第18話
その夜、部屋でエリカのための義手の調整をしていると控えめなノックの音が聞こえてきた。
「わたしだけど、入ってもいいかな?」
「いいよ」と僕は答えた。
少し間を開けて、アニマが入ってきた。彼女は寝間着としている白いゆったりとしたワンピースを着ていた。
「どうしたの?」
と僕は訊ねた。
「ねぇ、話したいことがあるの。砂浜まで散歩に行きましょうよ」
彼女は少しだけ寂しそうな笑みを浮かべて言った。
特に断る理由もなかったので、僕は彼女の誘いを受けて砂浜まで散歩に出掛けることにした。
月が下草を涼やかな青色の光で照らしている。無数の星々が空一面に瞬き、声なき言葉で語りかけているように見える。安らぎに満ちた夜だ。僕たちは海から吹く緩やかな風を身にまといながら砂浜へと降りて行った。
乾いた流木に腰をおろして、僕たちはしばらく黙って海を眺めていた。
「今日ね、エリカちゃんに訊かれたのよ」
不意にアニマが口を開いた。僕は彼女の方を見た。彼女は穏やかな表情で変わらず海を眺めていた。
「何を訊かれたの?」
僕はアニマに訊ねた。
「『アニマさんのいたところってどんなところ?』って。どんな街か、建物はどんな形をしてるのか、そこに住んでる人はどんな人たちなのか、こことは違う動物がいるのか、何が流行っているのか……もう数えあげればきりがないくらいいろんなことを質問されたわ」
「それで君はなんて答えたの?」
「ひとつひとつ丁寧に答えたわよ。土壁の家に住んでいたとか、ほとんどの人が漁業で生計をたてていたとか。質問されたことによどみなく答えなくちゃいけないし、矛盾があったりするといけないから短い時間で必死に考えたのよ。だから今日はどっと疲れちゃった」
「すごいね。君は物語作家になれるよ」
「茶化さないでよ。本当に大変だったんだからね」
そう言ってアニマは大きなため息をついた。
それから僕たちはまた黙って海を眺めた。僕は時々、アニマに気づかれないように横目で彼女を見た。透き通るような横顔。月明かりを映した瞳。潮風にそよぐ髪。僕は素直に彼女のことを美しいと思った。
「エリカちゃん、最後にね、こんな質問をしてきたの。『アニマさんは、お兄ちゃんのことが好きなの?』って」
僕はびっくりしてアニマを見た。彼女は相変わらずぼんやりと海を眺めていた。僕の心臓が大きく波打つ。
「なんだって?」
「だからね、わたしがあなたのことを好きなのか、って訊かれたの」
アニマは穏やかな、いささか力のない口調で言った。
「それで…なんて答えたの?」
しばらく考えたあとで、僕はアニマにそう訊ねた。
「『好きよ』って答えたわ」
アニマは先程と同じ口調で言った。
「エリカはそれを聞いてなんて言ったの?」
「『それは男の人として?』って」
「…君はなんて答えたの?」
「『そうよ』って、答えたわ」
その言葉で、僕の頭は真っ白になった。あまりのうれしさに意識が飛びそうになった。けれども同時に、アニマはどうして事もなげにそんなことを言うのだろうかと思った。僕は急に不安に駆られた。
「……どうなの?」
意を決して僕はアニマに訊ねた。
「なにが?」
「本当のところは…どうなの?」
僕は緊張のあまり言葉に詰まりそうになりながら言った。口の中がからからに乾いていて、飲み込む唾すら出てこなかった。
「普通そんなこと訊く? あなたって本当に残念な人ね」
そう言ってアニマは少し膨れて見せた。僕は場違いな質問をしてしまったと思い恥ずかしくなった。なんだって僕はこんなに焦っているんだろう。僕は大事な場面でミスを犯してしまった自分を責めた。
アニマは自分の両ひざを抱えると、そこに半分顔を隠しながら小声で言った。
「…あなたのほうこそ、どうなのよ?」
「…好きだよ」
と僕はうつむいて答えた。恥ずかしさと緊張とでまともにアニマの方を見ることができなかった。
「それは…ひとりの女の子として?」
