3.別れと謝罪

 学期の終わりまではまだ数日あったけれど、イノちゃんとは毎日会えるわけではない。お互いの来るタイミングがずれれば何日もすれ違うことがあった。当然、連絡先も知らない。


 だから、今度顔を合わせたら必ず伝えなければならなかった。

 そして終わりにするのだ。


 ちっぽけな公園は数年を経ても姿を変えることがなかった。相変わらず遊んでいる子どもはほとんどおらず、居てもすぐに帰ってしまう。

 夏のブランコは日中の太陽光でほんのりと温かい。一人きりになった私はいつものようにぽつんと腰かけ、軽く体を揺すりながら彼を待った。


「チナツ、今日も来てたんだな」

「イノちゃん」


 逢えたのが純粋に嬉しくて、ここへ来た目的を忘れそうになる。イノちゃんが隣に乗った。ぽつぽつと話していると、笑顔の形に口が歪むのを抑えられなくなる。


 ブランコをゆらゆらと揺らして、伸びた両足で力強く漕ぐ。心が浮き立ち始める。あぁ、楽しい。遠くへ飛んでいくみたい……と思ったところで、自分が本当に遠くへ行ってしまうのだと急速に実感させられた。

 ざくりと音を立てて、かかとが砂にめり込んだ。ブランコがキィと鳴って静止する。


「チナツ?」


 怪訝そうに名前を呼ばれたら、一気に涙が溢れた。イノちゃんが私の前に立ち、心配そうに覗き込んでくる。

 顔を見られたくなくて俯いたが、後から後から大波の如く押し寄せる感情を上手く処理できず、ぽろぽろと雫を零した。


「チナツ、おい、どうしたんだよ」


 イノちゃんは優しい。声をかけながら、無理に問いただすような真似はせずに待っていてくれた。

 私はなかなか冷静になれなくて、それどころか彼の優しさに触れて余計に悲しさや寂しさを胸のうちに増してしまい、更に泣いた。


 やがて、柔らかい月の光が足元を照らし出しているのに気付き、はっとした。日はとっくに暮れ、二人とも帰らなければならない時刻を過ぎている。このままでは何も話せないまま、お別れになってしまう。

 慌てて顔をあげ、「ごめん」と謝った。随分と泣いたせいで声は枯れてしまっていた。


 イノちゃんは不安そうな表情で言葉を待っている。

 言わなければ。言わなければ。月光が雲によって遮られたのを感じた時、私はようやく唇を動かした。


「もう、会え――」

「まだこんなところに居たのか!!」


 細い糸のような世界をぷつりと切ったのもまた、父親の怒声だった。正確には約束の時間を過ぎても帰ってこない娘を心配しての怒りだったのだろうが、その時の私には強い衝撃しか感じられなかった。


「あっ」


 父は大股でやってきて、私の腕を強く掴んだ。普段であれば決して乱暴はしない人なのに、感情が抑えられなかったに違いない。

 そうして抑えられないその気持ちは、すぐ傍にいた少年にも向けられた。


「や……やめろっ」


 彼には何がどうなっているのか全く分からなかっただろう。優しいイノちゃんのことだ。友だちが酷い目に遭わされていると思ったのかもしれない。父親から私を救い出そうとして襲い掛かり――振り払われた。


 この数年でどれだけ成長したとしても、少年はまだ少年の域を脱してはおらず、大人との力の差は歴然としていた。父の手の当たった位置が悪かったのだろう。砂の上に倒れたまま、起き上がることはなかった。


「イノちゃん! イノちゃんしっかりして!!」

「あ……」


 叫ぶ私の声に父が我に返り、呆然とした声を発した。その緩んだ手から離れて少年に近付き、抱き起そうとするも、華奢な自分の力では難しかった。


 イノちゃんとは、結局そのままお別れとなってしまった。


 子どもだった私には、大人同士のやり取りはよく分からない。

 分かるのは、慌てた父が救急車を呼ぼうとしたところでイノちゃんの家のお隣さんという年配の女性がやってきて、病院に連れていってくれたことと、幸い、イノちゃんに大きな怪我がなかったことだ。


 両親は揃ってイノちゃんの親御さんのもとへ謝罪に行き、治療代やお見舞い金を渡したらしい。心から謝った上で、私の事情も知った親御さんは許してくれたようだった。


 ただし、もうお互いのためにも会わないで欲しいと言われてしまったけれど。いずれにしても、私達は予定通りここをたなければならない。


「千夏の大事な友達だったのに……。酷いことをして済まなかった」


 父は私にも謝ってくれた。いつもは大きいと感じていた背中が小さく消え入りそうだった。初めて見た大人の弱さだった。


 責める気にはなれなかった。ああなってしまった一番の原因は自分なのだ。さっさと告げるべきことを告げ、日が暮れる前に帰宅していれば事件は起こらなかった。

 父もイノちゃんも、不必要に傷付けられずに済んだはずなのだ。


「約束破って、心配かけてごめんなさい」


 そう言って頭を下げ、以来この件に触れることはなかった。

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