第22話
街は逃げ惑う人たちで溢れかえっていた。着の身着のままで駆け出す人たち、大きな荷物を抱えている人たち、家族で手をつないで逃げてくる人たち、それらの人波をかき分けながら僕たちは工場へと急いだ。
途中、見た顔の人がいた。以前配管工事でお世話になった現場監督のレンギョウさんだった。レンギョウさんは靴屋の前でひとりのおばあさんと言い争いをしていた。
「レンギョウさん!」
僕は足を止めて呼びかけた。
「おお、あんときのボウズか」
「どうしたんです? 早く逃げないと」
「ああ、そうなんだが、このばあさんがな…」
おばあさんは店の前に座り込み、うつむいて両手を顔にあてた。
「俺が逃げる途中たまたまここで見かけてな。親父の代からの付き合いなんだが、ここに残るって言い張ってよ。動こうとしねぇんだ」
「あたしゃここに残るんだ! 放っといておくれよ!」
おばあさんはレンギョウさんを睨みつけながらそう言うと店の中に入ろうとした。レンギョウさんは慌てておばあさんの腕を掴んだ。
「ばあさん、馬鹿なこと言ってねぇでさっさと逃げるんだ。ばばあの丸焼きができちまうぜ」
「この店はあたしと死んだじいさんとで建てたんだ。この店を残して行けるもんかい」
「馬鹿野郎!」
レンギョウさんは大きな声で怒鳴った。
「思い出の品と心中する気かよ! 思い出は店にあるんじゃねえ、ばあさんの心の中にあるんだよ。そうして肌身はなさず持ってりゃそれでいいじゃねえか!」
「うるさいねぇ! さっさと行っとくれよ!」
「ああもう聞き分けのねぇばあさんだな。俺の夢見を悪くさせる気か!」
そう言うとレンギョウさんは無理やりおばあさんをかつぎ上げた。
「ちょっと! 放しとくれよ!」
「馬鹿言ってんじゃねえ。さっさと逃げるぜ!」
「あたしゃあんたを許さないよ! 一生恨んでやるからね!」
「ばあさんの残りの人生なんて知れたもんだ。こっちとしても涙流して感謝されるより恨んでくれたほうがせいせいするってもんよ。ボウズ、お前も早く逃げるんだぞ」
そう言い残してレンギョウさんは肩の上におばあさんを乗せて走って行った。
気が付くとアニマの姿が見えなくなっていた。彼女は先に工場へと走って行ったようだった。僕も再び工場に向かって走りだした。
逃げる人たちの中に、工場の営業室のイガナスさんの姿があった。イガナスさんはお腹の大きな女の人をいたわりながら走っていた。おそらく、奥さんに違いない。
この街には本当に大勢の人が暮らしているんだ、と僕は思った。僕の知っている人たちも、まだ見ぬ人たちも…。たくさんの人たちが、それぞれの想いと生活とを抱えて暮らしているんだ。そう思った。
工場に着くとグラジオラス爺さんや営業室の室長たちが残った工員たちを避難させているところだった。アニマは工場の門の前で立ち尽くし、迫りくる火の精霊を凝視していた。火の精霊はすでに街の中に入ってきていて、建物を壊しながらまっすぐに工場へと向かってきていた。火の精霊が触れた家々には瞬く間に火の手が上がっている。
火の精霊がここにたどり着くのは時間の問題だった。もしこの工場に火がつけばどんな大惨事が起こるかは予想もできない。もしかしたら街そのものが跡形もなく消えてしまうかもしれない。
「カイウ!」
グラジオラス爺さんがこちらに気づいて駆け寄ってきた。
「なぁにやっとるんだ! お前もさっさと逃げろ。あの化け物が来ちまうぞ!」
「おじいさん、この工場の偉い人なの?」
アニマがグラジオラス爺さんに訊ねた。
「偉かねぇが責任者の一人だよ」
「だったらお願い、今すぐこの工場のすべての装置を止めて。あいつはこの工場の生み出すエネルギーに引き付けられているのよ」
「なんだって?」
「お願い、急いで止めて」
アニマは真剣なまなざしでグラジオラス爺さんを見つめながら言った。グラジオラス爺さんは眉間にしわを寄せて考え込んでしまった。僕の知る限り、この工場はこれまで一度として運転をやめたことはない。一度止めてしまうと再び始動させるには膨大なエネルギーと労力を必要とするからだ。これまでにも何度か致命的な故障があったが、それでも工場の炉の中心部を止めたことは一度もなかったそうだ。
長い沈黙のあとで、グラジオラス爺さんは言った。
「…わかった。お嬢ちゃんの言うことを信じて止めてみよう」
「工場長!」
そばで聞いていた営業室の室長が言った。
「工場の運転を停止するには役員の承認が必要です。工場長の独断ではできません」
「そんなことはわかっとるわい! だがどうやって承認をもらうってんだ? 役員連中なんかとっくに逃げちまっとるよ!」
「ではやはり止めることは…」
「四の五の言っとる場合か! この工場はわしの人生そのものじゃ! わしが決めたことをわしが実行し、わしが責任を取る!」
そう言うとグラジオラス爺さんはひとり工場の中へと走って行った。
グラジオラス爺さんの後ろ姿を眺めながら、営業室の室長がぽつりとつぶやいた。
「…来週、わたしの娘の結婚式があるんだ。なかなか相手が見つからずに心配してたんだが、ようやくな…」
それから僕とアニマを見てさみしそうにほほ笑んだ。
「娘はわたしの人生そのものだ。だからわたしは娘の晴れ姿を見るまでは何があっても死ねない。ただ…やるべきことをやっておかないとその娘に顔向けできないからな。
わたしは工員の避難誘導に戻る。お前たちもはやく逃げなさい」
そう言って営業室の室長は逃げる工員たちに大声で避難指示を出しながら工場の中へと走っていった。
「カイウ、わたしたちは火の精霊の前まで行くわよ!」
僕がアニマの言葉に驚いているうちに、彼女は火の精霊に向かって駆け出していた。僕は思案する間もないままに彼女の後を追った。
火の精霊は街のいたるところに火の手を上げながら目前にまでせまってきていた。嘆きに似た低いくぐもった音が火の精霊から聞こえてくる。自分が何を求めているのか、どうしてここにいるのかもわからずに動かされている…そんな様子だった。
「…一体、どうしようって言うんだ?」
僕はアニマに訊ねた。アニマはそれには答えず、ただただけわしい表情で目の前の炎の塊を見上げていた。
「そうか! 君は水の精霊だから、水を吹き上げてあいつを止めようっていうんだろ?」
アニマは僕には目を向けずに答えた。
「前にも言ったけど、わたしひとりではそんなことできない。そんな力はないのよ」
「だったらどうしてここに…」
アニマは真剣な目で僕を見て言った。
「…でも、わたしたちにならできるかもしれない。わたしとあなたがひとつになれば、水の精霊本来の力を取り戻せるかもしれない」
「一体どうやって…」
僕がそう言い終わらないうちに、アニマは僕の身体にそっと身を寄せ、背中に腕をまわした。そのやわらかくてあたたかい感触に僕は思わず息をのんだ。
戸惑う僕の耳元で、アニマはこうささやいた。
「…お願い、心を開いて…。ほかのだれでもない、わたしのために…あなたの心から生まれたわたしを、再びあなたの心に帰らせて…」
その瞬間、青くなつかしい光が僕たちを包み込んだ。時間の感覚が途絶え、深い静寂に満たされる。そしてアニマの身体が淡く透き通りはじめ、ゆっくりと、僕の中へと入ってきた。僕の身体の、心の、奥深くへと…。
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