「うん…」
アニマはぼんやりとした口調で「そう…」とだけ言った。
僕は不安ともどかしさとでいっぱいだった。アニマの本心を訊きたいという気持ちは溢れているのに、どのように質問すればよいのかがまるでわからなかった。
僕は静かに目を閉じ、深呼吸をした。波のささやきが聴こえてくる。僕はその波音に耳を澄ませ、心を落ち着かせることに集中した。
しばらくしてアニマが言った。
「わたしもね、あなたのことが好きよ」
僕は目を開けてアニマのほうを見た。彼女は僕のほうを見ながら優しくほほ笑んでいる。落ち着きかけた僕の心は再び小さく高鳴る。
アニマは穏やかな口調で僕に訊ねた。
「あなたがわたしを想ってくれている気持ちは、恋愛感情なのかしら?」
「…たぶん、そうだと思うよ」
僕は少し考えてそう答えた。
「それじゃあわたしがあなたを想うこの気持ちも、恋愛感情なのかしら?」
「それはわからないよ。君がどんなことを感じているのかなんて。だから、教えてほしいんだ。君が僕のことをどう思っているのかを」
アニマは静かにため息をついて再び海へと目を向けた。
長い沈黙のあとで、アニマは静かに話し始めた。
「前にも話したと思うけど、わたしとあなたはパートナーなのよ。それはわたしが生まれたとき――肉体を持ってあなたの前に現れたときから決まっていることなの。わたしはあなたの半身であり、わたしたちは分かち難い絆で結ばれている。だからこそ、わたしたちはお互いに強くひかれあっているし、お互いを強く求めているんだと思うの。
この世界の恋愛と呼ばれるものは、もしかしたらみんな自分の半身を求める行為なんじゃないかしら。誰もが分かち難い絆を、かけがえのないパートナーを求めているのかもしれない。遥か昔に人間と精霊が分かたれたことで、誰もが自由と引き換えに半身を失ったわ。だからみんなどこかでその埋め合わせをしなくちゃいけないと感じているんじゃないかしら。とても強く、とても切実に」
そう言ってアニマは僕のほうを向き、小さくほほ笑んだ。けれどもそのほほ笑みはとても寂しげなものだった。
「わたしたちは出会うことができた。疑う余地もないほど完全な自分の半身に。それは本当に奇跡としか言いようがないことなのよ。
…だけどね、わたしは思うの。ううん、わたしの奥深くから声が聴こえるのよ。『だからこそ、わたしたちはひとつにならなくてはいけない』って。
わたしたちはこんなふうに出会うべきではなかったのよ。もっと完全に、ひとつの存在としてあるべきだったのよ。
もしもあなたが望むのなら、わたしの心も身体も、すべてあなたにあげるわ。わたしもそうしてあげたいし、そうしたいって強く思っているの。でもね、きっとそれでは足りないのよ。わたしたちはどうにかしてひとつにならなくてはいけない。抱き合うよりももっと強く、もっと深く繋がらなくてはいけないの。
…どうすればいいのかは、わからないけどね」
それからしばらくの間、僕たちは黙って海を眺めていた。物事は僕が考えたよりもずっと複雑なのかもしれない、と思った。複雑で、ねじ曲がっていて、皮肉に満ちているのだ。互いに強くひかれ合い、求めているのに、その方法がわからない。
「僕は難しい女の子を好きになってしまったみたいだね」
僕は海に目を向けたまま自嘲気味にそう言った。
アニマは僕のほうを見て、くすっと笑って言った。
「何言ってるのよ。簡単な女の子なんてどこにもいないのよ。覚えておくといいわ」
そう言ったアニマの声は普段の調子を取り戻していた。
やがてアニマは立ち上がり、波打ち際に駆け寄って大きく両手をかざした。ふた筋の細い水の縄が立ち上がり、絡み合いながら夜空に向かってどこまでも伸びていった。僕はその幻想的な光景を複雑な心地で眺めていた。
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