第12話

 翌朝、目を覚ますと部屋にはアニマの姿はなかった。僕は節々が痛む身体を起こして部屋の中を見回した。ベッドがきれいに整えられている。彼女は意外と几帳面な性格らしい。

 部屋を出て居間に向かうと、そこにはお茶を飲みながら仲良く談笑しているエリカとアニマの姿があった。

「お兄ちゃんおはよう。昨日は大変だったみたいだね」

 エリカは笑顔で言った。


 あとになってアニマから聞いたのだけど、アニマはエリカに自分は海をへだてた遠い街から来たのだと説明したそうだ。

アニマの乗っていた船が嵐で沈み、自分一人がこの島の砂浜に漂着した。途方に暮れていたところに僕がやってきて家まで連れてきてくれた、というのが、アニマがエリカに語った物語だ。


 もちろん、その時の僕はそんなこと知るよしもなかったから、適当に二人の話を聞きながらあいづちを打っていた。

 アニマもエリカもよく笑っていた。僕は昨夜の話通り、アニマがうまくやってくれたのだと思った。

 僕は手早く朝食をすませて歯を磨き、着替えをすませて仕事に行くために家を出た。めずらしくエリカが家の外まで見送りに来てくれた。

 家の外に出ると、エリカは小声で僕に言った。

「…ところでアニマさんは…いつまでここにいるの?」

 そう言ってエリカは不安そうな目で僕を見た。問題は全然解決してはいなかった。

 僕は肩をすくめてわからないといった仕草をして、とりあえずそのまま仕事へと向かった。


 休み明けの仕事は身体が重く感じられる。仕事というのは長距離走みたいなもので、一度足を止めると再び走りだすために結構なエネルギーが要るのかもしれない。あるいはただ単純に、昨日の疲れが残っているだけなのかもしれない。

 この日もまた、地下に伸びるパイプの点検をした。前の日の担当者が残したメモに目を通して、その続きから始める。ここで働いている人が一体何人いるのか、僕は知らない。大勢の人間が働いているということはわかるが、すべての人と知り合える機会があるわけではない。むしろ全く顔を合わせたことのない人間の方が多いくらいだ。

 昼食はいつも食堂で食べる。大抵はひとりで食べるけれど、顔見知りがいればその人と一緒に食べる。この日はグラジオラス爺さんとストックさんの席に同席させてもらった。

 グラジオラス爺さんは小柄でやせていて、使い古したモップのような口髭をたくわえている。いつもボロボロのつなぎを着ているので工場長というよりも古参の職工のように見える。実際工場長室にいることよりも現場の見回りをしていることのほうが多いので、工員たちはみんなグラジオラス爺さんに親しみを感じている。

 ストックさんはよく食べる。いつも二人前を注文し、誰よりも早く平らげる。反対にグラジオラス爺さんはほとんど食べない。大抵スープのみですませる。その代わりに、食事中もよくしゃべる。

「わしがこの工場の核となる地力抽出装置を考えついたのは二十歳のときじゃった。植物が地中に根を張って成長に必要なエネルギーを吸収しているのに着想を得てな。実に十年以上の歳月をかけて完成させたんじゃ」

 もう何十回と聞いた話だ。グラジオラス爺さんの話はいつもここから始まる。仕事の話をするときでも、人生哲学の話をするときでも、博打の話をするときでも、決まってそこから始められる。

 今日は女の人の話だった。

「十年……実につらく、長い年月じゃった。そのつらさを癒してくれたのが女だ。美しい女たち…彼女らがいなかったら、おそらくはこの偉大な発明も世に出ることはなかったじゃろうなぁ」

「あれ? 工場長は確か二十歳で結婚したんじゃなかったでしたっけ?」

 音を立ててスープをすすりながらストックさんが言った。

「その通りじゃ」

「じゃあ、女たちっていうのは…?」

「わしは当時からモテておったからのぅ。かみさん以外にも何人も恋人がおったのじゃよ」

「奥さんにはばれなかったんですか?」

 僕はパンを口に運びながら訊いた。

「無論、ばれた」

「その時どうしたんです? 謝ったんですか? それとも開き直ったんですか?」

 ストックさんが茶化すように訊ねた。

「馬鹿たれ!」

 とグラジオラス爺さんは大声で怒鳴った。その声で周りで食事をしていた人の何人かはこちらを振り向いた。

「謝ったに決まっとるじゃろうが! 『申し訳ございません、もう二度といたしません』ってな。テーブルに額をこすりつけて何度も何度も謝ったわい」

「それで…奥さんは許してくれたんですか?」

 と僕は訊ねた。

「丸ひと月、口を聞いてもらえんかった。それまで一滴も酒を呑んだりせんかったのに、毎日浴びるように呑んでのう…あれ以来、ちとアルコール依存症になってしもうたわい…」

