第八十一話 堕獄<番外編・三>



鱗から禍々まがまがしい妖気が一気にあふれ出したかと思うと、一瞬で男の口から体内へと侵入する。

両手で喉元を押さえ苦しさに耐える男は、そのままふらつきながら両膝をついた。

邪気が男の意志を徐々に侵食し支配を強くする。


--何だこの妖気は?!


邪悪な妖気が巨大な蛇の姿になると、とぐろが男を捕らえ、波打つ筋肉の収縮とともに全身を締め上げていく。


「や、めろ・・・!」


男は蛇を使役することで相手の邪気を振り払おうと使役のしゅを試みた。だが、邪気は執拗に粘着し、男を捕らえて離さない。うねるとぐろの圧力が益々強くなると、鋼鉄の鱗が体に喰い込み始める。

が声を発する。



『我ハ 大蛇オロチ オ前ノ魂ヲ喰ワセロ』



男は再び使役のしゅを唱える。しかし、大蛇オロチの強烈な邪気は男の力を遥かに凌駕した。その毒牙に呑み込まれかけた男は己の魂を半分削り、使役術の威力を高める。途端に男の呪力が強まって絡みついたとぐろが離れていく。

しかし、大蛇オロチは不気味に嗤う。

ヌルヌルとぬめり気のある鱗をまとった長い胴が男の顔の横で舌を出すと、呪いを告げた。





男が再び九字の印を切って呪を唱えると、大蛇オロチは足元から霧のように消えていく。闇夜の中、最後に残った鋭く赤い邪目が男にささやく。



『オマエノ闇ガ気ニ入ッタ』



体中が震え、呼吸は上がり、荒い息遣いと共に額から汗が垂れ落ちる。大蛇オロチの気配は消えた。しかし、あの獰猛どうもうな邪目が男の心を捕らえて離さずに幻覚が襲った。背後から頭上から幾つもの目に取り囲まれる。恐ろしくなった男は帯同した刀を振るうが、空を切るばかりで気づけば何もない。

冷たい汗が額の横を垂れ落ちた。

ポツリポツリと雨粒が頬を打ち、やがて大粒の雨に変わっていく。

刀のつかを握った己の手は小刻みに震えていた。



しばらくすると従者の一人が近寄り、儀式の準備が整ったことを報告するとすぐに持ち場へ戻っていく。

男は近くをのそのそと歩く蟾蜍ひきがえるに刀を突き刺して持ち上げると頭と胴体を引き千切り、空になった呪具へ呪いの言霊と共に無造作に詰め込んだ。そして、てのひらにべっとりと付着した赤い血を舐めると、無意識の内に斎場へと足を運んでいた。


儀式の間中、男は妙な事に気がつく。

あの邪眼に魅了されているような自分がいるのだ。

そして、今までに感じたことのない感情が湧いた。


この呪詛で人の命を奪い取ることができる———


不意に残された者達の悲しみ嘆く姿が映る。ある者は涙を流し、ある者は後を追って殉死する。その予見を感じた途端、深淵から狂喜がわき起こり、血が激しく騒いで足先から頭頂までをゾクゾクとした震えが走り上がった。


生を狂わせることができる———


運命の天秤にかけられた人間の魂は己の意志一つで地獄に突き落とすことができるのだ。

心の奥底でくすぶっていた黒い感情がそれらに迎合する。昨夜、かつてない程に父親に反抗したことなど露と消えそうになった。


--僕は一体何をしているんだ・・?人の命を奪って何がしたいんだ?


しかし、己の意志に反して狂気を欲する自分がいた。男はその感情に突き動かされるように儀式へ意識を集中させる。運命の天秤を傾け、掴まれた手を突き放し、あるいは命乞いさえも嘲笑いながら手に持った刀で生身の体を斬り落とす。

血塗れの死体を創り出したい衝動欲求が込み上げる。


ザァァァァァ———————


矛盾を孕んだ雨音が聞こえ、我に返る。


--妙だ。


己の理解し難い感情を捨て去ろうとするが、一方で男は儀式を続ける。

あれほどまでに抵抗があったその行為に僅かな興を感じている自分がいた。





一度 はまれば戻ることのできない底無しの闇夜。

そこに浮かぶ赤き満月。

男は今宵、一つの罪を犯した。


呪詛———


しかし、それは一つのはじまりに過ぎなかった。


この日を境に男は少しずつ変わっていく。

陰陽寮では明晰さと控え目な性格、そして正真正銘の女にも勝る妖艶さから密かな人望と人気を博していたのだが、やがてまつりごとの覇権闘争に己の本能を剥き出して、その冷徹非道な手腕に同じ派閥内でさえ恐れられていく。

そして、後にこの男には通り名が付くことになる。


憂流迦ウルカ———



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