後編 ワンピースと帽子とヒール

 あれから数年が経ち、ぼくもチナツも成長した。


 子どもの世界は急速に広がり、幼かった時分とは比べものにならないほど目まぐるしい日々を過ごしていたが、どんなに会う回数が減っても、ぼくたちの関係は自然消滅をしなかった。


 背が伸びても「イノちゃん」呼びをやめないチナツに溜め息をついて、ぼくがブランコに加速をつけようと立ち上がりかけた時だった。


 ざざっと地面を抉るようにして、チナツが突然ブランコを止めた。靴の踵が柔らかい土にめり込み、せっかくの光沢が台無しになる。


「チナツ?」


 辺りはすでに薄闇に包まれている。不審に思ってぼくもブランコを止めると、俯いてしまった彼女の前に立った。


 立ち昇るように感じられるのは、いつも明るくエネルギッシュなチナツが初めて見せる鬱屈。しかしそれもすぐに嗚咽へと変わった。


 目から雫が零れてはワンピースに染み込んいく。押し殺した激情を引き絞るような泣き方だった。


「チナツ、おい、どうしたんだよ」


 肩に触れて問い正そうとしたけれど、声をかけるだけで精いっぱいで、ただおろおろと立ち尽くすしかなかった。


 女の子が泣いている場面に遭遇そうぐうして愕然がくぜんとしたのとは違う。ぼくは唐突に思い知ってしまったのだ。嫌われたくない一心から、チナツのことを何一つ知らないままここまで来てしまったという事実を。


 時折れる、楽器の弦を弾くような引きつりに耳を打たれながら、時間の流れに襲われているうち、冷静さを取り戻したチナツがやっと顔をあげた。


 周囲を月明かりが照らすばかりの中、瞳が赤く光っているように見えて足が竦んだが、それは泣きらしたせいに過ぎなかった。頬に刻まれた涙の筋を乱暴に拭って、枯れたのどで呟いた。


「……ごめん」


 何に対する謝罪なのか、ぼくには判らなかった。


 夜行性の虫や鳥の鳴き声がわっと迫ってくる。普段なら別れを告げている時間だ。隣の家のおばさんとの約束の時刻もとうに過ぎてしまっているし、きっと今頃心配しているだろう。


 その焦りが伝わったのか、雲がふいに影を落とし、赤く瑞々みずみずしいチナツの唇に何事かを促した。


「……もう、あえ――」

「こんなところに居たのか!!」


 少女の覚悟を遮った声は、稲光のようだった。ぼくまでが咄嗟のことに反応できず、呼吸が浅くなる。何だ? 何が起きた?


