第20話
その日、僕が仕事から帰ると家の中には重苦しい沈黙が漂っていた。食卓にはアニマとエリカが向かい合って座っていて、彼女たちは下を向いたまま押し黙っていた。
「何かあったの?」
僕の問いかけにエリカがうつむいたまま答えた。
「…お兄ちゃん、あたしに隠し事してるでしょう?」
「何のこと?」
僕は背筋に冷気が走るのを感じながら努めて冷静に言った。
「いいから座って」
エリカの冷たい言葉に、僕は口答えせずにカバンを置いてアニマの隣に腰かけた。
アニマは下を向いたまま何も言わなかった。僕は黙ってエリカの言葉を待った。エリカはしばらくの間僕の方を真っすぐ見つめていたが、やがて小さなため息をひとつ吐いて話し始めた。
「今日あたしが森から帰って来たとき、アニマさんは外で洗濯物をしてくれていたの。あたしには気づいていなかったみたい。あたしはそっと近づいていった。そしたらね、何か様子が変だって思ったの。アニマさんは楽しそうに洗濯をしていた。そしてアニマさんの手元の桶に入った水も、楽しそうにくるくると回ったり、跳びはねたりしてたの。まるで生き物みたいに」
僕は一瞬ぎくりとした。エリカはそれを見逃さなかった。
「……やっぱり、お兄ちゃんは知っていたのね?」
僕はしばらく沈黙を通したあとで、あきらめてうなずいた。
エリカは再び小さなため息をひとつついて話し始めた。
「あたしはそれを見てびっくりしたんだけど、アニマさんの秘密の特技なんだって思ったから、そっと近づいて声をかけたの。『すごいね、そんなことができるんだ』って。そしたらアニマさんはすごくびっくりして、手元で跳ねてた水も全部桶の中に戻っちゃったの。それからアニマさんは取り繕った笑顔を浮かべて『なにが?』って言うのよ。あたしが水のことを言っても知らないの一点張り。あたしもだんだん意地になってきて問い詰めたんだけど、それでも知らないって言うの。そうしているうちに、どんどん黙っていっちゃって…。ずいぶん前からずっとこんな感じなの」
僕はアニマを見た。アニマは黙ったまま、僕たちの話を聞いているのかどうかも分からなかった。何度かやさしく呼びかけてみたが、何の反応も見せなかった。
最近のアニマは僕から見てかなり不安定な状態にあった。気分の浮き沈みが激しく、冷静さを欠いていた。前だったら、こんな状況もすんなりと乗り切れたと思う。そもそもこの問題はそれほど大した問題でもないのだ。でも今は、自分の抱えた感情に振り回されて思うように動けなくなっているようだった。
エリカは再び話し始めた。
「…ほんとはずっと前に聞いてたんだけど、アニマさんがうちに来てから何日かして、あたしは一人で街に買い物に行ったのよ。そのときパン屋のおばさんに最近この近くの海で船が沈んだかどうか訊いてみたの。そしたらそんな話は聞いてないって言ってたわ。あたしは不思議に思ったの。だって船が沈んだとしたら、アニマさんの他にも人が乗ってたはずだし、なんらかのうわさが広まっていてもおかしくないって思ったから。ましてやアニマさんは外国の人なんだからもっと大きな話になってもいいんじゃないかって思ったの。
でも、アニマさん自身が何も言わないし、故郷に帰りたいとも思ってないようだから、あたしは何も言わなかったし訊かなかった。人には言えない事情があるのかも知れないって思ったから」
そこで言葉を切ってエリカは黙った。アニマは相変わらず下を向いたままだった。僕が帰ってくる前にも、同じような会話がされていたに違いなかった。
「アニマ」
僕はもう一度呼びかけた。相変わらず反応はなかった。
「少し外の風にあたってきなよ。エリカには僕から説明しておくからさ」
アニマは何も言わなかったが、やがてゆっくりと立ち上がり、そのまま外へと出て行った。僕はアニマの背中を見送ってからエリカに向き直った。エリカは泣いていた。
「どうしてこんなことになっちゃうの…アニマさんが来てから何もかもうまくいかなくなっちゃった…」
その言葉に僕の心は痛んだ。やはりエリカは他人と暮らすことに不満を抱き続けてきたのだ。
僕はエリカが落ち着くまで待つことにした。お茶を入れるために湯を沸かしながら、僕はどのように話すべきかを考えていた。けれども僕が話すべきことはひとつだった。事実を、ありのままに話すことだ。
