第24話

 火の精霊はすぐ目の前に迫ってきていた。

 僕は自分の感覚がこれまでと全く違ったものになっていることに激しい戸惑いを覚えた。身体が無限に広がっているような感覚。いやむしろ身体という、僕と世界との境界線がなくなって僕自身が世界そのものと同化してしまったような感覚だった。

 僕は自分の身体がなくなってしまったのではないかと不安になって自分の両手を見た。そこにはちゃんと見慣れた僕の両手があった。ただほんの少しだけ、全体が青く光っているように見える。

 身体が広がったように感じる理由はすぐにわかった。水だ。僕は大気の中を漂う水の動きを自分のことのように感じることができた。そして地中に流れる水の流れを耳にすることもできた。それらは僕にこれまでとは違った世界の感じ方をもたらした。空気中の水の動きによって風を感じたり避難する人たちの動きを知ることができた。遠く離れた人の話し声すらも水の振動を通じて聞くことができた。いわば僕の周りの水分に僕の神経が接続されているような感覚だった。

 火の精霊はさらに工場に向かって近づいてきている。

 僕は地面に手を当て、地中深くを流れる水に呼びかけた。


 ――さあ、来るんだ


 すると瞬く間に僕の周囲の地面から幾本もの水の柱が立ち上がった。それらは真っすぐに天高く舞い上がった後で、まるで巨大な蛇のようにうねりながら火の精霊の身体にからまっていった。少しだけ火の精霊の動きが鈍った。けれどもあまりの高熱で水は一瞬のうちに水蒸気に変わり霧散してしまい、火の精霊は再び工場に向けて進行を開始した。


 ――大丈夫よ


 頭の中でアニマの声が響く。


 ――ほどけた糸を紡ぎ直すように

   水の流れをイメージして

   もう一度ひとつひとつの流れに戻して


 僕は意識を集中させ、大気中に霧散した水滴を呼び戻した。そしてそれらを集めて再び流れを形作り、今度は火の精霊の身体全体ではなく足元へと向かわせた。

 何度やっても水はすぐに蒸発してしまう。けれどもそれでもあきらめずに幾度となく繰り返しているうちに、徐々に火の精霊に変化が現れ始めた。真紅に燃えていた足が徐々に黒ずみはじめ、足取りが重くなってきた。そしてついには足をあげることも困難な様子になってきた。

 そのとき、街そのものに変化が起こった。家々に灯っていた明かりが消え、決して止むことのなかった地力工場の作動音が消えた。グラジオラス爺さんが中央炉を止めてくれたのだ。

 その途端、目標を失った火の精霊が地面を揺るがすほど大きなうなり声を上げた。まるで急に視界を奪われたかのように辺りを見回し始め、やみくもに腕を振り回して周りの建物を壊し始めた。その様子はまるで何かにおびえているようにも見えた。

 いけるかもしれない、と僕は思った。一瞬気が緩んだその時、火の精霊が破壊した建物の巨大な瓦礫が僕に向かって飛んできた。僕は目を閉じて死を覚悟した。

 けれども次の瞬間、分厚い水の障壁が僕の前に出現し、その水圧で瓦礫を弾き飛ばした。


 ――あなたは本当に残念な人ね

   油断なんかしている場合じゃないでしょ?


 アニマの声が響く。

 僕は苦笑いでそれに答えると、水の柱を太いロープのようにのばして火の精霊の動きを縛るように押さえ込んだ。精神を研ぎ澄まし、水が蒸発した瞬間に再び水流へと紡ぎ直す。火の精霊はついに地面に片膝をつき、進行を停止した。彼は僕の存在を認識したらしく、低いうなり声を上げながら右腕を僕に向かって伸ばしてきた。

 激しい熱風が僕の肌を焼く。それでも僕は集中を途切れさせずに水流で火の精霊を強く縛り続けながらアニマの意識に呼びかけた。


 ――アニマ…

 ――なに?

 ――君の心で、ほかの水の精霊に呼びかけてみて

 ――なにをするの?

 ――雨を降らせるんだ

 ――彼らは今や人格を持たない存在なのよ?

   力を借りるなんてことできるかしら…

 ――できるさ

   僕たちならできる

 ――…そうね

   わたしたちなら…できる…


 僕の身体から青色の光があふれだした。それは網の目のように周囲に広がり、機能としてのみ存在する水の精霊たちに次々と繋がっていった。それと同時に無数の記憶が僕の中に流れ込んでくる。

 それはこの土地の歴史そのものだった。何万年もの歳月の中で蓄積されてきたありとあらゆる出来事。仲間と協力して農業をする光景やおびただしい数の死体が累積する戦場の光景。祝福に満ちた結婚式の光景や路地裏で身を寄せ合って雨宿りをする猫の親子の光景。鉄を製錬する男たち、新聞にお茶をこぼす青年、森の奥深くで出産する鹿、機械に腕を挟まれた少女。

 ……数えきれないほどの、この世界で起こったすべての出来事。

 処理しきれないほどの膨大な情報を無理やり詰め込まれていく感覚に吐き気がする。集中が途切れ、高熱で霧散した水を呼び戻すのが間に合わなくなってきた。火の精霊はなおも僕に向けて腕を伸ばしてくる。けれども僕はそれを抑えることも逃げることもできなかった。視界がゆがみ、ついには、目の前が真っ白になっていった。


