第23話

 ――ここは?

 アニマの声が響く。僕は答えようとするが声を出すことができない。

 昔住んでいた家。僕は両親とエリカとこの家で暮らしていた。僕は廊下を歩いている。手にはスープとパンを持っている。

 この日、エリカは片腕をなくした。僕は病院に行った彼女が帰ってくるを待っていた。何も手につかず、ただただ膝を抱えて床に座ったまま待っていた。

 エリカは病院から帰るとそのまま寝室へと入っていった。僕は彼女に謝りたかったけれど、明日にしなさい、エリカはとても疲れているから、と母に言われた。

 僕は両親と遅めの夕食を済ませた。母がエリカのいる部屋に食事を運ぼうとしていた。

「僕が持っていくよ」

 と僕は言った。母は少し困ったような顔をしたが、そっとしておいてあげてね、と言って僕にスープとパンを持たせてくれた。

 廊下を歩きながら、僕は繰り返しあのときの光景を思い返していた。そして取り返しのつかないことをしてしまったということを痛感した。どんなことをしても、彼女の腕は戻らない。僕のこの罪は決してなくならないのだと…。

 寝室の前で足をとめる。小さく二回ノックする。返事はない。

 ゆっくりとドアを開ける。エリカはベッドの中にもぐりこんでいる。

 僕はベッドの脇に置いてあるテーブルにスープとパンとを置き、彼女のほうを見た。かけられた布団が小刻みに震えている。エリカは声を殺して泣いていた。

 僕は長い間そこに立ち尽くしていた。かける言葉が見つからなかった。何を言っても無意味だというのはわかっていたけれど、何かを言わなくてはと思った。口の中がからからに乾いていて、口を開くのもつらかった。

「………エリカ…」

 ようやく、それだけ口にすることができた。ベッドの中で彼女の動きがとまった。

「…エリカ…」

 もう一度、僕は呼びかけた。

「………出ていって…」

 涙声でエリカが答えた。

「エリカ…」

「…出てってよ…お願いだからひとりにして…」

「エリカ…本当にごめん…本当に…ごめん…」

「ふざけんな!」

 突然エリカがとび起きて、僕に枕をぶつけた。真っ赤な目で僕をにらみつける。なくなった右腕の付け根に巻かれた包帯には血がにじんでいる。

「どうしてくれんのよ! あたしの右腕を返してよ! ねえ、謝るくらいならあたしの右腕を返してよ! それができないなら出てって! ひとりにして! お前の顔なんか見たくない! お前なんか死んじゃえばいいのよ!」

 ただただ謝り続ける僕に、エリカはパンやスープ皿を投げつけ、さらに右腕に巻かれた包帯をむしりとって投げつけた。包帯の下には真っ赤にひきつれた痛々しい傷痕があった。

 僕は寝室から出て、しばらく薄暗い廊下で立ち尽くしていた。涙があとからあとからこぼれ落ちてきた。救いようのないほど無意味であわれで無力な涙だ。

 やがて、僕は寝室をあとにして歩きだした。すると後ろでドアの開く音がした。エリカが泣きながら部屋から出てきて僕にかけより、しがみついてきた。左腕と、失った右腕で。

「お兄ちゃんごめんなさい。ひどいこと言ってごめんなさい」

 彼女は泣きながら僕に謝った。僕の心が激しい痛みを伴ってきしむ。


 謝らないで…


「ごめんなさい…ごめんなさいお兄ちゃん…そばにいて…あたしをひとりにしないで…」

 エリカは声をあげて泣きながら僕に謝り続けた。


 謝らないで…

 お願いだから謝らないで…

 僕を許さないで…

 僕を憎んで…

 僕の罪に見合うぶんだけ僕を責めて…


 どうか僕に、罰を与えて…



 そのとき、僕の心に一粒のしずくが落ちる。

 アニマの声が響く。


 ――かわいそうなひと…

   あなたはずっとそうして

   かなしい願いを抱き続けてきたのね…



 そうして、僕たちはひとつになった。

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