第14話

 休みの日の朝、僕は早起きして図書館で読んだ本を手がかりに裏の森の奥深くへ行ってみることにした。

 キッチンで昼食用のパンをカバンの中に入れていると、起きたばかりのアニマが部屋から出てきた。

「何してるの?」

 アニマは夢からまだ覚めきっていないような口調で言った。

「出かける準備をしてるんだよ」

「どこに出かけるの?」

「裏の森」

「…どうして?」

「そこに何かあるかもしれないから。僕たちの…精霊と人間の関係についての手掛かりがね」

 その言葉で、アニマの意識は完全に目を覚ましたようだった。彼女は目を輝かせて言った。

「どうして一人で行こうとするのよ。あたしも行くわ。ちょっと待ってて」

 そう言うとアニマは急いで自分の部屋に戻った。ばたばたという音がひとしきり聞こえたあとで、着替えを済ませた彼女が息を荒げながら出てきた。髪の後ろには寝癖がついたままだった。

 物音で目を覚ましたのか、目をこすりながらエリカが自分の部屋から顔を出した。

「どうしたの?」

「ちょっと出かけてくるよ」

 僕は努めて冷静に言った。本当の目的なんか言えるはずもない。

「どこに行くの?」

「散歩だよ」

「アニマさんも一緒に?」

「そうよ」

 アニマが後ろ髪を手でなでつけながら笑顔で言った。

「こんな朝早くからどこに行くの?」

「その辺を散策してくるだけだよ。夕方には戻るから」

 エリカは眠そうな目でしばらくの間黙って僕をじっと見つめていた。

「お前も一緒に来るか?」

 僕は賭けに出てみた。エリカはそれについて少しの間考えていたが、やがて小さく首を振った。

「……あたしはいい。もうちょっと寝るから。二人とも気をつけて行ってきてね」

 そう言うとエリカは再び自分の部屋の中へと戻っていった。僕はほっと胸をなでおろし、アニマと一緒に裏の森へと出かけていった。


 木の葉の間から日の光が降り注いでいる。朝の森はやさしい空気と光に満ちている。僕たちはあたたかな日溜りと涼しい木陰を交互に通り抜けながら森の奥を目指した。

 途中、アニマが不意に立ち止まり、細い落葉樹の枝についた赤い実に目を止めた。アニマの片手に納まるほどの大きさの小さな木の実だ。アニマはおもむろにそれをひとつちぎると、そのつるんとした表皮を指でなでながら僕に訊ねた。

「ねえ、これって食べられるのかしら?」

「食べてみなよ」

 僕は答えた。

 アニマはしばらく僕と赤い実とを交互に見て、やがて僕の目を見つめながら一口齧った。途端にアニマの顔がゆがむ。彼女は口に含んだ果肉を吐き出し、手に持った実を僕に向かって投げつけた。

「最低。あなたってほんとに意地が悪いのね」

 僕は彼女の投げた実が当たった胸の辺りをさすりながら言った。

「君はその実が好物なはずだよ」

「うそよ。こんなの食べたことないわ」

「君がいつも食べてるジャムはその実から作るんだよ。あのジャムは君の好物だろう?」

 アニマは少しびっくりした表情をして、もう一度木になっている赤い実を見た。

「これがあのジャムになるの?」

 アニマは静かにそうつぶやいた。

「そうだよ。エリカがいつもその実を取ってきて作ってるんだ」

 彼女は再び僕のほうを見て、今度は笑って言った。

「きっとエリカちゃんは魔法が使えるのね。だってこんなに苦くてすっぱい実をあんなに甘くておいしいジャムに変えちゃうんだから」

「魔法じゃなくて砂糖だよ。あれはその実と砂糖を煮詰めて作るんだから」

「わたしも今度その魔法を教えてもらおうっと」

 アニマは僕の言葉には耳を貸さずに、もう一度実をちぎって僕のほうへ投げてよこした。僕は手にした赤い実をしばらく見つめ、一口齧った。口一杯に苦みと酸味とが広がる。

「なにやってるの? おいしくないでしょう?」

 アニマが不思議そうに訊ねた。

「僕はけっこう好きなんだ、この味。何の手も加えられていない本当の味って感じがして。それに仕事場の人たちはこの実を塩漬けしたものを肴にお酒を飲むんだってさ」

「ばっかみたい。あなたそんなの食べてるからそんな辛気臭い顔になっちゃったのよ」

 そう言うとアニマは僕を置いて森の奥へと歩いていった。僕はため息をついて彼女のあとを追いかけていった。


 しばらく行くと開けた場所に出た。中央にはきれいな小川が横切っている。ここが僕がこれまでに訪れたことのある森の最奥だった。日が高くなっていて時刻が昼に近いことがわかった。

