第11話
海からの帰り道、僕はふと疑問に思ったことをアニマに訊ねた。
「君は…そのー…うちで暮らすことになるのかな?」
アニマは不思議そうな顔をして訊き返してきた。
「どうして? ほかにどこに行けって言うのよ?」
「そっか…そうだよね…」
僕の言葉に、アニマは大きなため息をついて言った。
「あのねぇ、あなたは気に入らないのかもしれないけど、わたしたちはパートナーなのよ? 望むとか望まないとかじゃなくてもうすでにそうなっちゃったの。だから少しくらいパートナーに対して親切心を持ってもいいんじゃない? それともあなたはそんなスプーン一杯分の優しさも持ち合わせてないわけ?」
「そうじゃないよ」
と僕はあわてて言った。
「ただ僕の家は僕ひとりで住んでるわけじゃないからさ。もう言ったけど、妹とふたりで暮らしてるんだよ。だから一応妹にも訊いてみないと…」
「それなら大丈夫」
とアニマは満面の笑みで言った。
「心配しないでよ。わたしにまかせて。うまくやるから」
僕はどううまくやるのか訊きたかったけど、そうこうしているうちに家に着いてしまったので結局なにも訊くことができなかった。
家の中はしんとした静けさに満たされていた。エリカはもうとっくに寝ているはずだ。
僕たちは足音をたてないように部屋へと戻った。僕はベッドに腰を下ろし、とりあえず深いため息をついた。ほかにするべきことがなかったからだ。
アニマはしばらく戸口に立ったまま部屋の中を見回していたかと思うと、おもむろに作業机のほうへと歩いていき、机の上にかけておいた覆いを取り去った。あまりに唐突な出来事だった。無骨な機械仕掛けの腕が、僕以外の人の目に初めてさらされた。これまで誰にも見られないようにしていたし、誰にも話さなかった僕の秘密があらわになった。
アニマはしばらく無言のままそこにある機械の腕を見つめていた。心臓が、真綿で締め付けられているように苦しかった。
「…これは何?」
長い沈黙のあとでアニマがぽつりと言った。
「……義手、だよ」
僕は言った。
「誰の?」
「…妹の」
短い沈黙のあとで、再びアニマが僕に訊ねた。
「あなたの妹は、いつ右腕を失くしたの?」
「…小さい頃に」
「事故かなにかで?」
僕は黙った。アニマは静かに僕のほうを見つめていた。長い沈黙のあとで、僕はようやくその言葉を口にした。
「……僕が、妹の腕を奪ったんだ」
そのときの光景が、そのとき感じた暗く重い感情とともに蘇ってきた。
今からおよそ5年前のその日、僕とエリカは父に連れられて父の友達が働いている木材加工工場に行った。
父とその友達が話をしているあいだ、僕とエリカは工場の中で追いかけっこをしていた。
彼女が逃げ回り、僕が追いかける。
工場の中にはいろいろな機械が置かれていた。
「あまり奥へは行くなよ」という父の声が聞こえてきた。
だけど僕とエリカはその言葉には従わず、様々な機械のあいだをすり抜けてどんどん工場の奥へと入っていった。
不意に、僕は彼女を見失った。
僕は小さな声で彼女の名前を呼んでみたけど、僕の声は辺りを埋め尽くす機械の作動音にかき消された。
次に僕がエリカを見つけたとき、彼女は木材をチップにするための粉砕機の前で立ち止まっていた。
彼女はぼんやりとした様子で木材が無数の爪のついた鋼鉄製のローラーで砕かれていくのを眺めていた。
僕はそっとうしろから彼女に近づき、両手で背中をとんと押した。
ちょっとおどかしてやるつもりだった。
エリカをびっくりさせてやろうという、軽いいたずらのつもりだった。
だけど彼女は不意に僕に背中を押されたためにバランスを崩し、機械のほうへとよろけた。
それは一瞬の出来事だった。
僕は彼女を引きとめることもできなかった。
エリカはとっさに出した右腕を機械にはさまれた。
鋼鉄の爪が、彼女の腕を骨もろとも粉々に砕いていく。
エリカが叫び声をあげる。
だけど僕は怖くて彼女を助けることができずにその場に立ち尽くしていた。
悲鳴を聞きつけた父がエリカを粉砕機から引き離すまで、僕は何もしないままただただその場に立ち尽くしていた――。
僕がそのときのことを話すあいだ、アニマは黙って僕を見つめていた。責めるような様子でも、あわれむような様子でもなかった。僕が話し終えたあとも、彼女は何も言わずに僕を見つめていた。沈黙が、僕の心に重くのしかかった。
