第10話
一人で考え事がしたいとき、僕はいつも夜の海を見に行く。
家の前の小道を道なりに進むと小さな砂浜に通じていて、その砂浜までのゆるやかで曲がりくねった下り道は僕のお気に入りの散歩コースだ。
頭の中でこんがらがってしまった糸をほどくために、僕はここにやってきた。一人で出てくるつもりだったけれど、女の子は当然のように僕の後ろをついてきた。そのせいで僕はうまく考えをまとめることができなかった。
静かに輝く大きな月が道の両脇を覆う下草を蒼く染めている。本当に美しく、そして心穏やかになる光景だ。今日のことがなかったら、きっと今僕はそれをもっと感じることができたことだろう。
やがて僕たちは海辺の切り立った岩の隙間を通り抜け、目的の砂浜へとたどり着いた。海はまるで光のシーツのようにやわらかく波打ち、砂浜は星をちりばめたように白く輝いている。
女の子は生まれて初めて見たであろう海に目を輝かせて波打ち際まで駈け出して行った。僕は砂浜に横たわる流木に腰を下ろして、はしゃいでいる女の子をぼんやりと眺めながらまとまらない考えごとをしていた。
「見て見て!」
水際から女の子が楽しそうに僕に呼びかけた。現れたばかりのころとは打って変わって彼女はまるで幼い少女のようだった。彼女が水面に手をかざすと、波間から小さな水柱がぽっこりと立ち上がった。彼女はそれを僕に見せると得意そうな笑みを浮かべた。僕はもはや驚く気力を失っていて、再び痛み始めた頭をさすりながらため息をついた。
やがて女の子は息を切らせながら走って戻ってくると僕の隣に腰をおろした。
「ねえ、あなたの名前、まだ聞いてなかったわよね?」
女の子は笑顔で言った。
「カイウ」
と僕は短く答えた。
「君の名前は?」
僕が訊ねると、彼女は少し考えたあとでこう言った。
「アニマよ」
「アニマ? そんな花聞いたことないよ?」
「花?」
「そうだよ。ここではみんな自分の通り名に花の名前を使うんだ。本当の名前は産まれたときにへその緒と一緒に教会に預けられるんだ。それは本人と親しか知らないし、自分の本当の名前は誰にも言ってはいけないんだよ。そんなことも知らないの?」
「…知らないわよ」
と彼女は少しむっとして答えた。
「君は僕なのに?」
「知らないものは知らないの。いいでしょ、別に。とにかく、わたしの名前はアニマなの。それ以外の名前はないし、使いたくもないわ」
女の子がどんどん不機嫌になっていくのを感じたので、僕はそれ以上は何も言わず、海へと目を向けた。そうしてしばらくの間僕たちは黙って月明かりに照らされた海を眺めていた。
「……君はどこから来たの?」
長い沈黙のあとで僕はアニマに訊ねた。
「あなたの外側から、あなたの内側を通ってよ」
アニマは穏やかな口調で言った。彼女の機嫌はいくらか改善されたようだった。
「それが…君が僕である理由?」
「そうよ」
そう言ったあとで、アニマは少し間をおいて「ちょっと違うかな」と言い加えた。
「わたしは今あなたを通して世界に触れているし、あなたを通して感じたり、考えたりしているの。だから、わたしはあなたなのよ」
「…よくわからないな」
と僕は言った。
「だって君は君として僕の前にいるし、僕は僕として君の前にいるだろう? あと君は今自分の考えを僕に話してくれているわけで、それは僕が考えていることじゃないよ?」
僕がそう言うと、彼女は少し考えたあとでゆっくりと話し始めた。
「こう考えるといいわ。あなたの中にはいくつもの箱があるのよ。想像してみて。それらはひとつひとつ色分けされていて、それぞれ別のものが入っているの。あなたが普段からよく目にしている箱もあれば、あなたが存在すら知らない箱もある。そしてあなたは、それらの箱を組み合わせて物事を考え、言葉を紡いでいるの。箱の順番や組み合わせが違うと、出てくる言葉はまったく違ったものになる。わたしはあなたの中の箱を使って、あなたと違う組み合わせで考えているから、あなたと違った言葉が出てくるのよ。だけど結局はあなたの中にあるものだけを使っているわけだから、わたしはあなた、と言うことができるの」
僕はそれについて少し考えてみた。けれどもやはりうまく理解することができなかった。彼女はそんな僕の様子をじっと見つめていた。
彼女は咳ばらいをひとつして再び話し始めた。
