黄昏れの刻(とき)

1.少女とブランコ

 体の弱い子どもだった。

 大病を患っていたわけでも、病院生活を強いられていたのでもない。けれども免疫力が他人ひとより低かったのか、少し外に出れば風邪を引き、熱を出して寝込むような幼少時代だった。


 両親はそんな私を大事に育ててくれた。

 具合が悪くなればすぐに病院へ連れていき、熱でしんどいと愚図ぐずれば額を冷やし、全身の汗を丹念に拭き、水を飲ませて寝かせる。お腹が痛いと訴えればさすり、体に良い物があると聞けば買ってきて与える。


 覚えているのは締め切ったカーテンから漏れる光と、柔らかい毛布の感触。すり下ろした林檎の甘い香りや、柔らかく似たうどんや雑炊の舌触り――。


 普通の子どもなら数日で治る症状も、私の場合は長く続いてしまう。我慢を知らない子どもの相手だ、随分と苛立ちもしただろう。それでも、家族は根気強く接してくれた。



 そういった苦労の甲斐もあって、なんとか小学校に上がる頃には少しずつ体も強くなり、時折休みつつも通えるまでには成長していた。


 私も持て余してばかりの「自身」との付き合い方を、幼いながらも習得しつつあった。日中は太陽にはあたらず室内で過ごす。人混みには近寄らない。極端に熱いものや冷たいものには気を付ける。

 全ては、少しでも日々を「まし」に生きるためのすべだった。


「……」


 授業で野菜について学んだ時、ビニールハウスで育つ植物の写真を見て「自分のようだ」と思ったりした。


 ――温室栽培はつまらない。

 読書や室内遊びも嫌いではないけれど、外で元気に走り回る級友たちへの憧れは日増しに私の中で膨れ上がっていく。


「外で遊びたい」


 何度も口にした言葉だ。子どもであれば当然の望みで、両親だって叶えてやりたかっただろう。しかし、それは難しい願いだったのだ。



「日が暮れてからだよ」


 ある日、両親は強請ねだり続けた私にとうとう折れた。多少は体が強くなったのも理由だっただろう。


 家から一番近くの公園に行くこと。人が多かったり、具合が悪くなったらすぐに帰ってくること。そして、夕暮れ時から暗くなるまでの数刻のみであることの三つを条件にあげ、私もそれを呑んだ。


「行ってきます」


 ワンピースに麦わら帽子、お気に入りの靴を履いて一人でドアを開け、近所の公園に出かける。たったそれだけのことなのに本当に嬉しくて、心が弾けそうだった。


 ◇◇◇


 水色の絵の具を溶いたような空はすでにオレンジ色に染まっており、山の手前に作られたちっぽけな公園を包み込んでいく。

 人気ひとけはなく、ジャングルジムや滑り台、砂場にベンチといった遊び場らしい設備が静かに出迎えてくれた。


 胸がワクワクした。今なら誰にも邪魔されず遊び放題だ。しかし時間はあまりない。のんびりしていては、太陽はあっという間に山の向こうへ落ちてしまうだろう。

 私はどれを楽しもうかと悩みながら視線を巡らせ、夕暮れ時と同じ色をした遊具に目を止めた。二人が並んで乗れるブランコだ。


「ブランコ……」


 呟くと共に近付き、鎖に手を伸ばす。金属の冷たさにどきりとしたのは一瞬で、強く掴んで座面に腰かけた。勢いでゆらりと前後に揺れ、足が離れる。

 初めての感覚だった。揺り籠に似た浮遊感は次に訪れるであろうときめきを予感させ、もう一度味わいたいと強く思わせた。


「……あ」


 零れた声には失望が滲んでいた。

 ブランコを見たことはあった、友だちが乗っている様子を眺めたこともある。にもかかわらず、乗り方を知らなかった。知っても意味がないというねた気持ちから訊ねることもしなかった。

 ようやく必要に迫られた今、訊ねようにも人の影はない。


 足をじたばたと振ってみる。多少は揺れもするが、それだけだ。かつて目にしたような滑らかな動きはしない。空気が肌や髪をなびかせる気配もない。記憶の中にあるものとはおよそかけ離れた別物に思えた。


 胸は焼け付くようだった。どうしてこんな目に遭わなければならないのかと、幼ないながらも世の中の理不尽さ、不公平さに腹が立った。


「……帰ろ」


 まだ猶予はあるけれど、もはや他の遊具で遊ぶ気になどなれない。このままブランコにぽつんと座っていても、ひたすらに惨めなだけだ。


 そう、諦めが全身を支配しようとしていた時だった。

 いつの間にか公園の入り口には見知らぬ男の子が立っていて、戸惑いの表情を浮かべながらこちらを見つめていた。


 Tシャツに短パン姿の彼は私より少し年上に見え、目が合ったのをきっかけに、思わず口にしていた。


「ねぇ、押して?」


 男の子は優しかった。突然言われたのに逃げもせず近寄ってきて、しっかり掴んでいるよう注意してから、そっとブランコを揺らしてくれた。


「わ……」


 体を動かすことがなく、食も細かった私は同年代の子たちより小さかった。私服だったこともあり、ともすれば園児にでも見えていたことだろう。悲しい事実だが、ブランコの漕ぎ方さえ知らない私には、むしろ好都合だった。


 ふわり、ふわり、ふわり……なんと楽しいのか。ゆっくりとした動きではあっても、その揺れは私を夢心地にした。


「……」


 男の子が何事かを聞いていたようだったが、目の前の景色の上下する様に心奪われていた自分には一つも理解できない。

 辛うじて聞き取れたのは「迷子?」という言葉で、咄嗟とっさに「ちがう」と返していた。彼は急に返事をされて驚いたのか手を離してしまい、夢は泡の如く消えていく。


 せっかく楽しかったのに。どうすればまたブランコを揺らしてもらえるだろう? 男の子をじっと見つめ、そういえばまだ何も――名前も知らなかったと気付いた。


「ちなつ」

「えっ」

「あたし、千夏っていうの」


 千の夏。私には似つかわしくない、元気いっぱいの名前。

 あまりに悔しくて、付けてくれた両親には悪いけれど、名乗るたびにそのまま相手にあげてしまいたくなるほどだ。


 男の子は面食らった顔をしたが、意図を察して渋々「いのり」と教えてくれた。いのり。舌の上で転がすと柔らかくて滑らかな響きがした。交換して欲しいくらいの素晴らしい名前だ。


 それなのにどこか辛そうなのは、彼もまた嫌な思いをした経験があるせいかもしれない。私は何度か口の中で呟いてから、にこりと笑った。


「じゃあ、イノちゃん!」


 それが私とイノちゃんとの出会いだった。

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