 そう言ってグラジオラス爺さんは少し寂しげな顔を浮かべた。けれども次の瞬間には目を輝かせて、

「カイウよ、女はいいぞ。男の人生は女をものにするためだけにあるんじゃ。あとのことはほんのお遊びじゃ。女の柔肌、これに触れずして何の人生か。女なしの人生なんか犬にでも食わせてしまえ」

 と言ってグラジオラス爺さんは豪快に笑った。

 食堂での会話のほとんどがくだらない冗談だ。僕たちはあえて冗談を言い合い、仕事の緊張をほぐしている。僕たちの仕事はひとつのミスも許されないものだ。仕事中は誰もが神経をとがらせ、自分のやるべきことに集中している。だからこそ、食事のあいだは神経を休ませる必要があるのだ。


 辺りがすっかり暗くなったころ、一日の仕事を終えて疲れきった身体を引きずるように、僕は一軒の婦人服店を訪ねた。アニマの着る服を買うためだった。

「いらっしゃいませ」

 丸い団子を乗せたような髪形をした店員の女の子は閉店の準備をしている手を止め、笑顔で僕を迎え入れた。

「なにをお探しでしょうか?」

「友人にプレゼントする服を探してるんです」

「どのようなものをお探しですか? 何かイメージしてるものとかってあります?」

 ここにきて、僕は愕然とした。これまで服装に興味がなかったばかりか、女の子に服をプレゼントするのも初めてで、何を基準に選べばいいかわからなかった。服を選ぶというのは、自転車のタイヤチューブを選ぶのとはわけが違うのだ。

「すみません。こういうのに慣れてなくて…」

 僕がそう言うと、店員の女の子はにんまりと笑った。僕は彼女がどのようなことを思ったのかが容易に想像できた。

「お幾つくらいの方ですか?」

「僕と同い年くらいです」

「二十歳くらい?」

「いえ、十六歳くらい」

 店員の女の子は申し訳なさそうな顔を浮かべた。僕は自分が幾つに見られたって気にしない。ここ数カ月鏡だって見ていないのだ。

「その方の身長はどのくらいですか?」

 彼女は気を取り直したように明るく訊いてきた。

「僕より少し背が低いです」

 そう言って僕は指で自分の耳の辺りの高さを指し示した。

「では、この薄いピンクのワンピースはいかがですか?」

 そう言って彼女は全体に小さな花の模様をあしらったひらひらした服を出してきた。

「もう少し普段着として着られるものがいいです……よく分からないけど」

 僕がそう言うと、彼女は少し考えて裾にフリルのついた淡いベージュの服を持ってきた。

「こちらのチュニックはいかがでしょうか? 着心地もいいですし、いろんなものと合わせることができますよ」

 デザインの良し悪しはわからないけど、それはふわっとしていて動きやすそうで、なんとなく活発なアニマに似合うような気がした。

 僕はすぐにそれを買うことに決めて、料金を支払って受け取った包みをカバンに押し込むと足早に店を出た。なんとも言えず気恥ずかしかったからだ。

 帰り道、僕はこれまで味わったことのないような気持ちの高ぶりを感じていた。妙にそわそわした心持ちだった。アニマは僕の買った服を喜んでくれるだろうか、とか、きっとアニマに似合うに違いない、とか、そんなことを考えながら家へと急いだ。

 家に帰って来た僕を待っていたのは、エリカとアニマの楽しげな笑い声だった。

「あ、お兄ちゃんおかえりなさい。見て見て、アニマさんに服を作ったの」

 アニマは薄手のブラウスをはおり、ふわっとしたスカートをひらひらと揺すって見せた。

「前の家から持ってきてたお母さんの服が残っていたから、それを仕立て直したの」

 そう言ってエリカは得意げな笑みを浮かべた。アニマははじめのうちはにこにこして僕の反応をうかがっていたけど、僕が何も言わずに突っ立っていると、そのうちに広げていた裾を下におろした。

