4.新たな出会い

 引っ越し先は山に抱かれた田舎町だった。緑がくっきりと濃く、後ろに映える空が高く感じられる。

 夏の盛りの山々は生命力に溢れていて、特にセミの勢いは前の町の比ではなかった。あちこちから聞こえてきて、耳に住み着いてしまったかのようだ。


「……千夏です。よろしくお願いします」


 新たに通うことになった学校は小高い丘の上にあり、児童数は全学年を合わせても20人にも満たなかった。

 二学期からという中途半端な時期の転校生を受け入れて貰えるか不安だったが、皆遊び相手に飢えていたのか、すぐに私を仲間に加えてくれた。


 田舎は全てがゆっくりとしていた。

 二学年が一つの教室で学び、先生がそれぞれのペースをはかりながら勉強を教えてくれる授業も、全員が集まって食堂で食べる給食も、好き勝手に過ごす休み時間も。


 私は最初に体が弱いことを隠さず伝えていたため、外ではボール遊びに興じる様子を木陰でのんびりと眺め、室内遊びやお喋りには積極的に参加した。

 日射しの下で思いきり走り回れなくたって、引っ込み思案ではいたくなかったのだ。沢山の元気をくれたイノちゃんのためにも。


 嬉しいことに、のんびり屋の同い年の子――晴香はるかと特に仲良くなることができ、好きな本の話題などで盛り上がれるようになった。


「ここが私の特等席なんだ」

「わぁ……」


 彼女が教えてくれたのは、小ぢんまりとした図書室の端の席。窓から外を見遣れば、山や町の景色を一望できる素晴らしいスポットだった。天気が良い日には向こうの方に海を見ることも可能だ。

 一瞬で好きになり、通うようになった。



 そんな日々の中で、私は出会った。


「そろそろ帰る時間よ」


 図書室の先生の声に、読み込んでいた本から顔を上げる。パタパタという何人かが帰る足音につられ、何気なく外へ目を向けてはっと息を呑んだ。


 世界が真っ赤に焼けていた。大きな夕日が遥か先の海へと沈んでいく。山の峰も家々も赤一色に染め上がり、まるで一日の終わりを厳かに受け入れるための儀式のようだ。


 脳裏にはブランコが浮かんだ。ちっぽけな公園の、ちっぽけなブランコ。並んで漕いだ軋みの音や硬い感触。どこからか漂ってくる夕食の香り。交わした他愛のないお喋り。


『チナツ!』


 屈託ない笑顔で手を振るイノちゃんの姿が、沈みゆく太陽に重なった。


「……イノちゃん」


 今頃どうしているだろう。私を探して公園には来ただろうか。それとも、得体の知れない不義理な少女のことなど、とっくに忘れてしまったろうか。


 ――忘れたくない。

 記憶なんて、どれだけ留めて置きたくとも定かではないものだ。新しい生活に慣れるにつれ、あの淡い時間が別の色に塗りこめられていくのを痛烈に感じた。


 音も、匂いも、温度も、仕草も、声も、表情も、日を追うごとに霧に溶けて曖昧さを増していく。そのうすぼんやりとした霧を、夕日の強い光が一時だけ晴らしてくれた気がして、目の奥がつんと痛んだ。


 ――忘れない。絶対に忘れない。


「千夏さん、どうかした?」

「先生……」


 外を一心に見詰めたまま固まって動かない私を心配し、先生が声をかけてくれた。

 潤んでしまった目からは、あの日を思い出して涙が零れそうになる。若く、常に優しく接してくれる先生は、今も眼鏡の奥から朗らかに笑んで「どうしたの」と問い直してくれた。


「千夏さんがこちらに来てしばらく経つものね。もしかして、前にいたところが懐かしくなった?」


 無理に話さなくてもいいけれどね、と続ける。もうほとんど沈みつつある太陽に目を向けて、そういう――普段は押し込めている「意識きもち」が顔を出す時間かなと思ったのだと。

 先生にも似たような経験があるのかもしれなかった。


「……夕方にいつも遊んでた友達がいたの。凄く優しくて、元気をくれた子。色々あって上手にお別れできなかったけど……また会いたいの」

「そう」


 呟いてから、自分はイノちゃんとの再会を望んでいるのだと改めて認識した。

 ここは抜ける空のように明るくて、毎日が楽しい。だからこそ、どんどん忘れていきそうになるのが怖かった。


 せめて手紙のやり取りでも出来れば違っただろう。自分を魅了してやまない、この町の景色をいっぱい写真に撮って、沢山たくさん送ってあげたかった。

 熱を出す回数も減って、元気にしているよ。素敵なところに住んでいるよ、と。


「あら。じゃあ、いっぱい撮ったらいいじゃない」

「え?」


 先生がにっこりと笑った。私の手にそっと触れて言う。


「今は渡せなくても、いつか機会が来るかもしれないでしょう。その時に渡せるように、好きなものをいっぱい撮って、ためて置いたらいいのじゃないかしら?」


 いつか会えた時のために。その言葉はぽかりと空いてしまっていた穴にすっと埋まるみたいだった。

 私は帰るなり、両親にカメラが欲しいとお願いした。

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