 真っ白な空間。

 僕はそこに仰向けで横たわっていた。

 足音が聞こえる。

 足音はゆっくりと僕の頭の方から近づいてきて、やがて僕を見下ろすようにして人影が現れた。アニマだ。白いワンピースを着たアニマが真顔で僕を見下ろしている。

「…ちょっと、スカートの中覗かないでよ」

 アニマの言葉に僕は思わず顔を横に向けた。

「君が勝手に来たんだろ」

 僕は少しの恥ずかしさを噛みしめながら言った。

 アニマはため息をついて言った。

「あーあ、なっさけないわねぇ。なーにが『僕たちならできる』よ」

「うるさいなぁ。しょうがないだろ? ものすごい量の記憶が一気に僕の中に流れ込んできたんだから」

「知ってるわよ。わたしもあなたの中にいるんだから。記憶の奔流に飲み込まれて押し流されていくあなたを見ながら『あーらら』って思ってたもん」

「見てたんなら助けろよ! パートナーだろ? 本当に薄情な奴だな」

「いやわたしは今もうあなたと同化しちゃってるんですけど。むしろここまで助けに来てあげたことを感謝してほしいわよ」

 そう言うとアニマは再び歩き始めた。僕は相変わらず横を向いたまま寝転んでいた。

 しばらくしてアニマが話し始めた。

「ねえ、憶えてるかしら? わたしとあなたが初めて会った日に、浜辺で話したこと」

 僕は黙って彼女の話の続きを待った。彼女はぺたぺたという足音を響かせながら歩き続けていた。

「あなたの中にある記憶の箱の話。もう忘れちゃったかな?」

「憶えてるよ」

と僕は言った。僕の中にある、僕以外の人の記憶が入った箱の話。

「あなたは無数の記憶に押し流されてここまでやってきた。何もない真っ白な空間。あなたはきっとそう思ってるでしょ? でもよく考えてみて。あなたを押し流した記憶たちはどこに行ったのかしら? あなたの中に入ってきたあの大量の記憶たちは、もう消えてしまったのかしら? …ううん、違うわ。みんなあるべき場所に納まったのよ」

 そう言ってアニマは歩みを止めた。

「さあ、そろそろ起きて。ちゃんと周りを見渡してみて」

 アニマに促されて僕はゆっくりと起き上がって周りを見た。

 さっきまで何もなかった空間に、気が付くと膨大な量の箱がうずたかく積み上げられていた。色や形、大きさまで様々な箱が所狭しと並んでいる。

「ここはあなたにまつわる記憶のすべてが納められた場所。だからさっき入ってきた記憶たちのほとんどはもともとあった同じ記憶が保管されている箱の中に入っていったわ。いくらか新しい箱も増えたみたいだけど、それでももともとあった箱の数に比べれば全然少ないわね」

 アニマはそう言って周りの箱たちを見渡した。僕はあっけにとられたまま目の前の光景を見つめていた。

 アニマはゆっくりと僕に向かって歩きながら再び話を続けた。

「あなたは自分自身についてまったくわかってないのよ。自分をすごくすごく小さなものだって決めつけちゃってるの。でも考えてみて。あなたの中にはこれだけの記憶がすっぽり収まっている。そしてこれらの記憶を引き連れて毎日過ごしているの。もちろん、全部を見ることはできないし、そんなことしちゃったらさっきみたいにわけわかんなくなっちゃうんだけどね。

 でもこれだけは憶えておいて。あなたはこれまでに起こったすべてのことをちゃんとしっかり抱えながら、これからを創っていっているということを」

 アニマは僕の目の前に立ち、満面の笑みで言った。

「さ、そろそろ戻りましょうか!」


 気が付くと目の前には赤く燃え盛る巨大な手のひらがあった。

 僕は一気に意識を集中させて幾本もの水流を作り、火の巨人の腕をがんじがらめに縛った。そして上空に向かって力の限りの叫び声を放った。

「力を貸してくれ!」

 瞬く間に上空に巨大な雨雲が集まってきた。そして次の瞬間、そこからいっせいに大粒の雨が地表めがけて降り注いだ。

 火の精霊の体表に当たった雨粒はすぐに蒸発してしまったが、それらは空へと上がって雲へと帰り、再び雨となって絶えず火の精霊を打ちつけた。彼は空気を震わせるほどの叫び声をあげた。けれども僕は彼を縛り付ける水流を決して緩めなかった。

 土砂降りの雨の中で火の精霊は次第に冷えて固まっていき、ついには巨大な人型の石像へと姿を変えていった。それと同時に街のいたるところに上がっていた火の手も雨がきれいに消し去っていった。

 僕は次第に弱まっていく雨の中で最後の火が消えるまで火の精霊を見つめ続けていた。そしてとても悲しい気持ちになった。僕のしたことが正しいことか間違ったことかはわからない。だけど今目の前にあるひとつの命の火を僕が消そうとしていることは事実だ。僕はまたひとつ罪を重ねた、そう思った。

 やがて、最後の火が消えた。


 ようやくすべてが終わった。

 そう思ったとき、不意に僕の身体からアニマが抜け出し、濡れた地面に倒れ込んだ。僕が急いでアニマを抱き起こすと、アニマは肩で息をしながら僕に向かってほほ笑み、こうつぶやいた。

「ただいま」

「おかえり」

 僕は笑ってそう答えた。

 雨はもうあがろうとしていた。

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