第七十九話 堕獄<番外編・一>




「・・・・呪詛じゅそ、ですか?!」




少し高めの透き通る声音の男が、驚きと焦りを隠せない様子で聞き返す。

夕刻から降り出した雨は次第に強くなり、広い屋敷の庭へ激しく打ち付け、時折吹き荒ぶ強い風が門戸を軋ませながら激しく揺らしていた。

すべてをあざむくかのような闇夜を覆う厚い雨雲が、月明かりも星の輝きさえも隠蔽し、時折稲妻が閃いては地上へ不吉な閃影を落とす。


「そうだ。」


男の対面に座る声の主が短く答えた。


「し、しかし、呪詛は律令で禁じられております!見つかれば死罪は免れません!!」


「承知の上だ。だが、———様からの直々の御命令。断れるわけがなかろう。」


「ですが、そもそも人殺しなど私には————」


言い終える前に男の面が張飛ばされた。

勢いのまま体の横へ手をつくと、長めの艶やかな髪がはらりと顔にかかり、目を見開いたまま茫然とする。

色素の薄い色白の頬は紅く腫れ上がり、女のように華奢な体は打ち震え、悔しさの混じる瞳はうつむいた先を静かに睨んでいる。


「いいか。これは家長としての命令だ。口答えするな。」


「・・・私にはできません!!」


男の父親と思しき人物が息子の胸ぐらをむずと掴むと血走ったまなこで睨み付ける。


「黙れ。お前も知っている通り我が一族は、対立派閥の安倍家に陰陽頭おんみょうのかみの座をおびやかされつつあるのだ。しかし、この案件が成功すれば、———様の我々に対する信頼も再び厚くなろう。」


「そんな・・、家の名声のために人殺しとは父上は正気ですか?!」


「このまま陰陽頭おんみょうのかみを安倍家に奪われてみろ!!家名をけがすことがどれだけの恥かお前はわからないのか?!!」


「わかりません!」と言い放ち、父親の手を解こうと両手をかけるが、父親はさらに強い腕力で胸ぐらを鷲掴みにすると、息ができないほどに男の喉元が締め付けられた。父親は尚も睨み付ける。


「お前は考えが甘い。そんなことだから安倍家の跡取りに何もかも劣るのだ。このできそこないが!」


息子の胸ぐらを掴んだ腕が力任せのまま押し退けるように離されると、男は床の上に放り出されるように伏した。

しかし、それでも男は身を起こして乱れた着衣を正すと父親と正面から対峙する。


「・・・すばるは優れた陰陽師です。私は昴には敵いません。ですが、私は同じ陰陽師として昴を支えたいと思っています。それが私のこころざしです。」


「お前の志など無用だ。」


父親は息子の面を再び弾き、体勢を崩した体を足蹴にする。男のうめくようなかすれ声が漏れる。


「殺れ。」


呪詛を行うことは重罪であり、発覚すれば死罪となる。それ程までに呪詛は恐れられていた。男はそのことを十分過ぎる程に承知していたが、幼い頃から両親に抑圧され続け、その拭きれない畏れに抗うことができなかった。




翌日の深夜、男は数名の従者を連れて松明も灯さずに小雨の闇の中を歩く。風は相変わらず強く、ここ数日続く酷い雨が道を泥濘ぬかるませ、歩みを進める度に泥水が跳ねた。雨雲がかった暗い月明かりだけが心許なく足元を僅かに照らしている。

呪詛は律令で固く禁じられており、通常、官人陰陽師が行うことはない。その代わり、官位を持たない市井の陰陽師達が実行役として行うことが不文律だ。無論、依頼者が高貴な立場であったりすると高位の陰陽師の元へ内密に依頼が来るのだが、その場合も幾重にも厳重に計画され、最終的に足が付かないように執行される。万が一、呪詛が発覚した場合に罪を被るのは実行役の者だった。

しかし、今回の依頼は特殊だった。なぜなら、この男、官位を持つ陰陽師が直々に呪詛に行おうとしているからであり、それほどまでに依頼者が強い恨みを対象者に抱いているということの現れであった。

男は後ろをついて歩く従者達の行末を思う。


『父上は・・、呪詛の決行がなされた後、その者逹をどうなさるおつもりですか?!』


証拠隠滅しょうこいんめつで抹殺、もしくは罪を被らせる。奴らは金で雇われただけの唯の捨て駒に過ぎない。』


『そんな!』


再び父親の拳が男の顔面を殴りつけた。幼い頃から体に植え付けられた虐待の恐怖が支配すると、意志が霧の中へ消えるように怯える心は四肢を抑制し自由が利かなくなる。

昨夜の謀議を思い出しながら未だ腫れている片側の頬に手を置いた。痛みが残る頬はまだ熱を帯びていた。



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