第4話
かすかな音が聞こえる。
ささやきに似た乾いた音。
まるで夢の底を弾くように、小さく、軽く…。
しばらくして音は止んだ。
僕はもう一度その音を聞きたいと思った。
音の正体を確かめたいと思った。
次に聞こえてきた音は、僕の想像をはるかに超えるものだった。
無限の憎しみを込めて打ち鳴らされたかのようなその音は、僕のまどろんだ意識を叩き起し、無理やり覚醒へと導いた。
「お兄ちゃん起きて! もう夜だよ!」
音の主はエリカだった。どうやらエリカは箒か何かでドアを力いっぱい叩いているらしかった。
僕はゆっくりと身体を起こした。そこで僕は、自分が作業の途中で力尽き、机に突っ伏したまま寝てしまったことに気がついた。両手は鉄粉にまみれていて、身体の節々には重く鈍い痛みがある。僕はゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをしてからエリカの怒鳴り声のほうへと向かった。
ドアを開けるとそこにはエプロンをつけたエリカがいた。彼女は怒りで顔を赤くし荒く息をしている。エリカは後ろ手にフライパンを握りしめていた。あともう少し出るのが遅ければ、ドアをたたき割られていたかもしれないと思った。
「夕食のご用意をさせていただきましたけど?」
エリカはふくれた顔でそう言った。僕は小さくうなずくと寝ぼけた頭を抱えたまま食卓へと向かった。
テーブルにはバケットに入ったパンと、鶏肉とトマトのスープが並んでいた。トマトは僕の好物だ。やわらかくて甘酸っぱい匂いが僕の空っぽの胃袋をくすぐった。
「食べる前に手を洗ってきなさいね……ああ! お兄ちゃんの手汚いよ! 部屋で何やってたの!」
「うるさいなぁ…寝起きなんだからそんなに大きな声を出さないでくれよ。洗ってくればいいんだろ?」
僕はのそのそと流しで手を洗い、テーブルについた。
食事の前にエリカは目を閉じて手を組み、女神への感謝の祈りをささげた。僕はそれが終わるまで黙って待っていた。
静かな食事が始まった。僕がパンを手に取り、ちぎって口にはこぶ様子をエリカはしばらく寂しそうに眺めてから、やがて小さくため息をつくと片手でパンを取りそのまま口に運んだ。それを見て僕は黙ってエリカのほうへと手を差し出した。エリカは少しためらったあとで、恥ずかしそうに持っていたパンを僕に手渡した。僕は受け取ったパンを食べやすい大きさにちぎってエリカの皿へと置いてあげた。
ほんの少しだけ、僕の胸がうずく。彼女はあらかじめ自分のパンを食べやすいサイズに切っておくことはできるし、いつもはそうしている。けれどもときどき、彼女はこうして切るのを忘れたふりをする。それは自分への愛情を確認するためだと思う。彼女に不安な思いをさせ、愛情を確かめさせてしまう自分に怒りを覚える。
エリカははにかみながら、僕に向かって「ありがと」と小さく言った。僕は苦笑いでそれに応え、黙ってスープを口に運んだ。
片腕を失ってから、エリカは人との接触を避けるようになった。僕に対しては以前とほとんど変りなく接しているけれど、極度の人見知りになり、あまり外に出なくなった。必要にせまられて街へ出かけるときにはどんなに暑い日でも必ず長袖のシャツをはおり、人と目を合わさないように伏し目がちに歩いた。エリカを知る街の人たちはそんな彼女を気遣いはげましたが、それがかえって心の錘となり、ますます人のいるところへは行かなくなっていった。
食事を終えるとエリカはお茶をいれてくれた。家の近くに自生しているマメ科の野草を天日で干してから乾煎りしたもので、こうばしい香りが部屋に満ちた。このお茶は昔母親がよくいれてくれたもので、僕はしばらく黙ったまま形をとらない思い出の中に浸っていた。
やがてエリカが口を開いた。
「お兄ちゃん、明日お休みなんでしょ?」
僕は黙ってうなずいた。
「明日ね、裏の森に木の実を採りに行こうと思うんだけど、一緒に行ってくれない?」
「行かない。疲れるから」
「行こうよぉ、お兄ちゃんも少しくらいは家の手伝いしてよね」
「家のことは任せろって言ってたじゃないか。第一僕は仕事で疲れてるの。一日中家にいるお前とは違うの」
そう言ってしまったあとで、僕はひどく後悔した。無意識のうちにエリカの失われた右腕に目が行く。一瞬、その場には重い沈黙が流れた。余計なひと言からは、いつだって沈黙しか生まれてこない。そしてこの沈黙を生み出したものは他ならぬ僕の無遠慮と不注意だった。
沈黙はすぐさまエリカの無邪気な嫌みによってかき消された。
「はいはい、いいですよ。あたしひとりで行くから。お兄ちゃんなんか『仕事で疲れた、仕事で疲れた』って言ってるうちによぼよぼのおじいちゃんになってしまえばいいのよ」
僕はそれに対して何か言い返そうと思ったけど、注意して言葉を選んでいるうちにタイミングを逃してしまった。エリカは「明日楽しみだなぁ」と皮肉を込めた言葉を投げかけながら席を立ち、そのまま流し台へと向かった。僕は彼女の後姿を眺めながら小さくため息をついた。
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