お茶を入れたカップをエリカの前に置くと、エリカは涙で濡れた左手でカップを取って口元に運んだ。
「信じてもらえるかはわからないけど、本当のことを話すよ」
エリカはカップを手に持ったまま小さくうなずいた。
それから僕はあの日のことを話し始めた。エリカを探しに行ったあの日に起こった出来事を。
話している間中、エリカは僕の顔から目をそらさなかった。話の内容よりもむしろ僕が嘘や作り事を話していないかどうかが重要であるらしかった。僕はできるだけ細かく、あの日の出来事を順を追って話した。話しながらどうしてもっと早くエリカに話しておかなかったのだろうと思った。真実も嘘も、結局はそれを受け取る相手次第なのだから。
僕が話し終えると、エリカは静かな口調で言った。
「…どうして、嘘なんかついたの?」
「…わからない」
と僕は答えた。本当にわからなかったのだ。
「あたしが信じないと思ったから?」
「いや、そうじゃない」
「嘘をつかないとアニマさんを家に置いておくことができないと思ったから?」
「そう思ったことは事実だけど、冷静に考えるとその考えは間違ってた。今そのことに気がついた」
「うまく隠し通せると思った?」
「先のことなんて考えてなかった」
エリカは静かにカップをテーブルの上に置き、右腕の付け根をなでた。
「…あたしたちはずっと二人で暮らしてきて、それなりにうまくやってきたと思うの。お父さんとお母さんが死んでからずっと、二人で力を合わせて暮らしてきた。あたしはこんな身体だからお兄ちゃんのために十分なことをしてあげられなかったかもしれないけれど、あたしなりに精一杯してきたつもり。お兄ちゃんはあたしにとってかけがえのない人だから。
でもアニマさんがあらわれてから、あたしはなんだかそのかけがえのない人をとられてしまった気がしたの。あたしが唯一頼れる人が奪われて、あたしはひとりぼっちになっちゃったんだって、思ったの。だから寂しかったし、つらかった」
それからエリカは少し間を置いて再び話し始めた。
「…あたしもね、ずっとお兄ちゃんに隠していたことがあるの」
そう言ってエリカは右腕の付け根をぎゅっとにぎった。
「…あたしね、一度だけ、お兄ちゃんの部屋に入ったことがあるの。お兄ちゃんの机の上にあった、お兄ちゃんが作っていたものを、見ちゃったの…」
僕はそれを聞いて激しく心が揺さぶられるのを感じた。まずはじめに正体不明の怒りが、次に強烈な恥ずかしさがおそってきた。しかしやがてそれらの波が去ると、僕の心はおだやかな気持ちに満たされた。隠し事のなくなったことからくる、晴れやかな安堵感だった。
「それを見たときに、あたしはとても申し訳ない気持ちになったの。あたしの右腕のことで、お兄ちゃんはすごくすごく自分を責めているんだって思ったから。
あたしね、くせでしちゃってるときの方が多いんだけど、お兄ちゃんにたいして不満があると右腕をさすったりしてたのよ。それもお兄ちゃんに見せつけるように。あなたはあたしにこんなにひどいことをしたのよって、気づかせるために。でもそうしたあとは決まってすごく後悔したの。お兄ちゃんだって悪気があってしたわけじゃないのに…あれはただの事故だったのに…。ごめんね、お兄ちゃん」
それを聞いて僕の心は張り裂けんばかりに痛んだ。エリカの優しさや僕に対する思いやりはこの上もなくうれしかった。けれどもそれは僕の聞きたかった言葉ではなかった。僕が心の奥底で望み続けていた言葉ではなかった。そのことが、言いようのないほど僕を哀しくさせた。
「お兄ちゃんはあたしにとってこれまでもこれからも、ずっとかけがえのない人よ。だから、これからは嘘をつかず正直に話し合うって約束して。たとえどんなことでも、あたしはちゃんと受けとめるから」
「…わかった。約束するよ」
それを聞いてエリカは涙あとの残る無邪気な笑顔を浮かべた。
その時突然激しい音とともにドアが開き、血相を変えたアニマが飛び込んできた。
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