第3話 息

「例え話をしようじゃないか」


 少女の提案に、少年は小さく頷いた。


「実は私の吐く息には、人体に有害な毒素が含まれているんだ」

「……くさいいき?」

「こら。さぞリアクションに困ったのであろうことは想像に難くないが、言うに事欠いてくさいとは何だくさいとは。吹きかけるぞ、目の前で」


 さすがに心底怒った様子で、少女は少年のことを睨みつけた。反射的に失礼なことを口走ったと少年も自覚していたので、ここは素直に謝罪する。


「すまん、つい」

「まったく」


 少女は気を取り直したように話を続けた。


「ともかく、私の息は有害なんだ。その有害さたるや、私の半径5メートル以内の人間は死滅してしまうほどだ」


 なんだかそんな映画を観たことがある気がする。そんなことより、普段にもまして例え話が稚拙でつまらないせいで、少年はあくびをかみ殺した顔で自慢げに話す少女を眺めていた。


「私は生涯で一度も人のぬくもりというものを感じたことがなかった。抱きしめようと思ったら5メートル前から息を止めて近づき、抱きしめ、次に息をする前に5メートル以上離れなければならないからだ。水泳選手ならいざしらず、平凡な高校生の帰宅部でしかない私にはややハードルが高い」

「抱きしめずとも触る程度でいいんじゃないのか。それなら余裕だろう」

「ふむ、一理ある。頬にタッチしたりしてみればいいわけだな。だが、それでは満足度が足りない。ぎゅーっとしなければダメだ。うん」


 少年は思いっきり眉をしかめ、面倒くさいという顔を作ったが、少女はどうやら気にするつもりが微塵もないらしく、なぜかおもむろに両腕をがばっと開いてみせた。


「というわけで。近づいたら死ぬが、私をぎゅっと抱いてはくれないか?」

「抱きしめて、だろ」

「どっちでも同じだ。ぎゅっとするだけなのだから。ぎゅっと」


 ほらほら。と、少女は小刻みに腕を揺らして誘ってくる。

 5メートル圏内が致死だというなら今少年がいる位置もアウトになるのだが、恐らく細かいところは気にするだけ負けなのだろうと、少年は正しく理解していた。少女は決してボケたつもりはないのだし、返事として欲しているのもツッコミではないのだ。

 しかしながら、今度の例え話にはおいそれと答えられなかった。なにせ生死がかかっている。隕石のときにも同様に命がかかっていたが、あのときは少女と共に生きるか否かに話題の重きが置かれていた。今回は違う。

 少女を抱きしめると少年は死ぬ。少女の寂しさを放置すれば生きられる。


「キミは、私を癒してはくれないのかい?」


 少女はそっと目を細めて囁いた。かろうじて少年の耳に届くかどうかという声だった。


「…………」


 断る。少年はそう言うつもりだった。だが、言葉を声に変えようとしたところで、喉仏をつねられたように声がでなくなり、少女の目をじっと見返すことしかできなくなった。

 こちらに向けられた手のひらを見る。制服に包まれた腕を見る。セーラー服の襟元から伸びた首を見る。優しく結ばれた唇を見る。それから、長いまつげが色っぽく揺れる目を見る。

 少年は知っていた。少女は、美しいのだ。


「なんだ?」


 少年はびくりと肩を震わせた。様子がおかしいことくらい分かっていた。少女が不思議に感じるのもおかしなことではない。

 ひとまずごまかそうと思い、少年はあからさまに視線を逸らした。


「死ぬのは、ごめんだ」


 かろうじて、それだけ、口にする。

 少女はほんの少しだけきょとんとしたが、すぐにいつもの調子に戻って苦笑した。


「予想通りとはいえ、少し寂しいな。キミが死ぬのはたしかに私も嫌に違いないが、一生そのぬくもりを知ることができないのも嫌で仕方ない。下手をすれば、キミが死んでしまうことよりも」

「そうかよ」


 力ない言葉だったと、少年はすぐ感じ取った。だから、有無を言わせないよう、わざとらしく椅子を引いて席を立った。

 少し驚いた様子を見せた少女だったが、少年が何をしようとしているのか察して、ごく自然な足取りで少年の横に並んで歩いた。

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