第15話

 洞穴の両脇には石柱が並んでいた。きっと大昔の人が作ったものなのだろうけど、長い間風雨にさらされていたせいかすっかりまるくなって苔がむし、周りの自然の石とほとんど変わりなかった。僕はそのほかに人の痕跡のようなものを探してみた。けれども石柱のほかは何一つ見つからなかった。

「本当にここであってるのかな?」

 僕はかすかな不安を感じて言った。

「間違いないわ。ここよ」

 アニマは洞穴の奥を見つめたままそう言った。

「どうしてわかるの?」

「当たり前でしょ? だってここはわたしが生まれた場所なんだから」


 持ってきたランプに灯をいれ、その明かりを手掛かりに僕たちは奥へと進んだ。僕とアニマが二人で並んで歩けるくらいの広さの穴が、どこまでもまっすぐ続いていた。ランプの明かりで奥の方を照らしてみても、そこには拭い切れない暗闇が横たわっていた。

 穴の奥から時折ひんやりとした風が吹いてくる。かび臭くない新鮮な空気だ。きっと穴の奥には外へと続く別の入り口があるに違いない。

 洞穴の岩壁にはところどころくぼんだ箇所があり、かすかに焦げ跡のようなものがついている。今は土埃が溜まっているけれど、きっと昔は明かりを置くための場所として使われていたのだろう。僕ははるか昔の人々がここを行き来する光景を思い浮かべながら先へと進んだ。

 奥へと進むにつれて、洞穴は少しずつ広くなっていった。相変わらず行く手は重く濃い暗闇に包まれていて、どこまで続いているのか検討もつかなかった。僕は並んで歩いているアニマの顔を見た。彼女は迷いも不安もない様子で、ただまっすぐに穴の奥を見つめていた。

 しばらく行くと穴壁に沿って丸い石が並べて置かれているようになった。人間の頭ほどの大きさのその石には赤い顔料で見たことのないしるしが描かれていた。僕は注意してそれぞれの石に描かれているしるしを見比べてみたけれど、同じしるしはひとつとしてないようだった。

「この石は一体なんなんだろう」

 僕は独り言のように呟いた。

「それは『物言わぬ人』よ。だから足元に置いてあるからって蹴ったりしちゃだめよ」

 歩きながらアニマは言った。

「『物言わぬ人』?」

「そう。昔の人は生身の肉体を失う時、石に自分の本当の名前を記してそれを魂の新たな依り代としたのよ。つまりこの石ひとつひとつに魂が宿っているのよ」

「それはつまり…これは昔の人のお墓ってこと?」

「お墓じゃないわ。だってお墓は死んだ人のためのものでしょ? この石には人の魂が宿っているの。だからこの石は生きているのよ」

 僕はアニマの言葉がうまく理解できなかった。生きている石?

「…うまく理解できないんだけど、昔はそういう宗教が広まっていたってことなのかな?」

 と僕は訊ねた。

 宗教、とアニマは呟いて、しばらくの間それについて考え込んでいるようだった。その間もアニマは歩くことをやめなかった。

 やがてアニマは慎重に言葉を選びながら言った。

「それはかつての世界の在り様なのよ。もちろん、今のわたしにとってもね。宗教っていうよりも、かつては世界そのものがそういう仕組みで動いていたのよ。……ううん、やっぱりうまく言えないわね。とにかくその石は今も昔も生きているのよ。あなたやわたしと同じように。ただひとつ違うのは、彼らは何も語らないということだけ。だから粗末に扱わないで」

 やはりよく理解できなかったけれど、僕はそれ以上質問するのをやめ、アニマの意思を尊重して足元に注意しながら先へと歩いた。


 しばらく進むと、先の方にかすかな光が見えはじめた。

「どうやら出口…みたいだね」

 僕はアニマに言った。アニマは僕の顔を見ていたずらっぽく微笑んだが、それについては何も言わなかった。

 次第に光が大きくなっていった。それにあわせて洞穴の広さもどんどん広くなっていき、並んでいる『物言わぬ人』たちの数も多くなっていった。彼らの無言の視線を感じながら、僕たちは先へと進んでいった。


 長い洞穴の先にあったもの…それは出口ではなく、巨大な光の部屋だった。二階建ての建物がすっぽりとおさまってしまいそうなほど広く高い半球状の空間は、部屋というよりもむしろ演劇場のホールに近い。天井や周りの壁には無数のガラス片のようなものが埋め込まれていて、それらすべてがまばゆいほどの光を放っていた。

