第5話

 翌朝、僕が目を覚ますとすでに家の中にエリカの姿はなかった。僕は庭先まで出て彼女の姿を探したけれど、そこでも彼女を見つけることはできなかった。昨日言っていた通り、裏の森に行ったのだろうと思った。

 僕はひとまずキッチンでお湯を沸かしてお茶をいれた。テーブルの上にも、書置きのようなものはなかった。家の近所に出かけるだけなら普段から書置きなんてしないから、いつもと変わりないと言えば変わりはない。だけど何かが、僕の心をノックし続けていた。僕はしばらくのあいだお茶をすすりながら昨晩の会話を反芻していた。じっとしていればいるほど落ち着かない気持ちになっていった。僕の胸の中に後悔という名前の種が植えられているような気がした。それが時間とともに成長していき、やがて小さく芽吹いたころ、僕は顔を洗い着替えをすませて家を出た。

 丘を登って裏の森へと入っていく。落葉樹の茂る静かな森だ。辺りは朝の日の光に照らされていて、鳥の声が涼しげに聞こえてくる。僕が歩くたびに乾いた落ち葉がぱりぱりと心地よい音をたてた。

 エリカはいつも森の入口近くで木の実を採っていた。「森の奥には怖い生き物がたくさんいるから」と言って、入口が見えるところより奥には行こうとはしなかった。けれども僕はそこでもエリカを見つけることができなかった。木々の隙間を覗き込んだりもしたけれど、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。僕は少しためらったあとで思い切って大きな声で名前を呼んでみた。けれども返事はなく、周囲からは木の葉のざわめきしか聞こえてはこなかった。

 ほんの少し、心に不安がよぎる。僕は森を出て、辺りを見回しながらとりあえず家へと戻った。

 案の定エリカは家に戻ってはいなかった。僕は家中をくまなく探したけれどやはり彼女を見つけることはできなかった。少し考えたあとで、僕はとりあえず自転車に乗って街のほうへと行ってみることにした。

 辺りはやさしい日の光に満ちていて、やさしい風が草花の匂いを運んでくる。けれども僕の心はそれらを楽しめるほど穏やかではなかった。取り立てて大きな不幸が起こっているとは考えてはいない。けれども何かしら不吉な予感がして、しかもその一因が昨晩の自分との会話にあるのではないかという思いが、まるで薄暗い霧のように僕の心を覆っていた。

 細く急な坂を下り、廃墟を過ぎて雑木林に入る。僕は一度自転車を降りて雑木林の暗がりに目をこらした。けれどもやはりここにもエリカの姿は見つからなかった。

 やがて僕は広大な畑を横切る道に出た。そこで昨日見かけた風変りな農夫の姿が見えた。その人は昨日と同じ場所で、昨日と同じように畑の手入れをしていた。僕は自転車を止めると、思い切ってその人に声をかけた。

「あのう…」

 それほど距離が離れているわけではないのに、その人の耳には届かなかったらしく僕の呼びかけに応えてはくれなかった。

「すみません!」

 僕は声を張ってみた。その農夫はようやく僕の声に気づき、ゆっくりと振り返って僕を見た。

「ああ、こんにちは」

 その男の人はやさしい笑顔で言った。麦藁帽子の下に見える整った細面の顔には似つかわしくないような少し間の抜けた声だった。まるで声変わりをする前の少年のように甲高くて、老人のようにのんびりとした口調だった。

「どうしたんだい? 僕に何か用事かな?」

 その男の人は頬を伝う汗を首にかけたタオルでぬぐいながら僕に訊ねた。

「この道を女の子が一人通りませんでしたか? 僕の妹なんです」

「え? なんだい? 僕は右の耳が少し聞こえづらいんだ。悪いんだけどもう一度言ってもらえないかな」

 そう言うとその人は僕に左耳を向けた。

「妹を探しているんです。14歳くらいの女の子。この辺で見かけませんでしたか?」

 僕は少し大きな声でもう一度訪ねた。

「さあて…。僕は日の出る前からずっとここにいたけど、そんな子は見なかったよ」

 僕がお礼を言って立ち去ろうとすると、今度はその男の人が僕を呼びとめた。

「その女の子の特徴を教えてくれないかな? 注意して見ておくから」

 僕は戸惑いながらもエリカの特徴を伝えた。背が低いこと、髪の長さは肩ぐらいまでであること、そして…右腕がないこと。

 右腕がないということを話しても、その人は表情を変えなかった。

「わかった。気をつけて見ておくよ。何かあったらまた声をかけておくれ」

 そう言ってその人はまたやさしい笑顔を浮かべた。

 その男の人はムシカリと名乗った。彼は申し訳なさそうな顔をして力になれなかったことをわびた。僕はびっくりして、それに対して何度も丁寧にお礼を言ってその場を離れ、もと来た道を戻ることにした。

 戻りながら、僕はエリカの行き先について考えた。ムシカリさんの話だとどうやらこの道は通ってはいない。この道を通らなければ街には行けないから、街のほうには行っていないことになる。だけど森にも家にもいなかった。そうなると、いったいどこに行ったんだろう?