「ここでちょっと休憩しようか。昼飯にしよう」

「どうして? わたしはまだ歩けるわ」

 アニマは小川に手を浸しながら言った。

「休めるときに休んでおくんだよ。この先は僕も行ったことがないんだ。何があるかわからないし、ここで少しでも体力を回復させておこうよ」

 だらしがないなぁ、とアニマが言った。僕がそれにかまわず近くにあった大きな石の上に腰を下ろすと、アニマもしぶしぶ僕の隣に腰かけた。

 僕は持ってきたパンをふたつに分け、アニマに差し出した。アニマはしばらくパンを眺めてから僕に訊ねた。

「ジャムは持ってこなかったの?」

「持ってくるわけないじゃないか。荷物になるのに」

「あなたって本当に気がきかないわね」

「文句があるなら食べなきゃいいだろ? それかさっきの赤い実を取ってきてパンに塗れば……」

 僕が言い終わる前に、アニマは拳を握り締めて僕の肩を思いっきり殴った。本気の痛みだった。彼女はふてくされた顔で手に持ったパンをちぎって口に入れた。

「…あのさぁ、前から言おうと思ってたんだけど、そのわがままで無遠慮な性格もうちょっとなんとかできないの?」

 僕は殴られた肩をさすりながらアニマに言った。

「ああら、お言葉ですけれどカイウさん、わたくしめは貴方様よりこのような心を授かっておりますの。文句があるのならご自身にお言いくださいな」

「僕の心に、本当に君のような性質があるのかなぁ…」

「そうよ。そうでなきゃ説明がつかないでしょ」

 僕はそれについて少し考えた。確かに、僕は自分の感情を知らず知らずのうちに押さえ込んでしまう性質があるように思う。それは僕の抱えている負い目に原因があるのかもしれないけれど、僕はあまりにそのことになれ過ぎていて、感情を素直に表現することができなくなっているのかもしれない。別にそのことでなにか不都合があるというのではないけれど、なんとなく、僕はアニマのような性格にずっと憧れのようなものを抱いていた気がする。それはやはり僕の中に、ずっと押さえ込まれてきた奔放な性格があるからなのかもしれない。

「なに辛気臭い顔してるのよ」

 アニマが笑って言った。

「わたしは自分の性格、結構気に入ってるのよ。あなたに感謝してるわ。だからそんなに落ち込まないで。あなたのせいじゃないんだから。かといってわたしのせいでもないんだけど」

 そう言ってアニマは自分が殴った僕の肩をいたわるようにやさしく撫で、そして無邪気な笑みを浮かべた。僕は苦笑いでそれに応えた。

 アニマは前を見てこう言い加えた。

「何かを責めてみたって、どこにも行けやしないんだから」

 そうだね、と僕は言った。確かにその通りだと思う。それは分かっている。けれどもやはり僕は自分を責め続けるだろうと思った。そうしないわけにはいかないのだ。そして、そうしている限りやはり僕はどこにも行き着くことができないのだ。


 僕たちはしばらく無言でパンを食べた。辺りは鳥の声が響いていた。小鳥のさえずりや、時折聞こえてくる大きな鳥のけたたましい鳴き声。それらはまるで、森の命そのものが奏でる音のようだった。

「なんか向こうの森とこっちの森って、雰囲気が違うよね」

 アニマが最後のひとかけを口に入れ、もそもそと口を動かしながら言った。確かに、こちら側の森とあちら側の森は少し違って見えた。どこがどう違うかはうまく説明できない。はえている植物はこちら側の森とほとんど同じだし、茂り方や森にさす光の加減にも大きな違いはない。ただひとつだけはっきりしていることは、僕はあちら側の森について何も知らないということだった。

「そろそろ行こうか」

 僕は立ち上がって言った。

「そうね。行きましょう」

 アニマは微笑んで言った。


 川を渡って向こう側の森へと入ると、そこはやはりこれまで通ってきた森とははっきりと異なっていた。まず森に漂う空気が違った。冷たく澄んだ微風が森の奥からたえまなく吹き続けている。気温が低いのだ。何か不吉な予感がする、と思ったあとで、僕はその考えを打ち消した。ばかばかしい、気温が下がったくらいで不運を予感してどうするんだ。そんなことを言っていたら木陰は不幸の溜まり場になってしまうし、冬は逃れようのない負の季節になってしまう。ただ僕はこの森に慣れていないだけなんだ、と僕は僕に言い聞かせた。この場所に、この感覚に、慣れていないだけなのだ。そしてつまり、慣れさえすればどうということはないのだ、と。

「少し寒くなったね」

 とアニマが言った。

「そうだね」

 とだけ僕は答えた。そして僕たちは見知らぬ森の中を黙々と歩き続けた。


 しばらく歩いて行くうちに、森は次第にその姿を変えていった。木々の密度が増し、頭上からはほとんど日の光が差さなくなった。生えている木には苔がむし、大昔から生き続けている幹の太いものばかりだ。足元には木の根が剥き出しになって地面をはっているためただ歩くことも困難になっていった。僕たちは木の根をまたいだり、あるいは段差のある地面をよじ登ったりしながら先へと進んだ。

 僕たちは何も言わず黙って歩いた。鳥の声も、風の音も聞こえてこない。しんと静まり返った森の中には僕たちの吐息の音だけが響いていた。そうしていると、僕はなんだか自分が招かれざる客のような気持ちになっていった。僕たちはこの森に歓迎されてはいないのかもしれない。

 そう考えると、僕は急に不安になった。僕たちはちゃんと目的の方角に歩けているのだろうか? 周りには同じような景色が延々と広がっている。はたして僕たちはきちんと前へと進めているのだろうか?