「……だから、あなたは義手を作っているのね? 妹のために」
しばらくしてアニマが言った。とても優しい声だった。
「…僕は償いたいんだ。自分の犯した過ちを。もちろん、こんなことをしたぐらいで許してもらえるとは思わない。だけどどんなことでもいい、僕にできることをしてあげたいんだ。彼女のために…いや、きっと自分自身のために……」
アニマは僕の言葉に静かにうなずいた。
わずかな沈黙のあとで、僕はアニマに思い切って訊ねてみた。これまで幾度となく考え、そして、答えを見つけられずにいたことを。
「……ねえ、犯した罪は…償えるのかな?」
そう言った僕の声は少し震えていた。アニマはそれについてしばらく考えていた。時折彼女は唇を開いて何かを言いかけたけれど、その唇はまたすぐ閉じられた。そんなふうにして言葉を選んでいる彼女を僕は長いあいだ見つめていた。
やがて彼女は僕のほうに向きなおって言った。
「…わからない。この世界には取り返しのつく過ちと取り返しのつかない過ちがあると思うの。そしてこれは、あなたもわかっているでしょうけど、取り返しのつかない過ち。どれだけお金を払っても、たとえあなたの腕を切り落としても、あるいは、あなたの命を捧げたとしても…彼女の腕はけっして元には戻らない」
アニマは真剣な眼差しでそう言った。
彼女が僕に告げたのはゆるぎない真実だ。僕が数えきれないほど何度も向き合ってきた、逃れようのない真実。
そのあとで、アニマはやさしい微笑みとともにこう付け加えた。
「もしかしたら正解なんてないのかもしれない。でも、これからわたしもあなたと共に生きて、一緒にその答えを探していくわ。だって、わたしはあなたの半身なんだから」
アニマのその言葉は僕の心の奥深くに染み込んでいき、僕の魂そのものを揺さぶった。孤独の氷原に陽の光が差し込み、厚い氷を砕き、その下から新しい世界が顔をのぞかせた。
涙が溢れそうになるのをこらえながら、僕はアニマに「ありがとう」と言った。他にもたくさん言いたいことはあったけれどうまく言葉にすることができなかった。アニマは僕の頬をそっと撫でて、「これからよろしくね」と笑顔で言った。
しばらくとりとめもない話をしたあとで、僕は明日の仕事にそなえて寝ることにした。けれども問題があった。この部屋にはベッドがひとつしかないのだ。
「…そろそろ寝よっか」
と僕はいくらか緊張して言った。
「そうね。寝ましょうか」
と彼女は軽く答えた。彼女は何も気にしていない様子だった。あるいは気づいていないのかもしれない。
しばらく待ってみたけど彼女は何も言わなかったので、僕は確認の意味でつけ加えた。
「ベッドは、ひとつしかないけど…」
「そうね。じゃあ悪いけどベッドはわたしが使わせてもらうわね」
彼女は笑顔でそう言った。
「…じゃあ僕はどこで寝ればいいの?」
「どこでもいいんじゃない? 今日はそんなに寒くないし」
僕が不服そうにしていると、アニマはいぶかしげな顔で僕を見た。
「まさか、とは思うけど……あなたわたしに床で寝ろなんて言うんじゃないでしょうね?」
「まさか!」
と僕は言った。そして僕はそれ以上の議論をあきらめ、古い毛布をひっぱりだして床に敷いてその上に横になった。当たり前のことだけど、床はベッドよりもはるかに堅く、寝づらかった。
明かりを消した部屋の中で、アニマが話しかけてきた。
「ねぇ、あなたの妹って、どんな子なの?」
「どんな? ……普通の子だよ。人見知りするタイプだけど」
彼女は、ふうん、とだけ答え、そこで会話は終わった。と、思ったら、また別の質問を投げかけてきた。
「ねぇ、あなた恋人はいるの?」
「いないよ」
「これまでもずっと?」
「これまでもずっと」
彼女はまた、ふうん、とだけ答えた。何か釈然としない気持ちだけが僕の中に取り残された。
またしばらくしてアニマが質問してきた。
「ねぇ、最初に見たときわたしのことかわいいなって思った?」
「もういいから寝ろよ。明日仕事なんだから」
僕がそう言うと、アニマはしばらくのあいだ小声で何かぶつぶつ言っていたが、やがてあきらめた様子で静かな寝息を立て始めた。
こうして、僕の長い一日がようやくの終わりを迎えた。
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