 ゆっくりと自転車をこぎながら廃墟となった邸宅の脇を通り過ぎようとしたとき、不意に屋敷を囲っている生垣の奥からがさがさと葉のすれる音が聞こえてきた。僕はブレーキをかけて自転車を止め、聞こえてくるその音に耳をそばだてた。

 草の音に注意を凝らすと、それは背の高い草をかき分けるような音だった。それに加えて何かがはじけるような音も聞こえてくる。

 僕は自転車を降りて生垣に近づいた。エリカに違いない、そう思った。音は左右にぶれながらゆっくりとこちらに近づいてきた。

 僕は生垣を覗き込み、「エリカ」と小さく呼びかけてみた。


 その瞬間、真っ赤な炎に包まれたものが生垣から僕の目の前に飛び出してきた。僕はびっくりして飛び上り、そのまま地面に尻もちをついて倒れた。何が起こっているのか理解できなかった。炎に包まれたそれはよろめきながら、倒れている僕のほうへ覆いかぶさるように手を伸ばしてきた。僕はあわてて飛び起きると転げるように走って逃げた。

 少し離れたところまで走って振り返ると、炎の塊はそれ以上僕を追いかけてきたりはせず、道の真ん中で身をよじりながら低くくぐもった声を上げた。何かを訴えかけているような声だ。そこで僕は初めて、それが炎に焼かれている人間だということに気がついた。

 僕ははっと我に返り、なんとかその人を助けなければと思った。ゆっくりと近づいてみたが、炎はまるでそれ自体が意思を持っているかのように渦巻いては舞い上がり、近寄る僕にからみつこうとした。これ以上はとても近づけそうになかった。辺りには川も池もなく、僕はただただ手をこまねいて苦しみもがくその人を見守るよりほかなかった。異臭が鼻を突く。初めて嗅いだ、人の焼ける臭いだ。

 やがて、炎に包まれたその人は末期の悲鳴とともにひざから地面に倒れ込んだ。その瞬間、もはや炭と化していた身体はもろくも崩れ、上半身だけを残して炭の山となった。人ひとりを燃やしつくした炎は次第に勢いを弱め、やがてゆっくりと地面に吸い込まれるように消えていった。

 僕は茫然と立ち尽くしたままその様子を見つめ続けた。くすぶり煙っている炭の塊からはまだ人の上半身の形がはっきりと見て取れた。両手で首を抱えるようにして地面に突っ伏している。けれどもそれもまたすぐに崩れ落ち、すべては灰の山となった。

 灰山は吹き抜ける風に飛ばされ、しばらくあとには何も残らなくなった。ただ地面についた黒いしみのような焼け跡だけが、さっきまでのすさまじい光景を物語っていた。

 目の前でひとりの人間が焼け死んだという事実を、僕はうまく飲み込めないでいた。まるで白昼夢のように脈絡のない出来事だった。

 突然炎に包まれた人が生垣から飛び出してきたかと思うと、苦痛に身をよじり、命そのものから絞り出すような叫び声を上げ、そして、死んでしまった。あとにはほとんど何も残ってはいない。そのことが、僕の感情を行き場のないものにしていた。

 目の前で起こった出来事をうまく整理できない中で、僕はふとエリカのことを思い出した。さっきの炎に焼かれた人……あれはエリカだったのだろうか。

 僕のその疑問はすぐにかき消えた。あの人は明らかにエリカよりも背が高かったし、第一苦しみもだえていたその人には両腕があったからだ。

 僕は今さっきその人が飛び出してきた生垣のほうへと目を向けた。生垣はその人が触れた部分だけが炎で焼かれ、まるで入口のようになっていた。中を覗くとその先の茂みもその人が歩いてきた場所がそのまま焼け焦げて黒い一筋の道になっていた。茂みにはまだところどころ小さな火が残っていた。青々とした生草なので勢いよく燃え広がるといった様子はなく、火の消えたあとからは白い煙が上っている。

