6.黄昏れの続き

 足音に気付いた頃から、うっすらと決めていたことがあった。


「本気か?」


 まず母親に相談し、次いで時期を見て父親に打ち明けた。反応はカメラを買って貰った時に似ていた。驚きや納得、不安や困惑。諸々の感情がない交ぜになった複雑そうな表情で父がようやく絞り出したセリフがこれだった。

 食卓の向かいではっきりと頷いてから、「本気だよ」と付け加える。


「私、あの町に戻りたい。ここはとても良いところだし、友達も沢山できたけど……」

「なら、近くの大学に進めばいいじゃないか。四大も短大も、専門学校だって色々と選べるし、わざわざ」


 わざわざそんな遠くまで、辛い思いをしに行く必要なんてない、と続けたかったのだろう。父自身、今更向き合いたくない問題だったに違いない。

 しかし、父は言葉を切った。正面から真っ直ぐに見つめる私の瞳とぶつかったからだ。ここで迷いを表せば絶対に反対される。視線を外さず、ゆっくりと言いきった。


「けど、ここには大事なものがない。欠けてるの。カメラはその穴を埋めてくれたよ。……でも、駄目だった」


 埋めようとすればするほど、穴の存在を実感する。反対に大きく開いて、早く埋めろと主張するかのようだった。心の底で忘れたくないと願い続けているのだから当然だ。


 実際はほとんどを忘れつつあるのに。忘れてしまった方が楽だと理解しているのに。自分でも矛盾しているとも、支離滅裂だとも思う。

 それでも、前に進むにしても避けて通りたくなかった。あの日の続きをきちんとして、終わらせて、それから今後を決めたかった。


「お願いします」


 深々と頭を下げる。謝罪したあの時に見た、前に住んでいた家の床板をふいに思い出した。



「体に気を付けるのよ」

「うん、分かった」


 許しを得て、私は元の町に戻った。本気で勉強し、望んだ大学にも問題なく進学できた。現在の自宅から通える距離ではなかったため、マンションの一室を借りる手続きをする。

 段ボールだらけの部屋で、引っ越しの荷解きをしながら呟いた。


「みんな元気にしてるかな」


 小学校のうちに転校していった子なんて、幻に近しい存在だ。

 引っ越して数か月は手紙のやり取りがあっても、お互いに新しい出会いや付き合いが生まれると優先順位は下がってしまう。まして私は影の濃い方ではなく、交流が自然消滅しても文句は言えなかった。


 十年に届きそうな年月が経った今となっては、体の弱い子がいたなぁ、程度がせいぜいで、すれ違っても認識するのは難しいだろう。自分だって田舎町の生活にすっかり馴染んでいたのだからお互い様だ。笑うしかなかった。


 そう、笑って済ませられる範囲なのだ、そちらは。たとえ旧友に冷たいと指摘されても反論はしない。

 私はもっと別の、「済ませられないこと」をやらなければならないのだ。そして、その時は思った以上に早くやってきた。


 黄昏れ時。

 帽子を被り、かつての記憶を辿るように足を運んだ。公園はまだそこにあり、置かれた遊具も変わってはいなかった。思い出の中よりずっと小さくて色褪せていたけれど、人気ひとけがない点は同じでなんだか嬉しかった。


「……っ」


 そして顔を巡らした先のブランコで――見付けてしまった。子ども用の遊び道具に大きくなった体を押し込んでぼんやりとしている横顔を。

 間違いない、彼だ。すぐにでも名前を叫んで振り向かせたかった。空気を吸い込みかけ、声が出ないことに思い至った。寒くもないのに体がカタカタと震える。


 イノちゃん。イノちゃん。イノちゃん……!


 心の中だけで叫ぶも足は動かず、私は立ち尽くすしかなかった。

 やがて、夕日の方を向いたまま、こちらに気付く様子のない彼の唇が動いた。それが「チナツ」と言ったように見えて、はっとする。


 イノちゃんは私を忘れてなどいなかったのだ。二人だけの秘密の場所に来ては、思い出してくれていたのだ。胸のうちから溢れた安堵が私を突き動かした。


 そうっと近付く。長く伸びたブランコの影に寄り添うみたいに腰かける。

 あまりにぼうっとしていたのだろう。イノちゃんはやっとこちらを向いて、ぽかんと口を開けた。


「……え」


 こんなにも早く逢えると思っておらず、再会の挨拶も考えてはいなかったが、言葉はするりと口からこぼれ出ていた。


「ねぇ、押してくれる?」


 ◇◇◇


「あの時は本当にびっくりしたよ。目玉が飛び出るかと思った」

「もう、またその話?」


 大学の構内にあるカフェテラスの一角で私はくすくすと笑った。イノちゃんが何度も何度も同じ話をするからだ。するたびに仕草や表現が大げさになっていて、おかしくて仕方がない。



『イノちゃん。私はちなつ、千の夏って書いて千夏。改めまして……よろしくね?』


 夕暮れのブランコで再会した直後、最初にしたのが一番の心残りであった自己紹介だった。突然の遭遇と差し出された手に呆気に取られていたイノちゃんは、反射的に握り返してくれた。


『おれは祈里いのり。……よろしく』

『ふふっ、それは教えてくれたから知ってるよ』


 ごつごつとした男性の手。あの頃とは印象も声も変わってしまったけれど、面影は確かにあった。この人は間違いなくイノちゃんだ。彼は数秒後に我に返って手を引っ込め、視線を彷徨さまよわせてから言った。


『チナツ。帰ってきた、んだよな。夢じゃないよな?』

『うん、帰ってきた。ちゃんと全部説明するし、夢じゃないって証明する』


 そうしてあの日起きた事件や、その後の出来事を幾分か語った。日が暮れてしまったので、続きはまた今度にしようとも約束したし、今度はしっかりと連絡先を交換した。


 その時に知ったのだ。本当に偶然だったけれど、私達が同じ大学の先輩と後輩だということを。



「もうブランコから落ちるかと思った」

「イノちゃんってば。何回言えば気が済むんだか」


 昼間の陽光が差し込むテーブルには天板を埋め尽くすほどの写真が広げられており、私は一枚ずつ手にとっては説明を加えた。彼は熱心に覗き込みながら耳を傾け、どれもこれもを欲しがった。


「どの写真も本当に良く撮れてるなぁ。賞が取れたのも当然だと思う。なぁ、この夕暮れの写真もくれよ」

「いいよ。どれでも持って帰って。元のデータはあるし、全部イノちゃんのために撮ったものだから」

「……チナツ」


 イノちゃんは笑い泣きのような顔をして私を見つめた。

 お互いの本名を知っても、呼び名は「イノちゃん」と「チナツ」のままだ。失った時間を取り戻すみたいに呼び合った。


 彼は、昔は子どもっぽいあだ名をやめて欲しいと訴えたこともあるのに、今では口にしない。それだけ大人になったからか、会い続けるための願掛けかもしれない。

 代わりにやめたのは謝罪だ。二人とも、両腕に持ち切れないほど抱えた「ごめん」を公園で出し合い、相殺そうさいし、捨てた。


 イノちゃんは今、謝りたい気持ちになったのだろう。言わせないためにふっと微笑んでみせる。


「ね、これからは沢山撮らせてね」

「えっ」


 戸惑いが終わる前に、私は彼の真横に移動して素早くスイッチを押した。


〈終〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る