第6話

 気がつくと、僕の体は青色の柔らかな光に包まれていた。

 体が思うように動かない。何かに縛られているわけではない。動かし方を忘れてしまったみたいだった。これまでどうやって手足を動かしていたのかを思い出すことができない。まるで自分の体が自分のものではなくなってしまったような感覚だ。

 ためしに指先に力を込めるように意識してみたけれど、ぴくりとも動かなかった。僕の心は僕の体と切り離されてしまったみたいだった。

 接続がうまくいっていないんだ、と思った。配線がうまくつながっていないのだ。

 配線――僕は作りかけのエリカの義手を思い出した。そういえばエリカは? エリカは一体どこに行ってしまったんだろう?

 青い光の先にぼんやりと見えるものがあった。揺らめきながら見えるそれは、さっきまで僕がいたあの実験室だった。僕はどうやら、先ほど見たあの巨大なガラス管の中に入れられているらしかった。僕の体を包み込んでいるもの――僕が青色の液体だと思っていたものは、実際に触れてみると水のような感触ではなかった。もっとふわふわとしたもので、水の中とは違って息をすることもできた。空気とは違って肺に入るときに少し重たいような感覚があるけれども、息苦しくもなければ変な臭いもしない。だけどほんの少し頭がぼんやりするのは、もしかしたらこれを吸っているせいなのかもしれない。

 部屋の中を白い影が横切った。見ると白髪頭の白衣の男の人が一人、僕に背中を向けて様々な機械のあいだを行き来しながら黙々と作業をしていた。

 やがてその老人は振り返って僕のほうを見た。するどいわし鼻が印象的で、かけている眼鏡の片方がひび割れていた。机の上にあったあの写真に写っていた人だ、と思った。その人は僕が入れられているガラス管に近づき、鼻をこすりつけるように中を覗き込んだ。

「気がついたか……」

 その老人は小さくつぶやいた。それは僕に向かって話しかけたというよりはまるで独り言のように聞こえた。その人は僕のことを一人の人間としてではなく、まるで物を見るような眼で見ていた。

 その老人の白衣は右腕のあたりが真っ赤な血に染まっていた。右手の指先から血のしずくが落ちている。けれどもその人はまるで気にも留めていないかのように、再び作業を続けた。

「この研究のためにすべてを捧げてきた。知識、時間、資財……そして愛する者さえも…。その果てに得たものとはなんだ? ……砕けたガラスの破片だ。リアトリスは亡き骸すら残してはくれなかった。……いや、私が奪ったのだ。息子のすべてを……」

 老人は誰に言うともなく語り続けた。ガラス越しに聞こえるその人の声はくぐもってぼやけていた。それはまるで遠くの海から波に乗って運ばれてきているみたいだった。遠い遠い海の果ての名前も知らない誰かが、誰に宛てたわけでもなく瓶に詰めて流した手紙のようだと思った。

 やがてその老人は小さな椅子に腰かけてこちらを向いた。その顔は疲れ果て、一切の生気が失われていた。僕のほうを見ているけれど、その眼はうつろでどこか遠くの景色を見ているようだった。

「再び世界を元の形に戻さなければいけない。そのためにははるか昔そうであったように、再び人の手に自然を管理する権能を取り戻さなくてはならんのだ。これは使命だ。私に与えられた使命なのだ。いや…、私のなすべき…贖罪なのだ。

 自然界に溶け込み、機能としてのみ存在を続けていた人間の片割れ――精霊を抽出することに成功したまではよかったが……それを再び人間と融合させるには、あるいは時が経ち過ぎていたのかも知れん……」

 時折皮肉めいた笑みを浮かべながら、老人は話し続けていた。

 僕はふと隣のガラス管に目を向けた。そこには僕と同じように青色の光に包まれて浮かぶ何かが見えた。黒い影のようなそれは形を変えながらガラス管の中をゆらゆらと漂っていた。これが…彼の言う『精霊』なのだろうか…?

 やがて老人は立ち上がり、たくさんのパネルやスイッチのついた巨大な箱状の機械の前まで行くと、そこから突き出ているレバーに手をかけて引き下ろした。低い作動音が響き始め、部屋中の機械のランプが次々に点灯していった。

 それにともなって僕が入れられていたガラス管の底から細かな泡状のものがたち始めた。それはしだいに数を増して僕の視界を覆っていき、ついには何も見えなくなってしまった。泡音にまぎれて老人の声が聞こえてくる。

「すべてを失ってしまった……すべて…。もはやひとかけらの希望も残ってはいない。失ったものがあまりに大きすぎた。それを悲しむだけの力も、もはや残ってはいない。もうおしまいだ。なにもかも……」

 立ち上る泡の切れ間から僕は老人の顔を見た。老人は僕のほうを見ていた。その瞬間、老人は不思議そうな顔をして、その表情には驚きすら浮かんでいた。まるで、はじめて僕という存在に気がついたかのように。

 老人は最後にこうつぶやいた。

「ああ…なんということだ…存在が重なり、ひとつになる…」


 激しい衝撃が僕の全身を襲う。身体が強引に引き伸ばされていくように感じる。引き伸ばされ、ねじ曲げられ、振り回されているような感覚。激しい苦痛と吐き気。まるで身体の内側と外側を力づくでひっくり返されているようだった。身体の外にあったあらゆるものが身体の中へと押し込められ、反対に身体の中にあったものは残らず外に引っ張り出されているみたいだ。

 あまりの苦痛に意識が遠のく。薄れていく意識の中で、老人の最後の言葉がこだまのように響いていた。


 ひとつになる…


 ひとつになる…


 ひとつになる…


 ひとつになる…


 ひとつに…


 その言葉も、やがて空白の中へと飲み込まれていった。

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