第7話

 ……かすかな水音が聞こえる。

 ゆるやかで、とてもあたたかな響き……。


 ゆっくりと目を開けると、そこには満天の星空が広がっていた。視界を遮るものはなにもなく、どこまでも高く、澄んだ星空だ。

 気がつくと僕は上半身を木片に引っかけたままゆらゆらと水面を漂っていた。生暖かい水がゆりかごのように身体を揺らす。まるで深い眠りから目覚めたときのように僕の意識はうまく機能してはいなかった。今の自分の状況を整理することもできずに、僕はしばらくのあいだ水面に浮かんだままぼんやりと夜空を眺めていた。

 しだいに意識がはっきりとしてきてから、僕は首だけを動かしてあたりを見回してみた。そこは見たことのない池だった。まるで生まれたばかりのように純粋できれいな水が満ちていて、水面は星の光を受けてきらめいていた。

 不意に実験室で見た光景が頭をよぎった。それはあまりにも僕の日常からかけ離れていて、まるで白昼夢のような出来事だった。そう考えると今こうして見知らぬ池の真ん中で漂いながら星空を眺めていることも十分すぎるくらい非日常的で、その夢の続きを見ているとしか思えなかった。

 やがて僕は岸辺に向かって泳ぎ始めた。足がつきそうな感じはまったくなく、池はかなり深いものだと思った。岸辺にあがって周囲を見渡すと、見覚えのある生垣が池をぐるりと囲んでいた。言い換えるとあの生垣の中がそっくりそのまま池になっていた。まるで昔からずっとそうであったかのように、池は豊かで澄んだ水をたたえている。そこに屋敷があったことを忘れてしまいそうなほど、穏やかで美しい光景だ。

 よく見ると池の脇には屋敷にあったと思われるものが、まるで記憶の残骸のように散乱していた。シャンデリアのものと思われるようなガラス片や割れた屋根瓦…そんなものだ。

 その中に、一冊のノートが水に打たれながら岸辺に引っかかっているのが見えた。僕は近寄ってそのノートを拾い上げた。びっしょりと濡れていて無理に開くと破けてしまいそうだった。僕はしばらく考えたあとでそれを持って帰ることにした。

 生垣をくぐって道に出ると、道の端に打ち捨てられた粗大ごみのように僕の自転車が転がっていた。道の真ん中にはうっすらと焼け跡が残っている。僕は自転車を引き起こし、どこか違和感のある身体を自転車の上に乗せて家へと向かった。


 なんとか自分の家にたどり着き、自転車を柵に立てかけてドアを開けると、いつもと変わらない様子のエリカがのんきな顔で椅子に座って本を読んでいた。

「あ、お兄ちゃんおかえりなさい。遅かったのね。どこに行ってたの?」

 僕はあまりに普段通りのエリカの口調に全身の力が抜けるような感じがした。

「お前のほうこそどこに行ってたんだよ? ずっと探してたんだぞ」

 僕の問いかけに、エリカは不思議そうな顔を浮かべて言った。

「裏の森に木の実を採りに行くって言ったでしょ? ……! やだお兄ちゃんびしょ濡れじゃない! いったい何してたのよ?」

 そう言うとエリカは急いで棚へと駆け寄り、たたんで置いてあったタオルを取って僕に投げてよこした。僕は受け取ったタオルで頭を拭きながらエリカに言った。

「裏の森にも探しに行ったんだぞ?」

「そうなの? でも午前中はそこにいたよ?」

「名前を呼んだりしたんだけど、聞こえなかったのか?」

「聞こえなかったわよ。ずっと森の入口あたりにいたんだから、もし本当に呼んでくれてたのなら聞こえたはずよ」

「本当に呼んだよ。ねえ、本当にそこにいたのか?」

「しつこいなぁ、本当にいたわよ。もういいから早く服を着替えてきなよ。そのままだと風邪ひいちゃうよ」

 僕はすっきりしない気持ちを抱えたまま自分の部屋へと向かおうとした。そのとき、エリカが後ろから思い出したかのように言った。

「そういえば今日大きな地震があったね。あたしびっくりしちゃった」

 僕はそれに対して返事をせずに、そのまま部屋へと向かった。

 部屋に入ってランプに灯を移し、拾ってきたノートを机の上に放り投げて乾いた服に着替えた。ベッドの上に横になり、しばらくぼんやりと今日あった出来事を振り返ってみた。

 いるはずの場所にいなかったエリカ……炎に包まれた人……あやしい白衣の老人と地下研究室……精霊……消えた屋敷と現れた池……。

 すべてのことが謎めいていて、これまでの僕の生活とはあまりにかけ離れていて現実味がなかった。全部夢だったんだよ、と誰かに言ってもらえればすっきりするだろうけど、そう言ってくれそうな人はどこにもいない。

 ドアをノックする音が聞こえる。

「お兄ちゃん、晩ごはんは食べてきたの?」

 エリカがドアの向こうから訊ねた。

「食べてないよ」

「なにか食べる?」

「いらない。食べたくない」

 しばしの沈黙。

「…じゃあ、あたしは先に食べちゃうね。なにか食べたくなったら言ってね」

「……うん、わかった」

 エリカがいなくなると、僕は目を閉じ、ゆっくりと深く息を吸った。かすかに土の匂いのする僕の部屋の空気。これが僕の現実なんだ。

 僕は今日あった出来事について考えるのをやめ、疲れ果てた身体を眠りの中へと沈めていった。

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