う為に、洗い場へと向かう。

 家の方針で使用人達も使う為、複数のシャワー設備が配されたそこには、大きな一枚鏡が壁面に嵌められている。曇り一つないソコに映った自分の姿を見て、思わず足を止めてしまう。

 下腹部から腿、脇腹の広い範囲、それと首筋や頬、髪の一房。武骨な女の自覚があっても、少し自慢であった白い肌と銀の髪には、彼の血痕が赤々と映えていた。

 普段なら悲鳴の一つも上げたかもしれないが、今はリオンさんが私の為に懸命になった証左と思えば嬉しくもあった。

 暫くそのまま見つめている内、ほぼ無意識に、つい先刻まで彼の大きな手が当てられていた箇所に重ねて自らの手を当てる。熱を感じる範囲は彼の方が一回り広く、そんな所に男性を感じてしまう。


「わ、私ったら、何を考えているのよ!」


 頭を振って考えを払う、頬の熱を感じつつ、顔を上げると改めて鏡越しに自分の姿を眺める。この有様で、今日ばかりは湯着を纏っていないので、久しぶりにこうして自らの裸身をじっくりと見つめる機会を得られた。


「腰回りやお腹は細く保てているけれど、やっぱり胸はルビアやセシリーに敵わない

……って、ち、違うでしょう、本当に何をやってるの私は!」


 いつの間にか、いつもは大して気にしていない自身の腰や胸元を触りながら、体形のチェックを始めていた事に気づき、声を上げ、パッと手を放す。

 その際、鏡像の自分が向けてくる手の平が目に留まった。手の平をひっくり返し、身体を触り血の付着した指先を顔の前へと近づける。

 本来なら忌避して然るべき他人の血だが、リオンさんの物だと思うと不思議な引力が有った。


「――――ッ!?」


 惹き寄せられるまま、舌先で微かに指先を舐めた瞬間、背に電撃が奔った気がした。


「んん……ちゅぱ……あむっ……♪」


 衝動のまま、血を舐め取りながら指先から徐々に加え込んでいく。

 もちろん美味な筈は無く、えぐみの強い塩気と鉄錆じみた血臭が口いっぱいに広がり、吐き気さえ催しそうだ。なのに、止まらない、止められない。


「……れる……んぶ♪ あ、ああ、なああぁぁぁ」


 根本まで咥え込んだ時、動きがいや時間が止まった気がした。鏡に映った、何とも言えない恍惚とした表情で指を咥える間抜けな女の姿を、視界に捉えてしまったからだ。

 パニックを起こし、指を咥えたまま情けない呻きを漏らす。


「くちゅん」


 そうこうしている内に響いたくしゃみと、寒気に振るえたことで我に返る。

 頬は熱いままだが、この冬の夜中に薄着で時間をかけて廊下を歩いて来た上に、全裸でこんな寸劇を演じていては、いくら雪国育ちで寒さに強くとも限度がある。

 リオンさんが今も苦しんでいるというのに、醜態を演じてしまったことを恥じながらいそいそと、洗い場の一席に腰を降ろす。


「はあ~、忘れましょう。シャワーを浴びて、身体を清めれば、変な考えは浮かんで来ない筈よ……って、いけない!」


 気持ちを切り替え、シャワーを浴びようと温度調節機能付きの流水魔法具に意識を向けた時、最近は常に身に着けていたリオンさんから頂いた魔晶石が手元にないことに気が付いた。

 為すがままに服を脱がされた際に、昼間彼に贈られ、早速石を収めておいたペンダントのチェーン部にも血が付着していて、「穢れを落とす様、手配しておきます」とリオに回収されたのだった。


「これでは、シャワーも浴びられな…………」


 魔法具の起動板が目に入り、言葉が続けられなくなる。先程までの浮かれた感情が一瞬で冷めてしまう。

 頭を締めるのは、倒れる間際リオンさんが発した「施術完了」の一言。

 思い出すのは、これまで何度も味わった『希望』とその後に来る、深い、深い『絶望』の記憶。

 溜まった唾を呑み込み、震える手を伸ばす。


「――――!!」


 怖い! リオンさんを信じているからこそ、これで駄目なら立ち直れない確信がある。

 想像したくもないのに、これまでの経験が、恐怖をあおり、怯懦きょうだに心が折れる。

 下を向けば自然に血染めとなった自分の体が目に入って、情けなさに泣きたくなって、キツく目を閉じる。

 暗闇の中、思い浮かんだのは施術中のリオンさんの姿。


(泣くなんて許されないわよ。リオンさんは真実、命を懸けて私に尽くしてくれたのに、勝手に心折れるなんて許されるワケないじゃない)


