第四話 桜の香り

『それに唄には言霊ことだまが宿るから・・。少し緊張する。』


だから、なぎおうと再会したあの日に愛のうたを彼女に贈った。

桜は自分に贈られた唄だとは気付かなかっただろう。

だけど、やっと会えたあの人にどうしてもその歌を贈りたいと凪は思った。


桜と出会ったのは、凪の十三の元服げんぷくの儀の時だった。


父親が儀式のために巫女みこに舞を踊らせた。

巫女が神の御前みまえに元服の祝詞のりとを口上し、神への感謝と凪の祝福のための舞を献上する。


舞台に立つ巫女は両手に持った鈴を鳴らしながら、清らかで美しい御足みあしを優雅に踏み、桜の花びらが空を舞うように踊った。

雅楽の音が巫女のまわりを行ったり来たり、舞に合わせて優雅に飛び馳せる。


巫女が凪の目の前でシャンと鈴を鳴らすとふわりと風が柔らかくそよいだ。

ふわりと巫女の顔にかかった薄い垂布たれぬのが舞い上がる。


その時、そこに、桜がいた。

凪は桜と視線が合うのを感じる。

そして彼女は凪に向けてみやびやかに微笑んだ。


その一瞬を、永遠に感じた。

雅楽の音もうたげのざわめきも遠くのほうで聞こえた。

凪は息をすることも忘れ、鼓動が高鳴っていく。


しかし、それを最後に彼女に再び会うことはなかった。

どんなに探しても見つからなかった。

父親や家臣たちはまつりごとに忙しく聞くことができない。


元服のすぐ後に戦の不穏な動きが各国を脅かしはじめ、各地の火種が大きなうねりとなりつつあった。

やがて、凪自身も国と自分の身を守るために戦わなくてはならなくなる。

凪は国を守り生き抜くために戦場で無我夢中に刀を振るい、いくつもの数えきれない血を浴びた。元服から数えて三年に及ぶ大戦だった。


それでも凪は彼女のことを忘れたことはなかった。

忘れられなかった。


--君のことしか考えられなかった。


凪は笛を吹きながら桜をそっと盗み見る。

笛を奏でる桜はとても美しい。

見惚みとれてしまうとうっかり自分の笛のことを忘れそうになった。


--君のことがもっと知りたい。


だけど聞いてしまえばすべてが蜃気楼しんきろうのように消えてしまいそうな不安に駆られた。


やがて曲は終わりが近づく。

同時にそれは短い逢瀬おうせの終わりを告げる。


「桜、今日も楽しかった。」


「凪様、私も楽しかった。」


そう言って首をかしげて微笑む桜が可愛らしい。


--君に触れたい。でも強引にすれば怖がらせてしまうかもしれない。

--・・だけどこのくらいなら、きっと、許してくれる?


凪は桜の肩にかかる柔らかい髪をすくいあげてゆっくりといた。


「また来るね、桜。」


--黒曜石こくようせきのように深く吸い込まれそうな君の瞳は何を思ったの?


凪は慣れないことをしてしまった自分の手を見つめながら、ぎこちない空気を振り払うかのように立ち上がる。


「凪様。」


不意に桜が凪の着物の袖端そではしつかむ。


「え?、なに?!」


凪は呼ばれた自分の名前に驚いて声が上ずってしまった。


「お待ちしています。」


少し頬を染めて伏し目がちに視線を逸らしたまま桜がつぶやく。

凪は心臓が締め付けられるような目眩めまいがした。

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