鋤焼き

 霧の深い夜だった。僕は仕事場の近くで彼女と待ち合わせをして、手をつないで歩いた。車が通る度にヘッドライトが霧を照らし、辺りは白い世界に変わった。


「この店だよ」


 僕は彼女と鋤焼きの店に入った。仕事の打ち合わせで何度か利用したことのある鋤焼き屋だ。以前は関西風だけだったが、今は関東風も始めたと入り口に書いてあった。


 喋ると延々と蘊蓄うんちくを語り出す店長…僕はなるべく話し掛けないようにしている…それから若い従業員、流行病はやりやまいで店が休業になる前からここに居た顔ぶれを見て、日常が戻りつつあることに少し安堵した。


 通された席は畳の上に机とコンロの置かれた小上こあがり。鋤焼きを食べるときはテーブル席で椅子に座るよりもこちらのほうが雰囲気が良い。

 他にお客さんはテーブル席に数組居るだけで、まだ以前の賑わいは戻っていない。


「では始めさせていただきます」


 このお店は、最初の白ネギと肉は店の人がやってくれる。何度か来たことがある店だから手順はわかっているが、それを眺めるのも食事の一部だと思っている。


 熱した鍋に牛脂を引き、白ネギを軽く炒めてから肉が置かれる。ジウジウと音が立つ。醤油とザラメが投入されて甘くて香ばしい香りが漂う。

 卵をかき混ぜながら、僕も彼女も食欲を刺激され、これから食べる肉への期待感が増し表情が緩む。


「では、ごゆっくり」


 鋤焼きは最初の肉が一番旨い。僕たちは一枚ずつ肉を取り卵につけて食べた。


「ああ、旨い」

「美味しいね」

 

 彼女は久し振りの外食が嬉しそうだった。色々な店に行って彼女の好みの味と僕の好む味を比べ、すり合わせて行くのも良いかも知れない。きっとそれがこれから先の家の味になるだろう。


 ひと通り食べ終えると、


「鋤焼きのしめと言ったら饂飩うどんだよね」


 彼女はメニューを見ながら言った。


「そうとは限らないよ。鍋に残った具材に溶き卵を入れて、程よく固まったところでご飯にのせる。つまり鋤焼き丼にするというやり方もある」

「ふーん、でもここのメニューにはご飯は無いから…きっとあの人たちはご常連さんで、ご飯は裏メニューね」


 振り返って彼女の目線の先を見ると、僕と同じような雰囲気…それはつまり少し草臥くたびれた中年男の雰囲気を出した男と連れの女性が居た。


「さあどうだろうね…僕たちもご飯を聞いてみるかい?」

「さっき言ったでしょ?〆は饂飩がいいの」


 僕は饂飩と水を頼んだ。煮詰まった鍋を水で薄めて饂飩を入れる。別腹のように食べられる。


「ご飯だけかと思ったら、饂飩も頼んでるわ。やっぱり〆は饂飩みたい」

「気にしすぎだよ、他の人の〆がご飯か饂飩かなんてどうでもいいじゃないか」

「あなたは本当に人に興味が無いわね」

「そうじゃないよ。人がご飯を食べているところを観察するのは失礼だと思うんだ。それに僕たちの話し声が聞こえていたら、不快に思うかも知れない」


 彼女は少しつまらなそうに、


「わかったわ」


と言った。


 饂飩を概ね食べ尽くすと、最初に脂を引いた牛脂が出てきた。てらてらと光を反射している。


「あなたはこのお醤油色になった牛脂を食べるの?」

「まさか、脂っこくて駄目だよ。ここまで美味しく食べてきたのに、台無しになる」

「もう帰って行ったから言うけど、さっきの男の人はご飯に牛脂をのっけて食べていたわ」

「ずっと観察してたのかい?本当に良くない…」


 牛脂を食べていた?


 僕はその男の後ろ姿しか見ていないが、その時何故か確信した。


「ちょっと待ってて」


 僕はそう言うと慌てて店を飛び出し、男の後を追おうとした。


 車が通りヘッドライトが霧を照らして辺りを真っ白にした。反射した光はすべての影を消した。人影は見えない。深い霧の中で僕はひとりだった。



 次の日、僕は彼の唯一の連絡先である、彼の実家に電話をかけてみた。


 その番号はもう使われていなかった。

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