 混乱しているうちに大声を上げた主らしき中年の男性が大股でやってきて、ぼく達を見下ろした。雲よりも一層厚い影が二人を覆った。


 なんて大きいのだろう。ぼくのお父さんも背が高いけれど、この人はまるで壁か熊みたいだ。


 おじさんはぼくに鋭い一瞥をくれた後、チナツの細腕を強く引っ張った。無論、小さなチナツが敵うわけもなく、紙切れみたいに揺さぶられる。


「あっ」


 小さく悲鳴が発せられ、おぞましさが背筋をい上がった。恐怖というには生易しすぎる、聖域を侵された嫌悪感とでも表現すべき衝撃だ。


 このおじさんはチナツの父親なのだろうか。暗がりで見上げる姿はお世辞にも似ているとは言い難い。チナツの顔を窺うと、苦痛に歪んでいる。


「や……やめろっ」


 衝撃が去ると、次に沸いてきたのはふつふつと煮える怒りだった。何の権利があって、この人はチナツの心を傷つけ、優しい安堵がたゆたう空間を切り裂こうとするのか。


「なんだ?」


 値踏みするような、小馬鹿にした問い。最も嫌いな感情を臆面もなくぶつけてくる男に気持ち悪さが止まらない。


 別に正義感とか、勇気が口をついて出たわけじゃない。胸を支配しているのはただただ、吐き気と悔しさだった。


「ち、チナツを放せっ!」


 舌打ちが聞こえた。ぼくはチナツを取り戻そうと無我夢中で手を伸ばし――首に何かが触れ、意識が途切れた。視界が狭まって目蓋まぶたにおもりが乗せられる。


 ぷつりと音がした向こうで、誰かが何事か叫んでいた気がした。そして、それが恐らく最後に聞いたチナツの声だった。



 あれから、子どもにとっては永遠とも思える年月が過ぎた。


 僕は大学生になり、年齢相応に伸びた体を押し込むようにして色褪せたブランコに座っている。ぎしぎし鳴るきしみも、昔より甲高くなった印象だ。


 昔も今も、夕暮れ時の公園に人気はない。くすんでつたが覆うマンションのあちらこちらから、晩飯の支度をする音や食事を楽しむ家族のやりとりがれ聞こえてくる。


 これだけの家庭がひしめき合って暮らしていれば必ずカレーライスを作っているところがあって、よく匂いを嗅いだものだと思い出した。


 ブランコに座り込んだだけで漕ぐでもなく、ただ沈みゆく夕日をぼんやりと眺める。公園を訪れるのも、無為に過ごすのもいつぶりだろうか。


 世界は広がるどころか多段階に分かれ、僕を微塵みじん切りにして隙間なく埋め尽くす。世間にはもっと変わった名がごろごろ転がっていることも知った。


 中学をピークにしたあの気苦労はなんだったのかと、息を吐き出さずにはいられない。


「……チナツ」


 息を発するのに任せて、懐かしい名前を呟く。何しろ、その字面すら知らなかったのだから、今となっては夢とも幻ともつかぬ楽しい時間の象徴でしかない。


 僕はあの落雷のような出来事の後も何度となく公園に足を運んだが、チナツと再会することはなく、長い間孤独や焦燥と戦わねばならなかった。


 こうして大人になって記憶を掘り起こしてみると、あの男性がチナツの保護者であることは間違いがないように思われた。


 大切な友達が奪われるという強迫観念に捕らわれて思考が回らなかっただけで、考えてみればあんな時間に小さな女の子が出掛けていたら、親が迎えにくるのも当然だ。


 きっとあの日は毎日遊び回っている娘の行き先をようやく突き止めて、追いかけてきたところだったのだろう。


『こんな時間まで何をやっているんだ!』


 そう叱り飛ばされ、遊ぶことも禁じられた――。思考するごとに至極自然な流れを空想し、己を納得させるしかないのだが、チナツがあの日見せた弱々しい表情が常に待ったをかける。


 父親は暴力を振るう男性で、怯えていた?

 父親に知れたことを悲しみ、別れの挨拶をするつもりだった?


 どこまでいっても、名前の音しか情報を持たない子どもには確かめようのない事柄で、考えは堂々巡りを繰り返すのみだった。


 飛躍が過ぎて、チナツは人であったのかとさえ疑う瞬間がある。いつもどこからかやってきて、ふらりと消えていなくなる友達……。もろけ出す記憶は輪郭りんかくも危うく、掴みどころを失いつつあった。


 錆び付き、年を経た遊具が眠りに付く時刻。ブランコに揺られていると、どこにも行けないはずのそれで遠くまで行けそうな、微睡まどろみに浸かりきってしまいそうになる。


 そんな時、ふいに空気が動いた。頬を擦り抜けていた風が向きを変え、僕に知らせる――隣のブランコに重みが加わったことを。


「……え」


 白いワンピースに麦わら帽子、赤く光沢を放つヒール。

 帽子が飛んでしまわないように片手で抑えながら、彼女がこちらに顔を向けた。宝石のような瞳が細められ、紅を引いた唇が僕の好きな笑みに形作られる。


「ねぇ、押してくれる?」

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