第九話 湯煙の中の逃走劇

 宿屋にある大衆浴場に入ると、俺たちは魔道具を使って汗を流していく。

 湯気が立ち上っている室内の浴場は隠れるには最適の場所だと言えるだろう。

 しかし、露天風呂がある外は隠れようがないが。

 俺たちはいざという時の想定をしつつ、デールさんから情報収集を試みる。


「デールさんは何者なんですか? あの距離を一瞬で詰めてくるなんて」

「宿屋の外にいたと思ったら、いつの間にか部屋の中にいるんですから」


 俺とダイマスの問いにデールさんは目を鋭くした。

 泡立ちの悪い石鹸で身体を擦りながら、秘密の話をするときのように声のトーンを下げる。


「僕はヘルシミ王国の上層部の人間だ。それなりの魔道具を使えば意外と簡単だぞ?」

「とてもそうは思えないけど」

「一つだけ答えを言うとすれば、“あの時の僕の速さは異常なものだったよ”かな?」


 俺はすぐにピンときた。多分だけど速度上昇の魔道具だ。

 この人、ブレスレットとか指輪とかの貴金属類をたくさんつけていたからな。

 あり得ない話ではない。


「僕の話はこのくらいにして、お風呂に入ろうよ。とても気持ちよさそうだ」

「そうですね。聞きたいことは溢れるほどありますが、今でなくてもいいのは事実ですから」


 俺が同意すると、デールさんは満足げに頷いた。

 三つある風呂の中で一番大きなお風呂に入ると、これまでの疲れが消えていく。

 このお湯、特別な薬草でも入っているのだろうか。


 温かい風呂をしばらく堪能していると、洗い場から大きな音が響いてきた。

 おおかた、誰かが魔道具に魔力を込め過ぎたのだろう。

 そう思って再び風呂に意識を戻すと、あまりにも聞き慣れた声が響いて困惑する。


「ちょっと聞きたいことがある。ここで赤髪の若い男を見なかったか?」

「見ていないですね。誰なんですか、その男」


 一度しか聞いていないが間違いない。声の主はギルドマスターのハンルだ。

 まさかここに来ているとは。


「ギルドマスターの声だな。どうやってここに……」

「さっきの喧騒。もしかしてギルドマスターが来ていたんじゃないか?」


 デールさんが、先ほどまでとは打って変わって、厳しい顔になっていた。

 確かに、ハンルさんが来たのなら、あの喧騒も頷ける。

 ただ、ハンルさんが今も聞き込みを続けていることから考えても、村人たちは上手く誤魔化してくれたみたいだな。


「確かにそうかもしれませんね。それよりどうするんですか?  アイツはきっと浴場中を探し回ると思うんですけど」


 ダイマスの言う通り、湯気で隠すにも限度というものがある。

 幸いにも露天風呂側の壁にくっついていたので、見つかる可能性は限りなく低い。


 しかし、彼は几帳面かつ用心深い性格だ。

 隅まで探そうとして、浴槽にまで入ってくる可能性は残念ながら否定できない。

 全員が警戒度を最大まで引き上げたところで、デールさんが声を上げる。


「この逃走の指揮、僕に任せてくれ。君たちを安全に部屋まで返すと約束しよう」

「頼みます。僕がするより確実でしょうし。それにしてもティッセの赤髪を完全に忘れていたよ。下手な似顔絵より使える」


 ダイマスが舌打ちせんばかりの顔でシャワーの方を睨んだ。

 赤髪はこの国では珍しく、俺も同じ赤髪の人物に一人しか会ったことがない。

 しかも、その人は前宰相だし……そもそも年齢が違いすぎる。

 つまり赤髪の人を探すだけで、俺にほぼ限定することが出来るというわけだ。


「この髪は目立ちますよね。本当にごめんなさい。指揮はデールさんに任せます」

「任せて。指揮は僕の得意分野だ」


 俺の目立つ髪のせいでみんなに迷惑をかけている。

 魔法か何かで髪の色を変えられればいいのだが、当然そんな魔法は存在しない。

 おかげでダイマスたちには申し訳なさでいっぱいだよ。


「まずは露天風呂に避難する。そして敵が室内を探す。 でも僕たちはいない」

「次に露天風呂を探しに来た隙を見計らって脱衣所へ逃げるってこと?」


 ダイマスが後半の言葉を引き継ぐと、デールさんは大きく頷いた。

 そうと決まれば行動あるのみだ。

 俺たちは物音を立てないように、こっそりと露天風呂に移動する。


「脱出のタイミングはティッセに任せたよ。君は【気配察知】持ちなんだろ?」

「なっ……どうしてそれを!?」

「今回、護衛としてつけるのは僕だけだから、みんなの能力を調べたんだ」


 また魔道具を使ったのか。

 ちなみに【気配察知】というのは、人の位置などをある程度把握できる能力だ。

 特に親しくなった人は個人単位で察知できるから色々と便利なのである。


 もちろん、昔の上司だったハンルの気配は既に把握済み。

 気配から推測するに、さっきまで俺たちがいた辺りを丁寧に探しているのか?

 あっ、もうすぐ来るな。

 ハンルの気配がゆっくりと動き出し、露天風呂につながるドアに手をかけた……。


「今です! ドアを開けて!」

「みんな、急いで出るんだ! 後ろ姿さえも敵に見られてはいけないぞ!」


 デールさんに追い立てられるようにして、俺たちは脱衣所に走る。

 少しでも躊躇ったら捕まってしまうという恐怖だけが俺たちの体を動かしていた。

 普段ならあり得ないほどのスピードで着替えを済ませ、手早く荷物を纏めて撤収。

 二階の部屋に着いた時には、心臓がバックバクだった。


「何とか逃げ切ったのか。捕まって拷問を受けるんじゃないかって怖かったよ……」

「それは俺もだ。しかも相手は俺を追っているんだぞ」


 逃げ切れたからか、ダイマスは俺の手を強く握りしめて頬を紅潮させていた。

 しかし、怖さもあることを象徴するように手は小刻みに震えている。

 外を警戒していたデールさんが一礼するとともに、顔を青くさせたべネック団長が帰って来た。隣ではイリナも同じような顔をしている。


「下にギルドマスターがいて帰るのに苦戦した。デール、どう動けばいい?」

「むやみに動くのは危険ですが……今は逃げましょう」


 上層部の人だから、ハンルの危険性については熟知しているのだろう。

 即座に窓を開けて撤退の姿勢を整える。


「分かった。皆のもの、無銭宿泊になるから気は重いが……撤退するぞ」

「大丈夫です。ここに金貨を置いておきますから」


 俺はそう言うと、自身のポケットから出した金貨をそっとテーブルの上に置く。

 これで無銭宿泊ではない。


「ありがとう。それでは再び隣国に向かって出発する。御者はこれからデールだ」

「了解しました。皆さんは馬車でお休みください」


 こうして、デールさんの言葉に頷いた俺たちは、馬車の中で一晩を明かすことになった。

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