第8話

 ……どれくらい眠っていたのだろうか?

 僕はベッドに横たわったまま薄目を開けて机の上に置いてある時計を見た。まだそれほど時間はたっていなかった。部屋の中がいつもより少し暗く感じる。天井に吊るしてあるランプのオイルが少なくなっているのかもしれない。

 僕は再び目を閉じ、静かに深く息をした。かすかな空腹感を覚える。このまま寝てしまおうか、それともなにか口に入れようか、迷う程度のものだ。

 僕の身体は心地よいベッドの感触にくるまれている。こんなにもベッドは気持ちの良いものだっただろうか。今日の出来事が、まるで全部夢だったように思えてくる。あるいは本当に夢だったのかもしれない。

 今僕がいるのは普段と変わりない僕の部屋だ。ここには変な装置も年老いた科学者もいない。当たり前のものが、当たり前にあるだけだ。あたたかなベッド。かすかな土の匂い。機械にさすオイルの匂い。そして、水の流れる音……

 ……水の音?

 僕は目を閉じたまま注意深く耳をそばだてた。確かに、さわさわと水の流れる音がした。

 僕は恐る恐る目を開けて辺りを見回した。部屋はあきらかにいつもより暗く、部屋を照らす光はゆらゆらと波打っていた。僕はランプを吊るしてある天井を見上げた。するとランプのちょうど真下あたりに、大きな水の球が空中にぽっかりと浮かんでいるのが見えた。

 僕は寝ぼけた頭を思いきり叩かれたかのように驚いて飛び起きた。自分の見ているものが信じられなくて何度か目をこすってみたが、水の球は相変わらずそこにあった。僕は混乱した。昼間の出来事が、僕の平穏な日常を奪い去ってしまったようだった。

 水球の表面は細かく波打ち、水は下から上へとのぼっていた。それは次第に大きくなっていき、それに併せて表面の水の流れもだんだんと速く、強くなっていくのがわかった。わかったところでどうなるものでもないけれど、とにかくそうだった。

 僕はなんとかして部屋から出なければと思った。けれども大きくなった水球に行く手を阻まれて身動きが取れず、結局はただ茫然と大きさを増す水球の様子を眺めているよりほかなかった。

 やがて、水球は真中からふたつに割れた。その中には目を閉じ膝をかかえたひとりの女の子の姿があった。

 予想もできない出来事に、僕は息をすることさえ忘れていた。


 水球はその裂け目から裸の女の子をはき出すと、そのままただの水になって床の上に崩れ落ちた。

 突然の出来事に、僕はしばらく茫然としたまま目の前の光景を眺めていた。どれだけ眺めても相変わらず女の子はそこに倒れていて、床は一面大雨のあとのように水浸しだった。

 ようやく我に返ると、僕はひとまず女の子を抱えてベッドに運び布団をかけた。ベッドは水を吸ってすぐにぐっしょりと濡れてしまったので、僕は目をつぶって布団を上げ、何枚かのタオルをその中に突っ込んだ。そのあとで、僕はとりあえず水浸しになった床を雑巾で拭くことにした。どう考えても優先順位の低いことだけど、僕はそれをしないわけにはいかなかった。なにか有用なことをするには頭が混乱しすぎていたからだ。まず落ち着こう、落ち着くんだ、と僕は自分に言い聞かせながら丁寧に床を拭いた。

 しばらく掃除をしていなかったので床は見違えるほどきれいになった。いい機会だったかもしれないな、と僕は思った。そう思ったあとで、僕は自分が一連の非現実的な状況に慣れ始めていることに気がつき、ひとり苦笑いを浮かべた。

 床を拭き終えたあとで、僕は机の前に置いていた椅子をベッドの脇に持ってきて腰かけ、眠っている女の子を眺めた。透き通るように白い肌と、青味がかった長くきれいな髪が目を引く。歳は僕と同い年くらいだろうか。女の子は静かな深い寝息をたてている。長いまつげが時折小さく震える。

 僕は彼女を抱きかかえたときの腕の感触を思い出した。やわらかくて、あたたかくて、確かな重みがあった。まるで現実の女の子のようだった。そう考えるとなんだか急に恥ずかしさが込み上げてきた。

 そのとき、女の子のまぶたがかすかに震えた。僕は息をのんで彼女を見つめた。心臓が激しく波打ち、息苦しさを覚えた。

 女の子はゆっくりと目を開けた。彼女はしばらくは天井を眺めていたが、やがて、僕のほうへと視線を移した。僕は何も言うことができずにただ黙って彼女を見つめていた。

 しばしの沈黙のあとで、女の子は小さな、どこか懐かしい響きの声で言った。

「……はじめまして」

 「はじめまして」と僕は少し戸惑いながら答えた。彼女はそれを聞いてやさしい笑みを浮かべた。


 こうして僕たちは出会った。

 夢のように現実離れした出来事のあとで、彼女との出会いは、これから起こる様々な変化を僕に確信させるものだった。

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