第9話

「…気分はどう?」

 長い沈黙のあとで、僕は女の子に訊ねた。考えに考え抜いた末の質問だった。

 彼女は僕の問いかけにすぐには答えず、しばらくの間天井に吊るしたランプを眺めていた。そうしながら自分の身体の調子に耳を澄ませているようだった。

「…こういうふうな形で肉体を持つのは初めてだから、身体が重い感じがするわ。でも、そう悪い気分じゃないわね」

 女の子は天井のランプに目を向けたままそう言った。僕はそれ以上質問することができず(もともと女の子と話をするのにあまり慣れていなかった)、黙って自分の手のひらを見るともなく見ていた。

 しばらくして彼女は言った。

「ねえ、喉が渇いたから何か持ってきてくれない?」

 僕はうなずき、立ち上がって部屋から出ようとした。ドアのノブに手をかけたところで、後ろから女の子がいたずらっぽい口調で言った。

「あなたわたしの裸見たでしょ」

「見てないよ」

 僕は突然の言葉に動揺しながら、後ろを振り返えらずに答えた。

「いいのよ隠さなくっても。まあいいわ。裸のままだとわたしもちょっと恥ずかしいから、何か着るものを持ってきてくれない?」

 彼女はやさしい口調でそう言った。

 僕は意を決して振り返り、平静を装いながら答えた。

「着るものって言ったって…ここには君に合うサイズの女物の服なんてないよ。この家には僕と妹の二人しかいないし、妹は君よりずっと背が低いんだ」

「なんでもいいのよ。あなたの服でもいいわ」

「僕の服ならそこの棚に入っているから、好きなの着ていいよ」

「わかった。そうするわ。あなたが水を取りに行っているあいだに着替えておくから、なるべくゆっくり戻ってきてね」

 そう言って彼女は身を起こすと布団で身体を隠しながら僕が出ていくのを待った。僕はその雰囲気に押し出されるように部屋を出てキッチンへと向かった。


 できるだけ音を立てないように、僕は流し台にある手押しポンプを片手で動かしながらグラスに水を注いだ。そうしながら、僕は女の子について考えた。なんていうか、あまりにも普通な感じがした。ものすごい現れ方だったし、それにものすごくきれいな容姿だったから、あの子は何か特別な使命を帯びた女の子で、目覚めたとき、例えば世界の存亡に関わるような重大な予言みたいなものを話し始めるんじゃないかと思った。けれども彼女は飲み物と着る物を要求してきただけだった。僕はなんだか拍子抜けしてしまった。

 それにしても、彼女はいったいどこから来たんだろうか。

 そう考えたとき、僕は不意に昼間の出来事を思い出した。ガラス管の中にいた『精霊』――それが彼女の正体なのだろうか?

 僕はさらに白衣の老人が言っていたことを思い出した。彼の話ではあの影のような『精霊』と僕がひとつになる、というようなことではなかったか。それなのにどうして彼女はひとりの人間として現れたのだろうか?

 いくつもの疑問符を浮かべたまま、僕は部屋へと戻っていった。


 部屋に戻ると女の子は僕の白い長袖シャツを羽織り、ベッドに腰かけて自分の手のひらをまじまじと眺めていた。シャツは彼女の太ももまでを覆っていたが、その先は裸のまま床へと投げ出されていた。僕はつい、彼女の白くてつやのあるきれいな素足に見とれてしまった。

「おかえりなさい」

 彼女は自分の手のひらを見つめたままそう言った。その言葉で僕は我に返り、そそくさとグラスに入った水を彼女に差し出した。

 女の子はそれをひとくち口に含み、長い時間をかけて丁寧に飲み込んだ。

「……なるほどね」

 と彼女は言った。僕に言っているふうではなかったので、おそらくは独り言なのだろうと思った。何に納得したのかはわからなかったけれど、彼女は自分の身体に不慣れで、きっとひとつひとつのことを確認していく必要があるのだろうと思った。だから僕はそれに対して何も訊ねなかった。

 僕はベッドの脇に置いた椅子に腰をおろし、彼女がひとくちずつゆっくりと水を飲むのを眺めていた。

「…ねぇ、君はいったい何者なの?」

 しばらくして僕は彼女に訊ねた。彼女はまるで僕の言葉が聞こえなかったかのようにグラスに入った水を見つめていた。僕はなんとも言えないばつの悪さを感じて、かゆくもない首の後ろを掻いてみたりして自分をごまかした。

 僕がもう一度同じ質問をしようか迷っていたとき、彼女は僕のほうへと顔を向け、やわらかな笑みを浮かべて言った。

「わたしはあなたよ」

 その言葉に僕の頭は混乱した。

「君が……僕?」

「そうよ」

 そう言って彼女はにっこりと笑った。

「……じゃあ僕は誰なの?」

 僕の言葉に、彼女は一瞬面喰ったような顔をして、そのあとでいぶかしそうな眼差しを僕に向けた。彼女の気持ちはわからないでもなかった。

 彼女はあきれたようなため息をついて言った。

「何言ってるのよ。あなたはあなたでしょう? 頭はだいじょうぶ?」

 僕はなんだか頭痛がしてきた。

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