第2話 惰眠
「例え話をしようじゃないか」
少女のその提案に、少年は小さく頷いた。
「キミは今、本をアイマスク代わりにして惰眠をむさぼっている」
少年は眉をひそめた。その行為は本を傷めるものであるから好かない、という感情の表れだったのだが、少女は気にすることなく話を続ける。
「どの程度眠っているのかはキミの裁量に任せる。ただ目をつぶっているだけに等しいのかもしれないし、夢も見ないほど深淵に落ちているのかもしれない。しかし、ともかく、視覚は完全に封じられているわけで、人の気配を探ろうと思ったら、聴覚か嗅覚に頼るしかない状態だ」
聴覚は分かるとして嗅覚とは一体。少年は疑問のまま鼻をすんと鳴らしてみた。透明感のある香りが鼻梁をくすぐった。
それが少女の髪の香りであると気づくのと、誘惑に成功したサキュバスのような顔で少女がにまりと笑うのとが、ほぼ同時だった。気まずくなった少年はついと目を背ける。少女は追い打ちとばかりに、耳に口づけする寸前まで顔を近づけてきて言った。
「私はそんなキミをなんとか起こしてみようと思い立った。おもむろにアイマスクを取っ払ってしまったんだ。……さて、キミはどんな反応をするのかな?」
いたずらな笑い声を漏らして、少女は離れていった。こそばゆかった耳の感覚を取り払うつもりで、少年は自分の耳を指で叩いた。それから意地でも目を合わせないようにそっぽを向いたまま答える。
「起きない」
「はて、それはどうして」
「一度眠るとなかなか起きないからだ、俺は」
「ふうん。耳寄りな情報だ。美味しいスイーツ店の割引情報よりも価値があると思える。キミは寝起きが悪いタイプなのか」
「というより、眠りが深いだけだ。お前の言葉に合わせるなら、覚醒か深淵かしかない。おかげで夢を見たことがほとんどない。そう記憶している」
事実、少年は、起きるときはだしぬけに起きる。覚醒するべきアクションが外部から起こされれば、その瞬間に0から100まで覚醒しきってしまう。寝起きという概念が存在しないのが少年であった。
少女は興味深そうな吐息とともに、机に頬杖をついた。
「つまりアイマスクを取ってキミの寝顔を堪能する権利が、私にはあるわけだな」
少年は再び眉をひそめた。そんな権利を許可した覚えはないし、許可するつもりも微塵もないからだが、少女はやはり気にすることなく話を続ける。
「だが、起きてくれないのは私のほうがいささか寂しい。キミの寝顔を写真に残すという重要事項をクリアしたならば、やはりキミ自身にも構ってもらいたいと欲を出してしまいたくなる。どうすれば起きてくれる?」
何が何でも起こしたいらしい少女の顔を、少年は睨みつけた。甘えん坊の猫のような目つきで見つめ返してくる少女に、少年はぴしゃりと言い放つ。
「そもそも起こそうとするな。寝かせろ」
「ご無体だな」
「寝ている人間を無理に起こそうとするほうが、よっぽどそうだろ」
「最初に言っただろ、惰眠をむさぼっているんだぞキミは。起きてくれないと帰れないじゃないか」
「舞台ここか」
「私の例え話はいつだってここで始まるよ」
放課後の、まさしく今のような時間に眠っていた。そういうことらしい。寝づらい場所でわざわざ寝るくらいなら、頭がぼーっとしていようがさっさと家に帰って寝たほうが建設的だが、例え話にリアリティを求めるのも変な話なので、少年は黙った。
何より、起きないと言い切った少年を、それでも起こそうとする少女の意図は、火を見るよりも明らかだ。
「頬をぺちぺちと叩いてみようか? まぶたをつまんで引っ張ってみようか? それとも、耳にふーっと息を吹きかけてみようか?」
「起きるだろうが、今度は機嫌が深淵をつくぞ」
「だってアイマスクを取っても起きないんだから、まぶしくしてもダメなんだろう? 警察の取り調べみたいに、あの無駄にまっっっぶしいライトを当ててみようか?」
「それなら物理のほうがまだマシだ……」
「ほら。なにか妙案はないだろうか……」
少女は顎に手を当てて考え込んでしまった。テストの難問を考え込むような表情に、その真剣さを少しでも他のことに割けやしないかと呆れた様子を見せながら、少年は帰宅するために席を立とうとした。
その動きを、急に腕をがしりと掴むことによって制止した少女は、少年が振り向くよりも早く顔を急接近させ、言った。
「おでこにキス。で、どうだろう?」
少年はほんの刹那の間だけ、潤いをにじませて震える瞳に吸い込まれるような感覚を味わいながらも、手で少女の額を押しのけた。歩き出した少年の背中を追いかけて、少女はごく自然な足取りでその横に並び、歩いた。
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