「何か言うことはないのかしら。似合ってるよ、とか、きれいだよ、とか」

 そう言ってアニマは少し不満げな表情を浮かべた。僕は戸惑いから口に出す言葉が見つからず、かといってアニマに言われた言葉をそのまま口に出すこともはばかられたので、とりあえず、苦笑いを浮かべた。アニマはため息をついて「これだから男の子は、ねぇ」と言ってエリカに目配せをした。エリカもため息をついて、「お兄ちゃんはそんなだから彼女もできないんだよ」とあきれたように言った。それを聞いて僕もため息をついた。

 三人で夕食を食べているあいだ、僕は一言も口を利かなかった。僕はいらいらしていた。買ってきたプレゼントを渡すタイミングを逃したことが原因なんだけど、そんな小さなことで機嫌を損ねている自分を認めるのも嫌だった。僕は夕食を食べ終えると何も言わずにそのまま自分の部屋へと向かった。

 僕が部屋に戻って義手の肘関節を調整していると、ドアをノックする音が聞こえてきた。

「わたしよ。入ってもいい?」

 アニマの声だった。僕は「いいよ」と短く答えた。

 彼女が部屋に入ってきても、僕は作業の手を止めなかった。彼女はベッドに腰掛け、しばらく黙って僕の様子を眺めていた。

「エリカちゃん、とても器用なのね。服の仕立て直しもほとんどエリカちゃんがひとりでやってくれたのよ。膝で布を押さえて、左手でハサミを使ったり針と糸を使ったりして」

 僕は少し意外に思った。エリカは片腕を失ってから極端に人目を気にするようになった。好奇の目を向けられることを怖れてあまり外出もしなくなった。だからエリカが人目につくところで片腕で作業をするなんて考えられなかった。エリカは今日一日でアニマにかなり心を許したのだと思った。

 僕はそれが少し気に入らなかった。自分とエリカとの絆が少し弱くなったように感じた。自分だけが取り残されたみたいな寂しさといらだちとが沸き起こり、急にアニマが憎らしく思えてきた。

 僕は無言のまま作業を続けた。やがて、アニマがしびれをきらして言った。

「…何か気に入らないことでもあるの?」

「別にないよ」

「うそだ。じゃあなんでそんな態度をとるのよ?」

「これが普通なんだよ。別に普段と変わりない。エリカに聞いてみたらわかるよ」

「エリカちゃんが言ってたのよ、今日のお兄ちゃんちょっと変だって。ねえ、何が気に入らないの? 正直に言って」

 アニマに問い詰められれば問い詰められるほど、僕の心はかたくなになっていった。僕はそれ以上何も言わず、黙々と作業を続けた。けれども頭の中はいろいろな感情が溢れてうまく集中できず、関節部のネジをしめたりゆるめたりしているだけだった。

 長い沈黙のあとで、アニマが独り言のようなものをつぶやき始めた。

それは歌だった。


「やわらかな午後のひかり

 ゆりかごを揺する手

 ここちよい風の中にひびく

 あなたのやさしい歌声


 うつくしい世界に生まれた

 ちいさなほほ笑み

 千の喜びがあなたにふりそそぎますように

 万の慈愛があなたをつつみますように」


「その歌は……」

 僕は振り返ってアニマに訊ねた。アニマはしばらくのあいだ目を閉じて歌っていたが、やがてゆっくりと目を開けると、ほほ笑みながら答えた。

「あなたがまだちいさかったころに、あなたのお母さんが歌ってくれた子守歌よ」

「なぜそれを…?」

「あなたのお母さんが着ていた服に袖を通したとき、ほんのかすかだけど、あなたのお母さんの匂いがしたわ。それで…思い出したの」

「驚いた…ずっと忘れていたのに…」

「だけどあなたの中にはしっかりと残っていたのよ。あなたのお母さんの記憶とともにね」

 そう言ってアニマはまたほほ笑んだ。

 気がつけば、僕の心の中によどんでいたわだかまりが取れ、とても素直な心地になっていた。

 それからアニマは子守歌とともに思い出した僕の子供のころの出来事を話した。川で遊んでいて溺れかけたこと、父親に怒られ砂浜で泣いたこと、紙飛行機に夢中になっていたこと。なつかしくもあり、少し恥ずかしくもあった。それらは僕の思い出であり、同時に母の思い出でもあるようだった。