 しばらく迷ったあとで、僕は生垣をくぐって中へと入ってみることにした。


 草むらに埋もれるようにしてその屋敷はあった。四方に高くそびえる尖塔をかかえた、まるで宮殿を思わせるような豪邸だ。けれども赤い屋根はところどころがはげ落ちていて、灰色の石壁にはつる草が生い茂っている。昔は大勢の人がここに住んでいたのかもしれない。けれども今は人が暮らしている様子はない。

 子供のころに一度だけ、僕はこの屋敷を見たことがあった。エリカと一緒に祖父の家に遊びにきて、二人で探検ごっこをしていたときだ。僕たちは生垣に頭を突っ込んで屋敷を見た。そのときも同じように人の気配はなく、どこかあやしい雰囲気の建物だと思った。「おばけが出るかもよ…」と僕はエリカに言った。そのとき急にけたたましい鳴き声とともにたくさんのカラスが一斉に屋敷の屋根から飛び立った。僕とエリカはあわてて生垣から首を引っこ抜くと一目散で祖父の家へと戻った。それ以来、僕もエリカもここには近づこうとはしなかった。

 黒く焼け焦げた道は蛇行しながら屋敷の入口へと続いていた。僕はその道にそってゆっくりと屋敷へと歩いていった。

 屋敷の大きな扉は開かれたままになっていた。扉の内側に付けられている金属製の取っ手がいびつな形に歪んでいる。恐る恐る中をのぞくとそこには薄暗い広間が見えた。明かりが灯っていないため中の様子ははっきりとはわからない。僕は少しためらったけれど、屋敷の中へと入ってみることにした。

 暗がりに目が慣れるまで少し時間がかかった。入ってすぐの広間の正面には上の階へと続く大きな階段があり、その両脇にはそれぞれ2つずつ、うっすらとドアが見えた。天井には大きくて立派なシャンデリアが吊るされている。明かりは灯っていないけれど、開かれた扉から差し込む光を受けてきらきらと光っている。床には濃い赤色の絨毯が敷かれていて、その上に足跡の形をした焦げ跡が細かく散った灰とともに残っていた。

 足跡は一番右のドアから外へと続いていた。僕の胸は激しく打ち始めた。だけどその時の気持ちはうまく言い表すことができない。期待や不安とは異なる、名前をつけられない感情が体の中から湧き出てくるようだった。その感情に突き動かされるように、僕の足は一歩また一歩とそのドアへと進んでいった。

 ドアノブに手をかけたとき、僕はあまりの熱さに思わず手をひっこめた。ドアはすでに半開きになっていたので、僕はドアのふちに指をかけてそっと引き、中へと入った。

 中は地下へと続くらせん状の石階段になっていた。下のほうからはぼんやりとした青色の光が漏れている。僕はその明かりをたよりにゆっくりと暗い階段を下っていった。

 階段を下りていくうちに、僕はだんだんと妙な心地になっていた。さっきまでの胸の高鳴りはおさまり、反対に妙に落ち着いた安らかな気持ちになっていった。まるで昔住んでいた家に戻っていくような、自分のあるべき場所へと戻っていくような、そんな懐かしさに満たされていくのを感じた。

 長いらせん階段を下りきると、そこは奇妙な実験室になっていた。見たこともない機材や薬品のビンが並んでいて、壁には無数のメモ書きや設計図が所せましと貼り付けられている。部屋の中央にはひときわ目を引く円柱形の巨大なガラスの容器が立っている。僕の背丈よりもずっと大きなその容器の中は青白い光を放つ不思議な液体で満たされていた。上から見えた青い光の正体はこれだったのかと思った。

 ガラスの容器は全部で4本あった。青色の液体が入ったものが2つと、赤色の液体が入ったものが2つ、それぞれ組になって並べられていた。けれども赤色の液体の入った容器は両方とも割れていて、中の液体は半分くらいしか残っていなかった。床には粉々に砕けたガラス片が散乱していて、一部は溶けて床にへばりついていた。

 僕はぼんやりと部屋の中を見回した。幾冊もの本やノートが積み上げられた机があり、その隅に置かれた写真立てに目がとまった。写真立てには古ぼけた一枚の写真が飾られていた。白衣を着た男女と、生まれたばかりの赤ちゃんが写っていた。眼鏡をかけたわし鼻の男の人が女の人の肩に手をまわし、にっこりとほほ笑んでいる。隣にいるつぶらなやさしい目をした女の人は赤ちゃんを腕に抱いていて、やはり幸せそうに微笑んでいる。

 僕がその写真を手に取ろうとしたとき、突然、後頭部に強い衝撃が走った。目の前が真っ暗になり、僕はそのまま、意識を失った。

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