第1話

「働け働け! この世で一番大切なものは飯だ! だからこそお前らは働かにゃあいかん! 雑じりっ気のない愛やぴっかぴかに磨き上げた信仰、こいつらも確かに大事なもんだ。天国の門はこいつらでしか開くことはできんからな。だが地上ではまず飯が優先だ! 愛だの信仰だのはあの世まで大事にしまっとけ! さあ、働け!」

 工場内にはいつもと変わらない怒鳴り声が響いていた。

 70歳を越えてなお、工場長のグラジオラス爺さんの声はこの工場内に溢れるどの機械の作動音よりも大きく強く響く。その声は延声管を伝って工場中に届けられ、さらに工場から地中深く延びた無数のトンネルの奥深くまでこだまし、その中のひとつで昨夜から夜通し作業を続けていた僕の頭を締め付けた。

 僕は16歳で、この工場で働き始めてから今年で2年になる。3年前に両親を亡くし、それからしばらくは2つ下の妹と一緒に親戚の家に厄介になっていた。(その頃は僕も学校に通っていた)。だけど僕らはその家では文字通りの厄介者だったから、結局1年ほど暮らしたあとで祖父の残してくれた家に妹と二人で暮らし始めた。僕は学校をやめ、妹と二人で生きていくためにこの工場で働きづめの生活を送っていた。

 そして、僕はこの日も地下第2区画のパイプを固定しているネジの緩みを点検する作業を夜通しで続けていた。

 パイプと穴壁の間のわずかな隙間をワイヤーで支えられた台車で滑り降りながら、パイプを留めているネジのひとつひとつを点検していく。ひと月ほど前、地下第17区画のパイプから『地力』が漏れ出すという事故が起こった。パイプをつないでいたネジの腐食が原因だった。そのため全区画のネジを再点検するという作業が必要になったのだ。

 手元を照らすオイルランプの灯りが少し弱くなったような気がする。オイルはまだ十分にあるから、もしかしたらきちんと空気が送られてきていないのかもしれない。フィルターが汚れてきているのか、送風口から流れてくる空気はカビっぽい臭いがする。そこに汗と埃の臭いが混ざるから、マスクをしていてもいっそのこと息を止めておいたほうが楽なんじゃないかと思ってしまう。

 そんなことを考えながらも僕は黙々と作業を続けた。結局のところ、いくら愚痴をこぼしてみたってこの生活から抜け出せるわけではないのだから…。

 手袋の中が汗で滑る。僕は手袋をはずして汗まみれの手を汚れた服で拭い、再び手袋をはめてナットを握りしめた。

 その時、上のほうにかすかな光がちらつくのが見えた。台車の車輪が壁を這う響きが聞こえ、それが徐々に近づいてくるのがわかった。僕は作業を止めてじっと光が近付くのを待った。

 光の主は同じ工場で働く先輩工員のストックさんだった。

「おつかれさん。交代の時間だ」

 そう言ってストックさんは僕の隣に台車を着けると、歯茎まで見える笑みを浮かべた。

 ストックさんは31歳になるベテラン工員で、将来はグラジオラス爺さんのあとを継いでここの工場長になるのが夢だと言っていた。何か理由があって歯を磨かないのか、それとも歯を磨くという習慣がこの世にあるということを知らないのか、彼の歯はいたるところが黒く変色している。いつも汚い格好をしているので一見するとひどくずぼらなように見えるけれど彼の作業は恐ろしいほど精確でなおかつ手際がよかった。性格はとても明るく温和で面倒見もよかったので新人の研修はいつも彼にまかされていた。

「何か異常の見つかった箇所はあったか?」

 ストックさんは長年使っているぼろぼろの手袋に手を通しながら僕に訊ねた。

「第12節のネジがまるごと腐食していたので新しいものと取り換えました。穴壁から水が漏れているようでパイプそのものにも錆が浮いています。そのほかにも壁が湿っているところがいくつかあったので図面にしるしをつけておきました」

