第2話

 工場の敷地内から一歩外に出ると、街の活気が僕のからだを包み込んだ。

 連なった露店の店主の呼びかけ声、新鮮であざやかな野菜や魚、食堂から流れてくる香ばしい匂い。密集した店々の間にあふれるそれらに食欲をそそられながら、僕は行き来する人波をすり抜けるようにして歩いた。

 露店の並ぶ通りを抜けたあたりで、僕は帰りにパンとミルクを買ってくるようエリカに言われていたことを思い出した。少し迷ったけれど、僕は観念して再び来た道を戻ることにした。

 露店通りの中ほどにある細い路地から裏手に入ったところにあるパン屋がエリカのお気に入りの店だった。古びたレンガ造りの建物の入口には小さな青銅製の看板が掛けられていて、それが風に吹かれて小さく揺れている。大きなガラス窓の向こうには焼きたてのパンが並んでいて、何人かの女の人がトレイを片手にパンを選んでいる。僕は入口の脇に自転車を止めて店の中へと入っていった。

 中に入ると店のおばさんが愛想の良い笑顔で出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ…おやカイウじゃないか。今日は夜番明けかい? 大変だったねぇ」

 僕は軽く笑顔を作って会釈をしてから、店内を見回した。買うものは決まっていたけど、なんとなくそうすることが礼儀のような気がした。そんな僕におばさんはすかさず声をかけてきた。

「エリカちゃんに頼まれたんだろ? いつものパンを一斤とミルクでいいんだよね? ちょっと待ってな、今焼き立てを持ってきてあげるから」

 そう言っておばさんは店の奥へと引っ込んでいった。おばさんの姿が見えなくなると、意識したわけでもなくふっと肩の力が抜けたような気がした。そこではじめて、僕は自分がおばさんの前で緊張していたことに気がついた。

 しばらくして焼きたてのパンの甘い香りとともにおばさんが戻ってきた。

「お待たせ。ほぉらおいしそうだろ? それじゃあ袋に入れるね。あとはミルクだったね。それと…ほら、糖蜜パンもつけとくよ。これはあたしからエリカちゃんへのおみやげだからさ、お代はいらないよ」

 おばさんは満面の笑みで僕にそう言った。僕はお礼を言ってパン一斤とミルクの代金を支払った。品物を受け取るとき、おばさんはかすかに憐れみを込めたまなざしで僕を見て言った。

「お父さんもお母さんもいなくて大変だろう? おまけにエリカちゃんもああだし…。辛いことも多いだろうけど、がんばって生きていくんだよ。そのうちきっといいことがあるからさ。おばさんにできることがあったら何でも言っておくれよ。力になれることも、あると思うからさ」

 僕はおばさんの気遣いを素直に受け取ることができなかった。僕の心に感謝の気持ちといらだちとが同時に沸き起こる。僕は誰かの優しさに対して無意識に身構え、素直に受け止めることができないのかもしれない、と思った。だからこそ、僕はおばさんの前で緊張してしまうのだろう。

 僕はそんな心情を隠すようにもう一度丁寧にお礼を言うと足早に店を出た。

 勢いよく自転車をこいで商店街を抜け、通りを囲うようにして並ぶ貸家群を過ぎ、なだらかな丘に沿って伸びる坂道までやって来た。僕はこげるところまで自転車をこぎ、息が上がったところで自転車を降りた。


 ここからは街並みが一望できた。眼下には工場群を中心として密集した街が広がっている。工場群のちょうど真ん中には僕が働いているエネルギー工場があり、そこから無数のケーブルが延びて周りの工場へと繋がっている。

 今から何十年も昔、大地に蓄えられたエネルギーを抽出して『地力』という利用可能なエネルギーへと転換する技術が開発されてから、この街は大きく発展してきたのだそうだ。地力は火力エネルギーのように環境を汚すことなく、安心で強力な万能エネルギーとして様々なものに使われるようになった。そのおかげで、昔はここも小規模の工場が寄り集まっているだけの小さな町だったらしいけれど、今では有数の工業都市になっている。港には大きな船が何艘も停泊していて、ここから世界中に製品を運んでいる。たくさんの人が働き口を求めてこの街にやってくるので人口は今も増え続けているそうだ。夜になると地力灯特有のかすかに黄色味を帯びた光が街中を照らし、街は眠ることなく動き続けている。

 僕はしばらく街の様子を眺めていた。確かにこの街は巨大だけど、その周囲を海や森に囲まれていて、見ようによってはまるで寂しさに耐えるように家々が身を寄せ合っているようにも見える。中に入るとうるさいくらいに賑やかだけど、一歩外に出て見ると、どことなく孤独を感じさせる光景だ。

 僕の立つ丘の上には穏やかな朝の光がさしていた。やわらかい風が丘を下り、下草がさわさわと心地よい音をたてて身をゆすっている。やがて僕は小さくため息をついて再び歩き始めた。

 坂道を登りきるまで自転車を押し、そこからは再び自転車に乗ってこぎ始めた。ここからは街を背にして一本道が続く。道の両脇にはキャベツやトウモロコシの畑が広がり、畑の奥にはぽつりぽつりと農家が見える。畑にはもう何人もの農夫が出て働いていた。大半の人が地力バッテリーを使った小型の噴霧器で農薬をまいている。

 その中で、キャベツについた虫を一匹一匹丁寧に手で取っている風変りな男の人がいた。歳は20歳前後だろうか。彼は首にかけたタオルで何度も汗をぬぐっていた。おそらく朝早くから働いているのだろう。

 農園地帯を過ぎて雑木林を抜け、高い生垣に囲われた廃墟となった邸宅を過ぎると僕の家へと続く急な上り坂にたどり着く。僕は自転車を降りて岩や草むらの間を縫うようにしてのびる細い道を登っていった。

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