 言葉を失い、目の前の光景にただただ見とれている僕に、アニマが笑って言った。

「どう? おどろいたでしょ?」

「すごいね…。昔の人は一体どうやってこんな光の装置を創り出したんだろう…」

「べつに創ったわけじゃないのよ。もともとあった場所なの」

「もともとあった? つまりこの空間は自然にできたってこと?」

「そうよ」

 そう言ってアニマはまた笑った。

「壁に埋まっている光るものは水晶の柱の先っぽなのなの。透明な水晶の柱がここからまっすぐ地上に延びていて、それが外の光をここへと運んでいるのよ」

「外の光? つまりこれは太陽の光ってこと?」

「そうよ。どう? ちょっと感動的じゃない?」

「すごいね……」

 壁一面に小さな太陽が輝いている。僕は自然の生み出した神秘的な光景に時間を忘れて見入っていた。


 しばらくして、アニマは静かにその空間の中央へと歩き始めた。床には苔が厚く生している。こまかな水滴を浮かべて光るそれはまるで濃緑の絨毯のようだった。その中心にはふたつの大きなくぼみがあり、どちらも澄んだ水がたたえられていた。

「これは…?」

 僕はくぼみの底をのぞき込みながらアニマに訊ねた。

「ここが、精霊の生まれた場所よ」

 そう言ってアニマはゆっくりとひざをつき、くぼみの水に手を浸した。水紋がゆっくりと広がっていく。アニマは静かに目を閉じた。浸した手から伝わる水の感覚に集中しているようだった。

「……やっぱりだめね」

 しばらくしてアニマが言った。その声は残念がっているわけでも、悲しんでいるわけでもなさそうだった。

「何がだめなの?」

 僕は訊ねた。

「ここにはもう何の力も残っていないわ。ただの水たまりよ」

「昔は違ってたの?」

 僕の質問にアニマはほんの少し寂しげな笑みを浮かべた。

「これを見て、何か思い出さない?」

 くぼみを指してアニマが言った。並んだふたつのくぼみ…水たまり…精霊の生まれた場所…。

「ひょっとして…これって僕たちが出会ったあの実験室の…」

 正解、と言うかわりにアニマは優しくほほ笑んだ。

「あの装置はきっと、ここを参考に造られたものなんでしょうね」

「それじゃあ昔の人もここで人と精霊とをひとつにしていたの?」

 アニマは静かに首を振った。

「違うわ。逆よ。ここは人と精霊とを分かった場所なのよ」

「人と精霊を分かつ?」

 アニマはくすっと笑い、くぼみの前に静かに腰を下ろした。

「あなたも座りなさいよ。これから昔ばなしをしてあげるから」

 僕はゆっくりとアニマの隣に腰を下ろした。柔らかく冷たい苔の感触がした。


 低いうめき声のような風の音が今来た通路の方から聞こえてくる。だけどこの部屋の中には一陣の風も吹いていない。一体あの風はどこから生まれてくるのだろう。

 部屋の中の明かりはゆるやかな明滅を繰り返している。おそらくは雲が流れているためなのだろう。それはまるで大きな命の胎動を思わせるような光景だった。

「ここはかつて、『生命の部屋』と呼ばれていたのよ」

 まるで僕の考えていることがわかるかのようにアニマが言った。僕はびっくりしてアニマのほうを見た。彼女も僕の方を見て、そして優しくほほ笑んだ。その表情からは彼女が本当に僕の心が読めるのかどうかということはわからなかった。

 僕はそれについて何も訊くことができず、アニマの表情を見つめたまま彼女が話し出すのを待った。

 僕たちはしばらく黙って時を過ごした。アニマは時折足元の苔をなでたり、指で押したりしていた。きっとこれから話す長い物語を頭の中で整理しているのだろうと思った。僕はそんな彼女の様子を眺めたり、目の前のくぼみを満たしている澄んだ水を眺めたりしていた。水面はまるで鏡のように平らで揺らぎひとつなかった。この水は一体どこからきたのだろうか。雨水が溜まったようにも見えないし湧き出たようにも見えない。うまく言えないけれど、昔からそこにそのままの姿で存在し続けていたように思える。僕は試しにその水に触れてみようかと思ったけれど、思い止どまった。なんとなく、恐かったのだ。

 やがてアニマは静かに話し始めた。

「何十万年ものはるか昔、人は今あるような存在ではなかったの。かつて人は意のままに自然を操ることができた。想像もつかないかもしれないけれど、人は自然の管理者としての権能と資質を持っていたの。大地を実り豊かにし、風を生み、火を起こし、水を湧き出させる力が備わっていた。わたしがあなたに見せた水を操る力は、かつてのものに比べると本当にささいなものよ。かつては自然そのものが人の意志によって動いていたの。

 …いいえ違うわ。人の意志なくしては自然は一切の活動をしなかったのよ」

 そう言ってアニマは遠くをみるような目付きで僕を見た。僕は何も言わずに一度だけ小さくうなずき、話の続きを待った。彼女の視線の先に広がる在りし日の光景を思い描きながら。

「かつての人と、今の人とでは全く違った存在だったの。もしもあなたが昔の人と会ったとしたら、あなたは相手が人だとは気が付かないんじゃないかしら。姿形もまったく違うし考え方も違うから。もしかしたら、考えるという言葉も適切ではないかもしれないわ。一切の感情はなく、ただただなすべきことをなすためだけの存在だったのだから。

