月の街

鷹山トシキ

第1話

 私は日本に憧れて、異国からやって来た。

 人の手が入る以前の武蔵野は照葉樹林であったが、やがて焼畑農業が始まり、その跡地が草原や落葉広葉樹の二次林となり、“牧”と呼ばれる牧草地に転用されるなどして、平安期頃までには原野の景観が形成されたといわれている。


 武蔵野の名の成り立ちは「武蔵の野」ということだが、元来、武蔵国周辺のいわゆる東人たちが、みずからの住む山野を指して呼んだものであった。 「武蔵野」の名が初めて史料に現れるのは万葉集で、第14巻「東歌」に彼らの詠んだ歌が編まれて残っている。


 江戸開府以降、人口の急増を見込んで、近郊各地の新田開発が旺盛に進められた。 進歩した測量技術と社会資本によって玉川上水や野火止用水が開削され、武蔵野台地上でも農業が可能になった。 こうして進められた開拓によって“原野”は徐々に姿を消し、代わって、田畑、社寺林、屋敷林、街道防風林、雑木林など、今日“武蔵野の自然”と呼ばれているものが人の手によってもたらされていくこととなった。


 慶応4年(明治元年)6、7月(1868年) - 吉祥寺、西窪、関前、境の4箇村に武蔵知県事が派遣される。

 私はマサヨシと満月を見上げていた。

「アリストテレスさん、ギリシアのどこで生まれたんだい?」と、マサヨシ。

「アテネだよ」


 明治2年(1869年)

 4箇村が品川県の管下に置かれる。

 マサヨシは夜空を眺めていた。月光が降り注いでいる。

「美しいおなごだべさ」

 夜空から美しい女性が降りてきた。

 私は幼い頃、母に読み聞かせてもらった物語を思い返していた。

 セレーネーは、ギリシア神話の月の女神である。


 明治4年(1871年)

 吉祥寺村と西窪村は東京府に、関前村と境村は入間県に編入。


 明治5年(1872年)

 4箇村が神奈川県に編入される。

 

 1889年(明治22年)

  4箇村と井口新田飛地が一体となり武蔵野村が成立する。甲武鉄道開業。神奈川県北多摩郡武蔵野村。

 

 1893年(明治26年)

 東京府の管下に入る。東京府北多摩郡武蔵野村。


 1947年(昭和22年)4月

 荒井源吉が武蔵野町長に就任。

 三鷹の森にセレーネーが現れた。

 ギガントマキアーではセレーネーは兄弟たちとともにゼウスに協力し、ギガースたちの味方をする大地母神ガイアが薬草を見つけられないように空に現れなかったと伝えられている。


 ギガントマキアーはギリシア神話における宇宙の支配権を巡る大戦で、巨人族ギガースたちとオリュンポスの神々が戦いを繰り広げた。最強の英雄ヘーラクレースがオリュンポス側の味方として参戦したことでも知られる。


 巨人はギガースあるいはギガンテスと呼ばれ、巨大で濃い毛を生やし、腰から下は竜の形をしていた。

 予言により、この巨人には人間の力を借りなければ勝利は得られないと告げられており、オリュンポスの神々は負けはしないものの、巨人に打ち勝つ事ができなかった。このため、ゼウスは人間の女アルクメーネーと交わり、ヘーラクレースをもうけ、味方とした。ガイアはギガースの弱点を克服させるために、人間に対しても不死身になる薬草を大地に生やしたが、これを察知したゼウスによっていち早く刈り取られ、遂にギガースがそれを得ることはなかった。


 ギガースたちは、山脈や島々など、ありとあらゆる地形を引き裂きながら進軍し、巨岩や山そのものを激しく投げ飛ばして神々を攻撃した。これに対し、オリュンポスの神々も迎撃を開始し、ティーターノマキアー以来の宇宙の存亡を賭けた戦争が再び始まった。ゼウスは巨人たちを雷霆で次々と撃ち倒し、戦闘不能になった巨人たちはことごとくヘーラクレースの強弓の餌食となった。他の神々も奮闘し、ディオニューソスは杖で戦い、ヘカテーは灼熱の炬火を投げつけ、またアテーナーとポセイドーンは火山や島そのものを巨人に叩きつけて押し潰し、最後にヘーラクレースが強大な毒矢や怪力を以て巨人に止めを刺した。パレーネーの地に触れている限り無敵の力を得る最強の巨人もいたが、ヘーラクレースの圧倒的な怪力によってその地から引き剥がされ、その後彼の剛腕によって殺された。 ギガースたちは神々とヘーラクレースによって皆殺しにされ、この壮大な戦争はオリュンポスの圧勝に終わった。


 この戦いの後、ガイアは最大最強の怪物テューポーンを産み落とし、ゼウスに最後の戦いを挑んだ。


 最も有名なセレーネーの神話は美青年エンデュミオーンとの恋物語である。セレーネーは彼を愛し、ゼウスに願ってエンデュミオーンに不老不死の永遠の眠りを与えたと言われる。一説によるとこの出来事は小アジアのラトモス山で起きたことになっている。セレーネーがエンデュミオーンの臥所を訪ねた際、夜空を行く月がラトモス山の陰に隠れてしまった。魔女メーデイアはこれを利用して、月のない闇夜を欲する時にはセレーネーに魔法をかけてエンデュミオーンへの恋心を掻き立て、それから月が夜空から消えた。あるいはセレーネーはエンデュミオーンと交わりを重ねて50人の娘・暦月の女神メーネーたちを生んだ。セレーネーは、メーネーとも呼ばれる。