 リオンさんの思いを裏切ろうとしたのに、真っ先に彼の姿を浮かべてしまった都合の良い自分に更に打ちのめされながらも、なけなしの勇気を奮って再度手を伸ばす。


「~~~~~~」


 腰が引け、だんだんと腰掛けていた椅子がずり下がり、前かがみに蹲るような姿勢になる。


「――――セヤッ!!」


 魔法具の起動板に触れ、僅かな魔力を吸収させるだけの子供にもできる簡単な作業。だというのに、最後は、槍を持つイメージをして、突きを放つ時の気合を込めて手の平を置く。


「――あ」


 あっけなく、こちらの決意に対して本当にあっけなく、当たり前に降り注ぎ髪を濡らす湯の雨に、声が漏れる。

 シャーっという音と共に、暖かな湯が、後頭部から髪を伝って冷え切った体を温めていく。

 顔が上げられない。

 伸ばした腕を戻し、両腕両足を揃えて、その上に顔を埋める。


「~~~~~~~~ズルい」


 こみ上げる嗚咽を堪え、声を殺して涙を流し、やっと絞り出した一言がコレだった。

 これまで、ずっと歯を食いしばって耐えて堪えて、最後に泣いたのがいつかなんて思い出せもしなかったというのに、彼と再会してたった一ヵ月でもう何度、胸を奮わせ涙を流したことか。


「女の子を泣かせるなんて、ふっく、なんて酷くて、すんっ、ズルい人なんだから……リオンさんの、バカ」


 とても理不尽な罵倒と理解しながら、そうでもしないと涙と一緒に溢れる想いまで抑えられなくなりそうだった。

 暫くそうして、ただただ湯に打たれていると、唐突に強い力で両肩を抱かれ、思わず顔を上げる。


「お嬢様いかがされました? もしや、治療の影響で、何処かお加減が……」


 血相を変えるとはこういうものなのだろう。

 普段の明るさをかなぐり捨て、着衣が濡れるのも構わず必死に私の安否を確かめようとする年上のメイドを、彼女の手に自分のそれを重ねることで留める。


「ごめん、なさい、リオ。違うの、私、わたし、魔法具が、使えたの……」


 嗚咽含みで歯切れも悪くなったが、リオはハッとし、降り注ぐお湯、備え付きの流水魔法具と、目で追って理解の色を浮かべる。


「お嬢様、おめでとうございます」


 祝福の言葉と、感無量と言わんばかりの満面な笑顔。

 私が産まれた時には既に見習いとして我が家に仕えていた、六つ年上の姉の様に信頼を置いている優秀なメイドの温かな言葉と表情に感情が爆発した。


「リ、リオォ~~~~、うわああああああああ…………」


 セシリー以外では最も近しい彼女の胸元に縋りつく様に顔を埋め、幼い頃そうした様に声を上げて泣きじゃくる。

 ポンポンと優しく背中を叩く感触、柔らかく抱き寄せられる安心感、リオの左右の手が与えてくれる温もりは当時となんら変わることなく私の心を溶かしてくれる。


「ホントォーに、よく頑張りましたね、アイリスお嬢様」

「うん」

「奥様や旦那様、アイシア様にも明朝一番に報告いたしましょう。本家が、大騒ぎになってしまうかもしれませんが」

「うん……あと、セシリーにも教えてあげないと……」

「そうですね、あの子もきっと泣いて喜ぶと思いますが」

「ふふ、そうね」


 容易にその光景が想像出来てしまい、笑みがこぼれる。涙は止まらないのに、リオに掛かるとこんなに簡単に笑顔が浮かんでしまう。


「リオン様が目覚められたら、感謝をお伝えしないといけませんね」

「うん……ねえ、リオ」

「何でしょうか?」

「服も濡らしてしまったし、一緒にお風呂に入りましょう。ダメかしら?」


 私の都合があって、少し前まで常に一緒に入浴していたセシリー以外にはしたことがない“お願い”も、今ならすんなりと口にできてしまう。


「はあ、先程は返事がないので、随分と心配いたしましたのに」


 対して、完全に幼子の我が儘に困る姉という風情の顔を浮かべるリオに、やんわりと苦言を呈されてしまう。


「ご、ごめんなさい。でも、今は一緒に居たいのよ。命令よ」

「……はあ~、今日だけですよ、準備してまいります」

「あ、湯着を着ては駄目よ、私だけが裸なんて恥ずかしいもの」

「……本当に子供の頃に戻った様で懐かしゅうございます。甘えん坊のお嬢様」


 濡れて額に張り付いた茶色の髪を払いながら、素朴で可愛らしい顔を呆れ百パーセントに歪め、脱衣所へと戻るリオの背を見つめながら、やり過ぎてしまったかもと僅かに反省し、今度こそ身体中に付着した血を洗い始めるのだった。

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