鋤焼き
霧の深い夜だった。僕は仕事場の近くで彼女と待ち合わせをして、手をつないで歩いた。車が通る度にヘッドライトが霧を照らし、辺りは白い世界に変わった。
「この店だよ」
僕は彼女と鋤焼きの店に入った。仕事の打ち合わせで何度か利用したことのある鋤焼き屋だ。以前は関西風だけだったが、今は関東風も始めたと入り口に書いてあった。
喋ると延々と
通された席は畳の上に机とコンロの置かれた
他にお客さんはテーブル席に数組居るだけで、まだ以前の賑わいは戻っていない。
「では始めさせていただきます」
このお店は、最初の白ネギと肉は店の人がやってくれる。何度か来たことがある店だから手順はわかっているが、それを眺めるのも食事の一部だと思っている。
熱した鍋に牛脂を引き、白ネギを軽く炒めてから肉が置かれる。ジウジウと音が立つ。醤油とザラメが投入されて甘くて香ばしい香りが漂う。
卵をかき混ぜながら、僕も彼女も食欲を刺激され、これから食べる肉への期待感が増し表情が緩む。
「では、ごゆっくり」
鋤焼きは最初の肉が一番旨い。僕たちは一枚ずつ肉を取り卵につけて食べた。
「ああ、旨い」
「美味しいね」
彼女は久し振りの外食が嬉しそうだった。色々な店に行って彼女の好みの味と僕の好む味を比べ、すり合わせて行くのも良いかも知れない。きっとそれがこれから先の家の味になるだろう。
ひと通り食べ終えると、
「鋤焼きの
彼女はメニューを見ながら言った。
「そうとは限らないよ。鍋に残った具材に溶き卵を入れて、程よく固まったところでご飯にのせる。つまり鋤焼き丼にするというやり方もある」
「ふーん、でもここのメニューにはご飯は無いから…きっとあの人たちはご常連さんで、ご飯は裏メニューね」
振り返って彼女の目線の先を見ると、僕と同じような雰囲気…それはつまり少し
「さあどうだろうね…僕たちもご飯を聞いてみるかい?」
「さっき言ったでしょ?〆は饂飩がいいの」
僕は饂飩と水を頼んだ。煮詰まった鍋を水で薄めて饂飩を入れる。別腹のように食べられる。
「ご飯だけかと思ったら、饂飩も頼んでるわ。やっぱり〆は饂飩みたい」
「気にしすぎだよ、他の人の〆がご飯か饂飩かなんてどうでもいいじゃないか」
「あなたは本当に人に興味が無いわね」
「そうじゃないよ。人がご飯を食べているところを観察するのは失礼だと思うんだ。それに僕たちの話し声が聞こえていたら、不快に思うかも知れない」
彼女は少しつまらなそうに、
「わかったわ」
と言った。
饂飩を概ね食べ尽くすと、最初に脂を引いた牛脂が出てきた。てらてらと光を反射している。
「あなたはこのお醤油色になった牛脂を食べるの?」
「まさか、脂っこくて駄目だよ。ここまで美味しく食べてきたのに、台無しになる」
「もう帰って行ったから言うけど、さっきの男の人はご飯に牛脂をのっけて食べていたわ」
「ずっと観察してたのかい?本当に良くない…」
牛脂を食べていた?
僕はその男の後ろ姿しか見ていないが、その時何故か確信した。
「ちょっと待ってて」
僕はそう言うと慌てて店を飛び出し、男の後を追おうとした。
車が通りヘッドライトが霧を照らして辺りを真っ白にした。反射した光はすべての影を消した。人影は見えない。深い霧の中で僕はひとりだった。
次の日、僕は彼の唯一の連絡先である、彼の実家に電話をかけてみた。
その番号はもう使われていなかった。
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