黒点

@me262

第1話

 もう随分前、僕が子供の頃だ。町に徳次郎という大工の爺さんがいた。親分肌で面倒見が良いので町の顔役みたいなものになり、皆から畏怖と尊敬を受けていた。

 徳次郎さんは銭湯の一番風呂が大好きで、それも常人なら入れない程猛烈に熱い湯じゃないと満足しなかった。少しでもぬるいと番台にいる銀蔵さんを大声で怒鳴り付ける。

「銀!もっと沸かさねえと、てめえをボイラーに突っ込むぞ!」

 銀蔵さんは若い時分から徳次郎さんの子分みたいな人だったので、「へい、ただ今!」と、悲鳴にも似た声を返してボイラー室に駆け込む。しばしばこのやりとりが表にまで聞こえた。

 いつも陽気で気風がよく、太陽のような輝きを見せる徳次郎さんは誰からも慕われたが、唯一黒点のようなものがあった。奥さんのお鈴さんの扱いだ。

 強気な性格が災いして、お鈴さんには度々暴力をふるっていたらしい。お鈴さんの顔には痣や、煙草を押し付けられたような火傷の跡が見られたが、徳次郎さんに意見できる者などいる訳がない。お鈴さんは俯いて耐えるだけだった。

 大胆で豪快で、町に君臨し続けた徳次郎さんだったが、遂に年貢の納め時がきた。いつもの熱い一番風呂の後、脱衣場で倒れてしまったのだ。

 銀蔵さんが救急車を呼んだが、病院で息を引き取った。

 町内を挙げて大規模な葬式が催され、斎場でお骨になる時がきた。遺体を火葬炉に入れてしばらくすると、お鈴さんに異変が起きた。白眼を剥いて、太い声で喚き始めたのだ。

「ぬりいぞ、これじゃ全然あったまらねえ……」

 大勢の参列者達が顔を見合わせる中、銀蔵さんが震えだした。

「と、徳さんだ。徳さんが、火が足りねえって怒っているんだ」

 言われてみれば成程、お鈴さんの表情も喋り方も徳次郎さんに似ている。あの人なら、自分を焼く火も普通では物足りないかもしれない。

 お鈴さんに徳次郎さんの霊が乗り移って文句を言っているのだ。ざわめく斎場に、お鈴さんの怒号が轟いた。

「銀!もっと沸かさねえと、てめえをボイラーに突っ込むぞ!」

 銀蔵さんは条件反射で「へい、ただ今!」と、叫んで斎場のボイラー室に駆け込むと、係員の静止を振り切り火力を最強にした。細かい温度調節ができない古い型の炉は一気に徳次郎さんを焼き尽くし、骨はおろか灰も残さずに蒸発させてしまった。

 火葬炉から出てきた台車の上には何も残っていなかった。これでは骨を墓に入れることもできない。僕を含めた全員が呆気に取られる中、お鈴さんはようやく我に返った。

 全く記憶がないというお鈴さんに、皆が事情を説明すると、老婆は疲れた顔で呟いた。

「あの人らしいわね。仕方がありません。どうか大事にはしないでくださいまし」

 喪主の一言で、騒ぎは収まった。しかし、子供特有の低い視点から僕は見た。俯いて顔を伏せるお鈴さんが、微笑んでいたのを。


 この幽霊譚は今でも語り種になっている。

 でも僕は、別の事を考える。

 お鈴さんは墓の中まで徳次郎さんと一緒にいるのは嫌だったのかもしれない。

 銀蔵さん、あの人も徳次郎さんとは深すぎる付き合いだった。

 黒点の様な陰の部分を長く見続けると太陽さえも違うものに見えるのだろうか。

 だが、もうどうでもいい事だ。お鈴さんは今、徳次郎さんのいない墓の中で、一人悠々としているだろう。隣の墓に眠る銀蔵さんと共に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒点 @me262

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