 話が一区切りついたとき、僕はカバンから包みを取り出してアニマに渡した。アニマは包みをひらくと、目を輝かせて僕を見た。

「これをわたしに?」

 僕は恥ずかしさから苦笑いを浮かべながら小さく頷いた。

「ありがとう! 着てみてもいい?」

「今度にしなよ。今はせっかくエリカが直した服を着てるんだし」

 アニマはにっこりと笑い、丁寧に包みを閉じ直した。

「今度お礼をするね」

「期待しないで待ってるよ」

「そんなのだめ。期待して待っててよ」

 そう言ってアニマは笑いながら包みを持って部屋を出て行った。僕はため息をひとつついたが、うれしさで顔が緩んでいるのが自分でもよくわかった。


 しばらくして僕が部屋を出て居間に入ると、アニマとエリカがなにやら相談事をしていた。

「お兄ちゃん、どうすればいい?」

 エリカが突然僕に訊ねた。

「好きにすればいいと思うよ」

 と僕は答えた。

「どうしてお兄ちゃんはいつもそういいかげんなの?」

 エリカがうんざりしたように言った。

「いいかげんなのはそっちだろう。何も聞いてないのに答えられるわけないじゃないか」

「だったらはじめからそう言えばいいじゃない。どうして素直な受け答えができないのよ」

「わたしはこのままでもいいわよ」

 アニマは笑顔で言った。

「だめよそれは!」

 エリカが語気をあらげて言った。

「何の話?」

 僕はようやく素直に訊ねた。

「アニマさんの寝るところよ。昨日はお兄ちゃんの部屋で寝たんでしょ? でも……それはよくないと思うわ」

 エリカは眉をしかめて言った。

「どうして?」

 アニマが不思議そうに訊ねた。

「だって……何かまちがいでもあったらいけないでしょ?」

「まちがい?」

 アニマがまたも無邪気に訊ねた。エリカは言いにくそうにもじもじとしていた。僕はなんだかとても居心地が悪くなってきた。

「お兄ちゃんは男の子だし、アニマさんは女の子だから…」

 エリカは小さな声でぼそぼそと言った。

「じゃあ、今物置になってる部屋を片付けて寝られるようにしよう。今度の休みに僕がやっておくよ」

 僕はそう言って席を立とうとした。エリカがすかさず訊ねてきた。

「じゃあ、今晩はどうすればいいの?」

「エリカの部屋に寝かせてあげればいいじゃないか」

「…そうね、じゃあそうしましょう」

 エリカが笑顔で言った。

「ごめんなさい。迷惑をかけてしまって」

 アニマがエリカに申し訳なさそうに言った。僕に対する態度とは大違いだ。

「いいのよアニマさん、気にしないで」

 エリカが優しげなほほ笑みを浮かべて言った。女の子同士の会話って、どうしてこんなに嘘臭いものなのだろう。そんなことを考えながら、僕は自分の部屋へと戻っていった。


 翌日、仕事を終えて帰ってくると物置には『アニマ』と書かれた札がかけられてあった。アニマとエリカが一日がかりで掃除をしたのだそうだ。

 アニマは昨晩僕が贈った服を着ていた。

「お兄ちゃんがアニマさんに買ってあげたんだって? いいなぁ。あたしももうすぐ誕生日なんですけど」

 エリカが目を輝かせて言った。

「そうかぁ。君ももうすぐ15歳になるのか。いやぁ、月日が経つのは早いものだなぁ。お兄ちゃんは君が元気に育ってくれるてることが何よりもうれしいよ」

 僕は笑顔で言った。

「そんな言葉はいらない。嘘っぽい笑顔もいらない。プレゼントが欲しい」

 エリカが冷ややかに言った。

「努力しよう」

 僕は力強く言った。

「ところで君の誕生日はいつだっけ?」

 僕はエリカの手から放たれた布巾をあざやかにかわすと、軽やかなステップを踏みながら自分の部屋へと向かった。

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