 私はゼウスの一族で不死身だった。

「神様っているんだな?」

 マサヨシはセレーネーにうっとりしている。マサヨシは薬草を飲んだので、西南戦争や日清日露戦争、第二次世界大戦で蜂の巣になっても死ななかった。


 連合国軍占領期の1949年(昭和24年)7月15日午後9時23分(当時は夏時間のため現在の午後8時23分)に、国鉄三鷹電車区(現・JR東日本三鷹車両センター)から無人の63系電車4両を含む7両編成が暴走。三鷹駅の下り1番線に進入した後、時速60km程のスピードで車止めに激突し、そのまま車止めを突き破って脱線転覆した。


 これにより、脱線転覆しながら突っ込んだ線路脇の商店街などで、男性6名(45歳、21歳、54歳、58歳、19歳、40歳)が車両の下敷となり即死。また負傷者も20名出る大惨事となった。


 当時、中国では国共内戦により中国共産党の勝利が濃厚とされ、日本の国政でも日本共産党が議席を伸ばしていた。共産党員やその支持者が多かった国鉄は、共産主義化を警戒するGHQによってレッドパージの対象となり、複数の共産党員の国鉄職員が逮捕された。


 捜査当局は、共産革命を狙う政治的な共同謀議による犯行だとして、国鉄労働組合(国労)の組合員の日本共産党員10人と非共産党員であった元運転士の竹内景助を逮捕した。そのうち、共産党員1人についてはアリバイが成立したため、不起訴として釈放されたが、残りの共産党員9人と竹内が起訴され、さらに2人が偽証罪で起訴された。公判で竹内は、幾度も発言を求め、早口で自らの主張を述べた上で泣き叫びながら単独犯行であったことを主張した。


 1950年(昭和25年)東京地方裁判所は、非共産党員の竹内の単独犯行として往来危険電車転覆致死罪により無期懲役の判決を下す一方、共同謀議の存在を「空中楼閣」と否定し他を無罪とした。一審判決で竹内が死刑ではなく無期懲役とされたのは、解雇されたことへの反発があったこと、計画性がなかったことと人命を奪うという結果を想定していなかったことで情状酌量が認められることを挙げられた。竹内が犯行時間とされた時間帯に同僚と風呂に入っていたというアリバイ証言において、検察側は同僚の証言は竹内が主張する時間より遅かったとしてアリバイを崩す姿勢を見せていたが、弁護側は何故か同僚の証言を関連性なしという理由で証人要求を拒否するなど不可思議な行動を取っている。


 1949年9月12日

 私は不死身であることを竹内夫人に知られ、竹内を助けるよう頼まれた。

「ゴキブリも殺せないあの人が……あなた、ヤクザに刺されても死ななかったじゃない?金ならいくらでも……」

 ある夜、歓楽街を歩いているとガラの悪い男に絡まれた。

「俺の友人は東京大空襲で死んだんだ!アメ公、死にやがれ!」

 奴はドスで私の腹を刺してきたが、何の痛みも感じなかった。

「私はアメリカ人ではなく、ギリシア人だ」

「バッ、化物!」

 満月が浮かんでいた。


 私は三鷹駅近くの自宅で冷や麦をすすりながら竹内夫人から渡されたメモ帳を読んでいた。

 下山事件 1949年7月6日 常磐線北千住 - 綾瀬駅間 5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪し、翌6日未明に轢死体となって発見された事件。


 三鷹事件 1949年7月15日 中央本線三鷹駅 無人列車が暴走し脱線。死者6人、負傷者20人を出した。


 松川事件 1949年8月17日 東北本線松川 - 金谷川駅間 故意にレールが外され列車が脱線した事件。死者3人を出した。


 一審で6人を死亡させたと認定された竹内への無期懲役判決に対しては、マスコミは被害者や遺族の意見などを紹介して批判した。これに対し検察は、全員の有罪を求めて控訴・上告したが、竹内以外については無罪が確定した。竹内の控訴審で東京高等裁判所は、 1951年(昭和26年)、竹内についてのみ検察側控訴を受け入れ、書面審理だけで一審の無期懲役判決を破棄し、より重い死刑判決を言い渡した。


 竹内が死刑になった日の夜、私は三鷹駅前で満月を眺めていた。

「竹内の奴、いいざまだ」

 その声は紛れもなくマサヨシだった。

「ん?アリストテレスじゃないか?」

 電信柱の陰に隠れていた私に奴はにじり寄って来た。

「君だったんだな?」

「聞かれちまったか?闇市で死神にあってさ?10人殺したら願いを何でも叶えてくれるって……キク、って言ってもわかんねぇか?広島の原爆で死んじまった、彼女ともう一度会いたくてな?」

「で?会えたのか?」

「あぁ、でも他の男がいやがった」

 マサヨシは突然、胸を押さえて苦しみ出し、やがて事切れた。きっと、月の女神に悪事が知られたのだ。

 私は再び夜空を見上げた。月は雲に隠れていた。



 

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月の街 鷹山トシキ @1982

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