第七十八話 光の記憶<後編>
瞬きをしようと瞳を閉じ、次に瞼を開けた時には、昴様の幻は消えてあの頃のままの大好きな母様が待っていた。
風がそよいで桜の花びらが可憐に舞い上がり、芳しい香りを運びながら私たちの髪や衣に着いて、木々の間を馳せ戻ってきた優しい風がもうひとたびふわりと吹き抜けると、衣の上に舞い降りた花弁を乗せて煌めきと共に流していく。
母様は私の視線の高さに合うように体を屈め、両手を広げて優しく微笑んだ。
『
ずっと聞きたかった声、ずっと聞きたかった言葉。
胸の奥に閉じ込めてきた想いが一気に込み上げる。
私は母様へ駆け寄って子供のように抱きつくと泣きじゃくった。
「母様!私も会いたかった!!」
母様はしっかりと抱きしめてくれた。
そして、私の髪に触れると優しく撫でてくれる。
懐かしい温もりと匂い。
母様の顔を見上げると、涙が止めどなく自分の頬を伝い、ぽたぽたと流れ落ちる滴が温かい陽の光に煌めいては地面に落ちて吸い込まれていく。
『ふふ。そんなに泣かないで。』
母様が着物の袖口で私の涙をそっと拭い、優しく微笑むと、もう一度抱きしめてくれた。
--懐かしい母様の香り・・。
温かい
ずっと望んでいたその温もりが私の心を溶かしていくように、胸につかえていた想いは言葉にならないままだけれど、それでも私は声を出して泣きじゃくった。
私の頬に母様の頬が愛おしく重なって、そっと離れると、黒曜石のように深く慈愛に満ちた瞳が私を見つめる。
『大きくなったわね。』
「母様・・。」
『私も桜ちゃんに会いたかった。ずっと、こうやって抱きしめてあげたかったの。』
私の瞳からたくさんの涙が溢れ、視界が滲む。
浅い呼吸が肩を揺らしながら、喉の隙間から漏れる上擦った息と共に溜め込んできた想いを言葉にしようとする。
「私はずっと・・、ずっと母様に会いたかった・・・。」
母様が優しく微笑む。
『大丈夫、私はいつも桜ちゃんのそばにいるわ。』
「母様・・。」
母様が再び私の涙を拭う。
『私は桜ちゃんの心の中にずっといるのよ。ずっとあなたのことを見守っているの。昴様と一緒にあなたのことをずっと愛しているわ。だって、大切な一人娘だもの。』
「私も母様のことを愛しています。母様のことを忘れたりなんかしません。」
『ありがとう。桜ちゃんの優しい気持ち、とっても嬉しいわ。私も桜ちゃんのことが大好きよ。』
母様の美しい瞳から、微笑みとともに一筋の涙が
私の指先についた涙の雫は陽の光に反射して清らかに輝いた。
そして、もう一度確認するかのように母様の胸に頬を押しやってみると、確かに鼓動が聞こえてきた。目の前にいる母様は生きている。
「私と昴様は、母様のことを愛しています。それに昴様だって母様のことをずっと・・。」
『ふふ、わかってる・・。私も昴様のことをずっと愛しているわ。あの人のことを忘れたことなんてないの。』
ついさっき、目にした愛する二人の睦まじい光景が浮かぶと、胸が張り裂けそうになって、再び呼吸が上擦り、涙が溢れる。
どうしてこんな悲しい想いをしなくてはならないのだろうと、行き場のない気持ちが沸き起こっては、嗚咽となって声に出して泣くだけだった。
母様がもう一度私の涙を拭ってくれる。
『大丈夫よ。私はあなたたちの心の中にちゃんといるわ。だから、私たちはいつでも一緒なのよ。ずっと、ずっと愛してる。』
「私は母様とずっと一緒にいたいです・・。いつもこうやって抱きしめてほしい。陽が昇れば隣に母様がいて、庭の花を愛でたり一緒に楽を奏でたり書物を読んだり歌を唄って、夜の帳が下りれば、ささやかに食事をして一緒の褥で眠りたい。今だって時々、幼い頃のように子守唄を歌ってほしくなるのです。そして、そんな夜はいつだって一人で泣いています。」
温かくて柔らかて優しいその体を強く抱きしめると、母様も私を抱きしめてくれる。
『ふふ、本当に可愛い子ね。大丈夫よ。あなたが一人で泣いていることを私も昴様も知っているわ。』
「・・昴様も?」
『そう、だから昴様はいつだって桜ちゃんと一緒に眠ろうとするのよ。あなたが涙を流さないように。』
「昴様はいつも私のそばで眠ってくださいます。」
母様が私の顔を覗き込みながら今度は両手で頬を優しく包んでくれた。
その
母様の優しさと一緒に父様の優しさを知ると、胸がいっぱいになり、熱い涙が止めどなく流れ落ちていく。
『愛しい我が子。』
清らかな光の中で母様の笑顔が輝く。
『でもね、桜ちゃんはもう泣いているだけの女の子じゃないの。だって、ここに来るまでにたくさんのことを知ったはずなのよ。』
私は母様の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「母様、私はこの世界を守りたい・・。悲しみが溢れる世界に一筋の光を灯せるのなら、私に与えられた黄竜様の力を皆様のために使いたいのです。」
『桜ちゃんは、心がとても強い女の子になったのね。昴様がそばにいて、真っ直ぐにあなたのことを想う男の子がそばにいて、白丸と黒丸もあなたのことをしっかり守ろうとしている。』
「私は皆様の助けがあってここまで来ることができました。だからこそ、皆様と一緒に生き抜きたい。生きて、私の使命を果たして、この先の自分の未来を知りたいと思いました。」
母様は微笑みながら私の額に口づけをしてくれた。
柔らかい唇の感触と母様の香りがふわっと広がると、今度は私から、もう二度と会えない人へ自分の決意とともに口づけを贈る。
私は母様の品のある唇から自分の唇をそっと離し、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「母様、私は行きます。」
『桜ちゃんならできるわ。信じてる。』
微笑んだ母様が頷くと、再び視界が光で埋め尽くされて、優しい温もりに包まれるように光と一つになっていった。
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