第八十五話 陰陽<前編>

憂流迦ウルカの刀が振り下ろされた。

なぎは間一髪のところで体をひるがえし鋭い斬撃をかわす。

しかし、憂流迦ウルカの邪念が凪の頭を締め付けて、強力な圧が頭蓋骨を軋ませた。立っているのもままならない状態にも関わらず、相手の執拗な攻撃が次々と襲いかかり、凪は追い詰められていく。覚束ない意識と、強度を増していく痛みに視界が歪む。


『さっきまでの威勢はどうした?』


地に倒れる凪の喉元に刀が突きつけられた。

冷たく光る剣先から憂流迦ウルカの冷酷な狂気が伝わる。


『これで終わりだ!死を味わえ!!』


憂流迦ウルカが柄を握る手に力を込めた。凪は体をよじって逃れようとするが、朦朧もうろうとする意識の中では思うように力が入らず息だけが上がる。

鋭い剣先が凪の喉元に突き立てられようとしたその瞬間、フッと憂流迦ウルカの気配が跡形もなく消えた。それと同時に凪の体も自由になる。

しかし突然、得体の知れない妖気が覆い尽くす。



『愚カナ 男ダ』



「誰だ!!!?」


目の前に一人の女が現れる。美しい髪をなびかせ、玉のように白く滑らかな肌、薄紅色の上品な口元、長い睫毛、しかし、その瞳は生気の無い人形のように淀んでいた。


おう?」


桜は凪のもとへ近寄ると青白い細腕を凪の首へ回した。


『愚カナ男ハ 我ニ呑ミ込マレタ 人間ノ利己 欲望 嫉妬 怒リ 悲シミ 邪ナ心ハ我ニ英気ヲ与エ続ケ 我ハ再ビ蘇ッタ 愚カナ人間共 我ガスベテヲ破壊シ 無限ニ続ク闇夜ヲ創造シテヤロウ』


「桜?どうしたの??」


凪は驚きながら不穏な彼女の顔を覗き込む。


『凪 ソノ剣ハ我ノ一部 オ前ハ剣ヲ揮ウ時 真ノ喜ビヲ見出ス 残酷デ獰猛ナ感情ハ我ソノモノダ ソレガ オ前ニ流レル暗黒ノ血』


桜が焦点の定まらない目で凪を見る。


『オ前ハ ダ』


「俺がオロチ?」


女が嘲笑った。


『コノ娘ヲ殺セ』


女の言葉が投げかけられると自分の意に反して凪の左腕が振り上げられる。神の使いを象徴する白蛇の鱗に覆われた皮膚がみるみるうちに黒い蛇の鱗に覆われていくと、血を求める獰猛な感情が凪の心に湧き起こる。凪の体は毒気が回ったかのように力が入らず、思うがままに操られる。


『オ前ニ 世界ヲ変エルコトナド デキナイ。』


目の前の桜の長い睫毛が伏せられて、ゆっくりと瞳が閉じられた。しかし、再び開かれた眼は赤く血走っていた。

凪は目の前の女が桜ではないことを確信する。



『我ハ オ前ノ 主 オロチ』



その時、微かな声が凪の耳を掠めた。



————凪様!



清らかに透き通る美しい声。

桜が自分を呼んでいる。

ふいに不思議な一筋の光が凪の心に差し込み、自分の体に僅かな自由が戻ったことに気がついた。

凪が全身の意識を左腕に集中させると、天叢雲剣あまのむらくものつるぎから黄金の光が溢れ出す。

光とともに邪悪な黒蛇の鱗に覆われた左腕の皮膚からバチバチと閃光がほとばしり、神の使いの白蛇の鱗に戻っていく。左腕が白く霊妙な剣に姿を変えた。剣は凪の意志に呼応するかのように形態を進化させ、一片の曇りもない純白の姿を具現化する。刀身は鋭利にきらめきながらも崇高な意志の光を纏い、正しき道を切り開くべき力強い威光が邪な力を振り払う真の天叢雲剣あまのむらくものつるぎとなる。


「俺はオロチじゃない!!」


凪は桜の姿を借りた女を振り払うと、女が一気に後方へ跳び、そのまま暗黒の巨大な影に飲み込まれていった。凪は影を目掛けて一気に走り込む。

間合いを詰めるほどに、その巨大な影はいよいよ恐ろしいヤマタノオロチに姿を変える。それでも凪の意志は変わらない。


「俺はこの戦いを終わらせる!!」


神剣がオロチの幻影を一刀両断した。

凪の意識が解放される。



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