 だから昔の人を『人』と呼ぶことも正しくはないかもしれないわね。だけどほかの言葉も見つからないし、とりあえず今はそう呼ばせてもらうわね」

 僕はかつてあった世界の姿を想像した。そこに広がる自然や、そこに暮らす動物や、人の姿を。僕の中で、それは永遠の楽園を思わせるような世界だった。

 再びアニマは話を続けた。 

「人は自然を管理するためだけに生まれ、そして、死んでいった。死っていう言葉もちょっと違うかしら。かつては人は死ぬと新しい命として生まれ変わったの。死と誕生は同じ瞬間に行われた。終わりと始まり、消滅と発生はひとつの出来事だった。すべてがひとつの円環の中で動いていたわ。何も変わらず、何も揺るがなかった」

 アニマは目の前の鏡のような水面を見つめたまま、昔を懐かしむような笑みを浮かべた。

「まるでおとぎ話に出てくるような完全な世界みたいだね」

 と僕は言った。

 アニマは動きのない水面を見つめたまましばらく考えていた。

「完全な世界……そうね、確かにそうかもしれない。そこにはあらゆる生き物が生きるために必要なすべてが満ちていた。そしてわたし達の役割はそれを維持することだったの。何も減らさず、何も増やさず、あらゆる変化を否定して……。

 だけど長い年月の中で、やがて人の中に感情が生まれたの。そうして人は自我に目覚めた。そして自我に目覚めた人は自分が自然の一部としてのみ存在するということを次第に窮屈に感じ始めたの。そうして、もっと自由な生き方を求めるようになったのよ」

「自由な生き方?」

 と僕は訊ねた。 

「そう、自由な生き方。それまで人は自分の役割に疑問すら持たなかったの。自分のするべきこと……すなわち自然界の均衡を保つことだけをしてきたわ。そしてそれは人にしかできないことだったの。だけど自我に目覚めた人は自分に与えられた権能を疎ましく思い始めた。その役割ゆえにほかの何者にも成りえない我が身を呪った。

 長い年月を経て人は自分の身のうちにある自然を管理する機能のみを分離する技術を生み出した。そうして人は自然と袂を分かち、独立した生き方を選べるようになったのよ」

「それが…今の人の姿…」

「そう…そしてここが、人と精霊が生まれた場所なの…」

 僕たちは目の前に並んだふたつのくぼみを見つめながらしばらく黙って時を過ごした。正直言って僕にはアニマの話にいまいち実感が持てなかった。けれどもアニマの話を聞きながら僕は確かに世界の広がりを感じていた。横の広がりではなく縦の広がり――つまり永い永い時間の連鎖だ。過去から現在へ、そして現在から未来へ。大きな時間の流れの中に僕は自分という存在がぷかぷかと浮んでいるのを感じた。

「ねえ、一番初めに生まれた感情って何だと思う?」

 不意にアニマが僕に訊ねた。僕はそれについてしばらく考えてみた。

「何だろう……気持ちいいとか気持ち悪いとか、そんなのじゃない? すごく単純なもの」

「バカねぇ、それは感覚でしょ? そのひとつ先の話よ」

 僕は少し傷つきながらまた少し考えた。

「喜怒哀楽、かな」

 僕の答えにアニマは深い深いため息をついた。

「4つもいっぺんに生まれてどうするのよ。一番初めって言ったでしょ。そのひとつ前よ」

 僕の頭はだんだん混乱してきた。アニマの問いにいらいらしはじめてきた。

「……思いつかない。答えは何なの?」

 僕は不機嫌に言った。

 アニマは得意げな笑みを浮かべて言った。

「一番初めに生まれた感情は『愛』よ」

「『愛』?」

 僕は吹き出しそうになりながら聞き返した。

 アニマは得意げな顔をくずさずに答えた。

「そう、愛よ」

「……ずいぶんロマンチックな答えだね…」

「要するに『何か』を『特別』だって思う気持ちのことよ。自分や他人や、物や場所や時間に対してほかとは違うって思いを抱くこと」

 僕はそれについてしばらく考えてみた。

「……だったら別に『執着』でもいいんじゃないの?」

 僕の質問にアニマは冷ややかな視線で答えた。

「あなたはほんとに残念な人ね。それじゃムードがないでしょ?」

「…そういうもの?」

「そういうものよ」

 そう言ってアニマは笑った。それから彼女は再び光を写した水面に目を向け、静かにつぶやいた。

「何かを特別だと思わなければ人は何も感じなくなるわ。愛ゆえに人は喜び、愛ゆえに人は哀しみ憎むのよ」


 僕はこの時アニマの言葉を当たり前のこととして聞いていた。特にこれといった感動も覚えなかった。だけどやがて僕の中でこの時間やアニマの言葉が特別なものとなり、何度も何度も思い返すこととなる。けれどもそれはまだずっと先の話だ。

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