牛の脂
「脂の乗ったA5ランクの牛肉」
とある焼肉屋で彼は話し始めた。何年か振りに偶然ばったりと出会ったので飯でも食おうということになり入った焼肉屋だ。
彼とは大学時代は同輩だったのだが、僕の方が先に卒業したので…つまり彼は1年留年した…社会人の先輩として奢らされることになってしまった。
「いや、君の奢りで食べさせて貰ってこんな事を言うのは人としてどうかと思うんだが、それはさて置いて続けるよ」
彼と知り合ったのは大学のサークルの新歓コンパだった。当時から独特の感性とそれに伴う変な
「とても柔らかくジューシーで、舌の上で脂が溶けて上質な甘味が味わえる」
「うん、旨いじゃないか」
「確かに、和牛の脂は輸入肉と違い香りや味わいが良いと言われている。餌が違うんだろうね。でもね、俺は脂を食べたいわけじゃないんだよ」
人の奢りで食べておいてA5ランクの和牛が脂だと言ってのけるあたりはなんとも腹立たしい奴だ。
「ほら、この肉を…」
そう言うと彼はひと切れの肉を焼き網の上にのせた。
さっと炙っただけで食べられる上質な肉を、彼はじっと眺めている。脂が熱で溶けて炭火の上に滴り落ち炎が上がった。
「おいおい焦げるぞ、勿体ない」
しかし彼は裏返しただけで焼き続ける。これは冒涜だ、A5ランク和牛肉に対する冒涜だ。
「まあ黙って見てろ。ほら、どんどんと脂が落ちて小さくなっていく」
それも小さくなる原因ではあるが、焼き過ぎて肉そのものが縮んでいってるというのもある。
難しい話はわからないが確かタンパク質の構造が熱により変化して縮むという話を聞いたことがある。
彼は少し焦げた肉を摘まみ上げ皿の上に置いた。
「ほら、焼く前の大きさと比べて見るとよくわかる。小さくなっているだろう。つまり何が言いたいかというと、焼く前の重さが同じ肉を選ぶならば、肉の味がしっかりと味わえる赤身のほうが得だということだ」
脂の旨味に対する満足度の加点はどうなるんだと思ったが、ご飯の上に縮んだ肉をのせて食べる姿を見てふと思い出した。
サークルの忘年会で
そして最後にそれを摘まみ上げて、皆が締めのうどんを食べているときに、ご飯にのせて食べながら言った。
「肉、野菜、すべての味が凝縮されたこの牛脂こそが究極の鋤焼きである」
彼は単に脂が嫌いだというわけでは無さそうだ。
その時の話をすると彼は答えた。
「論点がズレてるね。あの時のは割り下を入れる関東風の鋤焼きだったろ。あれは鍋料理だ。だからすべての出汁を吸い込んだ牛脂が一番上手いんだ」
鋤焼きと言いつつ鍋料理か。関西風の醤油とザラメを使う鋤焼きなら焼き料理だと言いたいんだろうか。でも彼がそう言うと、僕もなんだかそんな気になってくる。
「なんだか
「焼き肉だけに煙に巻かれたか…上手いこと言うね」
彼とはそこで別れ、僕は閉店間際のスーパーで2割引になった輸入牛肉を買った。脂は殆ど無く赤身だらけのステーキ肉。
家に帰って半分だけフライパンで焼いた。
確かに肉だ。肉の味がする、少し堅い肉には歯ごたえがある。肉々しい、俺は今、肉を食っている…と孤独のグルメの井之頭五郎風に僕は呟いた。
その後、現在に至るまで彼には会っていない。
ただ、一度だけ唯一の連絡先である彼の実家に電話をしたことがある。
電話に出てきた親御さんに、遠い外国に行って音信不通になっていると聞いた。だが僕は心配していない。きっと彼はどこかの国で肉々しい肉に齧りついているのだ。
ここ最近は歳のせいか脂ののった和牛よりも赤身の肉を好むようになってきた。肉を齧りながらふと彼のことを思い出す。
今度会ったときは、鋤焼きをつつきながら「君は今でも鋤焼きの牛脂を食べているのかい」と聞いてみようと思っている。
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