 不安は疲労となって僕の身体に重くのしかかった。

「…平気?」

 僕は振り返ってアニマに訊ねた。それはアニマを気遣っての言葉ではなく、自分に向けて言った言葉のようだった。

「……ん、わたしは平気よ」

 アニマは息を整えながら言った。

「とても気分がいいわ」

 そう言って彼女はにっこりと微笑んだ。

「気分がいい?」

 僕はびっくりしてそう聞き返した。

「そうよ。空気に潤いが満ちているもの」

 言われてみると、辺りの空気は冷たく湿り気を帯びていた。僕は足を止め、深く息を吸い込んだ。身体の中に、濃い森の生気が満ちていくように感じた。それは僕を安らかな気持ちにさせた。まるで森の命を分けてもらっているみたいだ、と僕は思った。

「ほら、休んでないでさっさと歩いてよ」

 アニマが言った。僕は小さくため息をつくと再び歩き始めた。そして歩きながらアニマに言った。

「確かに、君の言う通りかもしれない」

「何が?」

 僕はそれに対してうまく言葉が見つけられなかった。気分がいい、とアニマは言った。僕が感じたものもそれと似てはいたけれど、少し違っていた。僕はそのとき、小さな希望のようなものを感じていた。どんな希望かはうまく説明ができない。ただなんとなく、僕はこの森を受け入れることができるかもしれない、と思った。森は森としてある。僕は僕としてある。森が僕のためになにかしてくれるわけではないし、僕がこの森のためになにかをしてあげられるわけではない。僕らはそれぞれのルールに従って生きているだけだ。森は森としてあるために呼吸を続け、僕は森の作り出す空気の中を歩く。ただそれだけ。僕らは互いになにかを要求するわけではない。ただお互いのありようを把握するだけだ。そして互いに求めることなく僕たちは繋がっている。そのことがうれしかった。どうしてそれが希望になるのか、どうして安らかな気持ちになるのかは、やはりうまく説明できない。

「どうしたのよ? なんとか言いなさいよ」

 後ろからアニマがイライラした口調で言った。

「君は正しい、ってことが言いたかっただけだよ」

 と僕は答えた。

「説明になってないわよ。何が言いたいの?」

「もういいよ。忘れて」

 僕がイラっとしてそう言った次の瞬間、アニマが平手で僕の背中を思いっきりひっぱたいた。不意の衝撃で僕は前のめりに倒れた。

「何するんだよ!」

 と僕は怒鳴った。当然の主張だと思う。

 アニマは冷ややかに僕を見下ろして答えた。

「あなたさっきイライラしたでしょ? そういうのを女の子に見せるのってよくないことよ。なんていうか、紳士的じゃないわ」

「だからって殴ってもいいのか?」

「わたしはあなたにそういうのを見せちゃいけないって教えてあげたかったのよ。だから仕方なく…」

 彼女が言い終わる前に僕は立ち上がり、彼女につかみかかろうとした。彼女はそれを敏感に察知して一目散に駆け出した。

「待てよ!」

 と僕は言った。

「嫌よ!」

 と彼女は答えた。実に明快な回答だ。

 彼女はまるで通い慣れた道を進むように突き出た枝や木の根をかわしながら軽やかに走った。僕はつまずいたり転びそうになったりしながら懸命に彼女の後を追った。

 息も絶え絶えになりながら走っていくうちに、突然周りを蔽っていた木々が途切れて視界が広がった。太陽の光が目にしみる。ようやく目が慣れてきた僕の前に、白く切り立った岩壁とそこに空いた洞穴があった。

「あなたの言った通りね」

 肩で息をしながらアニマが言った。

「何が?」

「『わたしは正しい』」

 そう言って彼女は笑った。

 僕はその場に座り込んだ。疲れが体中を駆け巡っていた。

「別に走らなくってもたどり着けたんじゃないの?」

「いいじゃない。たどり着いたんだから。それに走ったのはあなたのせいでしょ?」

「君が叩いたからだろ?」

「それはあなたがイライラを見せたからよ」

 僕はそれ以上口論することをやめ、息を整えることに集中した。しばらくしてアニマが言った。

「……ほんとはね、一度あなたが怒ったところが見てみたかったのよ。あなたいつも感情をおもてに出さないで自分の中に抱え込んじゃってるみたいだから。だからよかった。あなたもちゃんと怒ったりするのね」

 僕はそれについて少し考え、そして彼女にこう訊ねた。

「……その理由、今考えたでしょ?」

「そうよ」

 そう言って彼女は無邪気に笑った。いろんなことがどうでもよく思えてくるような笑顔だった。


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