「例えばあなたが道端で泣いている子供を見たとしましょう。自分には関係ないし関わり合いになるのはめんどくさいな、という考え方がある。その一方で、困っている人のために自分ができることをしてあげたい、という考え方もある。きっとあなたはどちらの考えにも共感できるはずよ。どちらの考えも、あなたの中にあるものだから。だけどあなたはその子供に声をかけることなく通り過ぎるわ。だってめんどうだから。誰かがなんとかするだろうと思っているから。でもわたしはその子供に声をかけて、どうして泣いているのか訊ねるの。あなたの中にある、あなたが選ばなかった考え方にもとづいて…。
どうかな? これでわかってくれた?」
僕はその理屈をわかりはした。わかりはしたが、どこか腑に落ちなかった。
僕は続けて質問をした。
「それじゃあ記憶についてはどうなの? 君は僕の知らないことを知っているし、それは僕が経験していないことの記憶からくるものだと思うんだけど」
僕がそう言うとアニマは間髪入れずに答えた。
「さっきも言ったようにあなたの中にはあなたの知らない箱がたくさんあるのよ。記憶についてもそう。あなたの知らない記憶がつまった箱があるのよ」
「僕の知らない記憶?」
「そうよ。あなたの知らない記憶。例えば――あなたはあなたが生まれたときのことを憶えてる?」
僕は首を振った。
「憶えてないな」
「だけどあなたは確かにこの世界に生きているわけだし、生まれるということを経験しているのよ。あなたは思い出すことができないかもしれないけれど、その記憶はあなたの中に確かに存在するの。うまくその記憶の糸をたぐることができないだけでね。
そんな感じで、あなたの中にはうまく引き出すことのできない記憶がたくさんあるのよ。あなたの経験したことについての記憶や、あなた以外の人が経験したことについての記憶がね」
「僕以外の人の記憶?」
僕はびっくりして訊ねた。
「そう。あなたの中にはあなた自身の記憶のほかに、あなた以外の人たちの記憶も保管されているの。だけどそれはあなたの中のとても深いところにしまわれているし、しっかりと鍵がかけられているから、あなたには決してそれを思い出すことはできないけどね」
「君は……その箱を開けるための鍵を持っていて、思い出すことができるの?」
僕の問いかけにアニマは何も言わず、ただ含みのある笑みを浮かべた。
僕はそのことについて少し考えてみた。僕の奥底にある、僕以外の人たちの記憶――。僕は自分がこれまでに出会ってきた人たちの顔を思い浮かべた。そして次に、自分が出会ったことのない人たちの顔を思い浮かべようとした。僕の中にある、僕の知らない人たちの記憶……。アニマの言うように、どれだけ努力してみても思い出すことはできなかった。
しばらくしてアニマが言った。
「わたしはあなたを通して世界に触れていると言ったけれど、あなたの中にあるすべてがわかるわけではないの。あなたのなかにあるあなた以外の人たちの記憶と同じように、あなたの記憶のほとんどにも鍵がかけられていて、その鍵を持っているのはあなたしかいないから。だからつまり、最低限のプライバシーは守られているというわけ。よかったわね」
そう言って彼女はほほ笑んだ。そのあとで、少しだけさびしそうな表情を浮かべた。けれども僕はそれについては何も言わなかった。
普段考えもしなかったようなことを考え続けていたせいで、僕の頭はいささかぼんやりとしていた。だけど決して悪い気分ではなかった。少しだけアニマの秘密に触れられたような気がして、うれしかった。
「どう? 少しはわかってもらえたかな?」
アニマが不安そうに訊いてきた。
「…なんとなく、だけどね」
僕はそう答えた。するとアニマは心の底からほっとしたようににっこりと笑って言った。
「よかったぁ。心配してたほど残念な人じゃなかったのね」
僕はそれに苦笑いで応えた。
やがてアニマは立ち上がると、再び海へと歩いて行った。彼女は波が足元をさらうところで立ち止まり、波の感触を確かめたあとで静かに月を見上げた。蒼白い月の光に照らされて、白いシャツ越しに彼女の身体のシルエットが見える。繊細で美しく、そしてはかない輪郭――。それはまさしく、彼女と世界とを分つ生まれたばかりの境界線なのだと思った。
アニマはゆっくりと、大きく輝く月に向かって手を伸ばした。すると波間から一筋の水柱が立ちあがり、弧を描くように月へと伸びていった。透明な水晶のようにきらきらと輝く水流は、やがて月をまたぐ幻想的なアーチとなった。それは僕がこれまで見たどの光景よりもきれいで、神秘的で、うまくは言えないけれど、希望に満ちた光景だった。
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