 そう言って僕はストックさんに図面を手渡した。ストックさんは持ってきたオイルランプを図面に近づけながら一通りチェックしたあとで僕に向かって笑いかけた。

「了解。あとで俺が確認しておくよ。お前は早く帰って休め。明日は非番だろう? 明後日からまたびしびし働かなくちゃいけねぇんだから、しっかり休んでおくんだぞ」

 彼の言葉に僕は疲れ果てたというような笑みで答えて、上へと上がるために台車のワイヤーを巻き取るスイッチを押した。

 台車がゆっくりと緩やかなスロープを上っていく。ストックさんの持つオイルランプの光が次第に遠くなる。僕はその光を見つめたまま上へと進んでいった。

 光が闇の中へと沈みかけたとき、ストックさんの反響した声が下から上ってきた。

「エリカちゃんによろしくなぁ!」

 僕は台車の停止スイッチを押して上昇を止め、彼の呼びかけに答えようとした。だけど結局言葉を見つけられずに再び上昇スイッチを押した。歯切れの悪さに象徴される無力感と疲労とが、僕のからだにインクのように染み込んでいくのが感じられた。


 工場本館に戻った僕は事務室に行って出勤簿を管理している女の人に声をかけた。眼鏡をかけた20歳くらいのその女の人は僕が名前を告げると無言のまま僕の出勤簿を取り出して僕に差し出した。僕は壁に掛けられた時計で時刻を確かめてから出勤簿にサインをして事務室を出た。

 工場内は朝番の工員たちの生気と夜番の工員たちの疲労とが入り混じっていて時間の感覚を狂わせる。工場には必要最小限の窓しかなく、その窓すら常に鉄板で塞がれているような状態なので工場の中にいる限り日の光で時間を知ることはできないようになっていた。

 僕は工員用の控室に戻ると持っていた工具を棚にしまい、自分のバッグを持って外に出た。


 雲ひとつない青空から降り注ぐ朝の光が目にしみた。

 軽いめまいを覚えながら、僕はいつものように工場の脇にある廃材置き場へと向かった。

 鉄骨や木片などのおびただしい数の廃材が山のように積んである。再利用目的で集められたそれらの廃材は、結局利用のめどが立たないまま長い間放置され続けていた。僕は人の目がないことを確認してからその廃材の山に登り、しばらくのあいだ物色してから比較的新しい短めの鉄パイプを数本見つけ、バッグの中へとしまい込んだ。


 工場は大きな壁で周囲を囲われている。街の重要なエネルギーを生み出している場所なので従業員以外の入場は制限されている。

 壁には大きな鉄製の主門がある。けれども長い間使われることがなかったので錆ついて開かなくなり、壁の一部となっている。ここで働く人はその門の脇にある小さな木製の副門から出入りしている。副門のすぐ横には壁に埋め込まれる形に作られた小さな門衛小屋があり、その隣には自転車置き場が設置されている。

 僕は自転車置き場で自分の自転車を取ると門を開けてもらうために門衛小屋を訪ねた。朝番と夜番が交代する時間帯には開放されている門も、その時間を過ぎると閉めっぱなしになる。僕は廃材を選ぶのに時間をかけてしまうため、いつも決められた時間を過ぎてしまうのだ。

 門衛小屋ではアスチルベという名前の小柄な爺さんが椅子に腰かけていて、いつものようにぼろぼろの日記帳を腹の上に置いたまま居眠りをしていた。

「爺さん、起きてよ。門を開けてくれよ」

 僕は静かな声で呼びかけた。だけどアスチルベの爺さんはびくりとして目を覚まし、辺りをきょろきょろと見回した。声の主が僕だとわかるとまたいつもの穏やかな顔に戻り、眠りの余韻を味わうように大きなあくびをした。

「なんじゃあカイウか…。今日はえらい早い帰りじゃのう」

「僕は夜番だったの。昨日の夜からずっと働いてたんだよ。さぁ、早く門を開けてくれよ」

 爺さんはけだるそうに重い腰を上げた。腹の上の日記帳が音をたてて落ちた。

(ずっと前に爺さんから聞いた話によると、彼は6歳の誕生日に母親から日記帳をプレゼントされてからずっと、一日も休まずに日記を書き続けているのだそうだ。そのため彼の家には膨大な量の日記帳が、それこそ時の蓄積そのままに溜まっているらしい。そして彼は今、一日も欠かすことなく日記をつける傍ら、これまで書いてきた日記をはじめから通して読み返しているのだそうだ。)

 爺さんは自分が落とした日記帳をしばらくぼんやりと見つめていたが、やがて自分がしようとしていたことを思い出したらしく、落ちた日記帳をそのままにして小屋の壁に掛けられた鍵を取るとのんびりした足取りで外に出て門の鍵を開けてくれた。僕はため息をついてアスチルベの爺さんに礼を言ってから工場を出た。

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