第47話
人を傷つけるのを。人を殺すのを、やめようと言った。さっきも言ってはいたが、その時とは雰囲気も、かける覚悟も違っていた。
声そのものは、掠れた、疲れ切ったような声だった。または、自分よりもずっと強い相手に怯えながら、それでもどうにか、自分の想いを話そうとする声だった。内に秘めた強さは、やけくそ気味に妹を止めようとしたあの時とは違った。
まるで、語部百のような。
軋む体をどうにか起こしてでも、話すのは今しかないと思ったに違いない。妹の凶行を止めて、新しい道に進ませるには、今しかないと。
そんな彼女に対して、まだニュー口裂け女は辛辣だった。
「命令してんじゃないわよ、無能の愚図の、カスの、ゴミの……」
思いつく限りの悪口を、罵倒をぶつけてやるつもりだった。
傷ついた体に加え、もう一度心をへし折ってやるつもりだった。
だが、口裂け女は肩から手を離さなかった。
生来話すのが得意ではないのが丸わかりであるくらい、たどたどしく、それでいて必死に、端からゆっくりと口を開き、声を発した。
「そ、それで、も」
彼女は思い出していた。
自分の立場を。
語部百に任せてはいけないことを。
全てを彼が解決出来るとしても、自分が為さねばならないことを。
何故かなど、決まっている。
自分は、自分はニュー口裂け女より先に生まれたから。
言うなれば、自分は、彼女にとっての。
「あ、あなたの、お、おねえちゃ、だか、ら」
姉だから、と。
体中の勇気を振り絞って、それでも笑って、口裂け女は言った。
どれだけ酷い目に遭っても、どれだけ馬鹿にされても、たとえ不要だと罵られても、彼女にとって、ニュー口裂け女はただ一人の肉親のような存在だった。
そんな彼女を失わない為に、人を殺さないにしても、出現して人々を怖れさせた。彼女に与して、人を襲う計画まで立てていた。都市伝説達の説得を受けて尚、受け入れを一度は拒んだ。全ての理由は、ただ、ただ一つ。
妹を、ニュー口裂け女を、愛していたから。
そして、姉の口から聞いた本心を以って、ニュー口裂け女も理解してしまった。
自分が愛されていること。
その愛を裏切って、己の利だけをひたすら追い求めていたこと。
利己的な行いが、どれほどあさましいかまで、彼女は知ってしまった。だから、手にしていた鋏を落としたのにも、彼女は気づかなかった。
百も、誰も鋏を拾おうとしなかった。じっと、彼女を見つめていた。
やがて、彼女の方から口を開いた。
「…………ふざけんじゃないわよ、そろいもそろって」
呆れたような、諦めたような調子だった。しかし、百にも、口裂け女にも、彼女がこれ以上誰かを傷つけるつもりはないのだと直感していた。
そうだと気付いた途端、百の体から力が抜けていった。その場に崩れ落ちるとまではいかなかったが、張りつめていた空気が緩むのが確かに分かった。
「ニュー口裂け女さん……」
「もういいわよ、どうだっていい」
やけくそ気味な口調はそのままに、ニュー口裂け女は百を見つめ、言った。
「あなたの想いも分かったわ、えっと、語部百、だっけ」
「はい、語部百です。これからは僕が、貴女を伝えていきます」
百は本気だった。本気で、彼女の伝説を語り継ぐ手段を頭の中で構築していた。
一方で、ニュー口裂け女は、よろしくとも、くだらない話を継いだらただじゃあおかないとも言わなかった。ただ、鼻を軽く鳴らしただけだった。
「その必要はないわよ。だって」
何を話す必要もない。
もう、目的を果たす必要もない。
何故なら。
「私という都市伝説は、ここで終わるんだから」
彼女の存在は、ここで終わるのだ。
「え?」
百が聞き返した時点で、ニュー口裂け女の体が、足元から消滅し始めていた。まるで体が粒子のようになって、大気中に溶け込むかのように、彼女の体は足から、脹脛、膝の順番で、ゆっくり、ゆっくり消えつつあった。
口裂け女は驚いてこそいるものの何も言わないが、百は違う。これから彼女を語り継ぎ、共に生きていこうと思っていたのに、どうしてこんな事態にと、戸惑っている。
「あ、あの、消えてます! なんで、なんで」
「当然でしょ、私が消えたいって願ったんだから。都市伝説にはそれが出来るのよ。消えたいって思ったなら死ぬしかないような、勝手の悪い人間とは違うのよ」
「なんで、どうして……」
さっぱり訳が分からず、ただ狼狽えるしかない百に、後ろから声がかけられた。
「――もう、分かってるんだろ、百クン」
はっと百が振り返ると、そこにはターボを含めた都市伝説が、いつの間にか立っていた。
ターボは自分の力で立てていたが、てけはリカに介抱され、辛うじて上半身を起こしているだけ。埃塗れの畳や壁、家具にぶつけられたからか、体中に傷がついただけでなく、汚れまで酷い有様だ。
三人とも、自分の様子など気にも留めていなかった。ただ、じっと、悲しそうな顔でニュー口裂け女が消えてゆく様子を見ているばかりの彼らに、百は聞いた。
「ターボ君、それに皆も! いつから……」
「君が説得を始めた頃からさ。オレ達が起きてたら、説得に支障をきたしそうだったからね、てけもリカも気絶したふりをしてたってわけだ」
「そ、そうなんだ……って、そんなことより、ニュー口裂け女さんが消えそうなんだ! ターボ君、なんとかしなくちゃ!」
なんとかしたい、と聞いたターボは、すっと百から目を逸らした。
その行為が、返事の一環であると百は気づいた。自分も出来るならどうにかしてやりたい、しかしどうすることも出来ないと、ターボは喧しい口ではなく、視線で言っていた。
リカも何も出来ないのか、ただ消滅の工程を涙目で見ている。てけだけが、寂しげな目線を投げかけたまま、百に現実を伝えた。
「……無理ね。消えたいと願った都市伝説が消え始めてるなら、止める手立てはないわ」
そんな馬鹿な。せっかく、これからだというのに。
そんなの、あんまりだ。
「無理って、ダメだよ、ダメだ、そんなの!」
百は必死に言葉を紡ごうとしたが、心の奥底で現実を認めてしまっているのか、あるいはニュー口裂け女を助けるのに必死過ぎて言語能力に脳のリソースが割けないのか、もうまともな意味の単語が出てこない。
「百クン、気持ちは分かる。けど、さっきも言ったんだ、君だって本当は分かってるはずだ。自分から消えようって行為が、何を意味しているか」
目を瞑って、何かを想い、ターボは続けた。
「償いだよ。自分の行いと、姉への行い……すべて含めて、償うにはこれしかないのさ」
ニュー口裂け女には、もうこの道しか残されていなかった。
仮に百が都市伝説として語り継いだとして、自分が生き永らえたとして、一度姉と世間に打ち込んだ楔は決して抜けない。百がどれだけ足掻こうとも、彼女が言った通り、消えると覚悟した都市伝説に待つ末路は一つだけなのだ。
鋏が刺さっているのも構わず、感覚がないのも構わず、百は彼女に向かって叫ぶ。
感情をぶつける必死さからではなく、ただ、救いたい一心で。
「そんな、そんなことない! これからなんだってやり直せる、やり直すチャンスは僕が作ります! だから、ニュー口裂け女さん、だから……」
そこまで言って、百は気づいた。
もう、彼女の体は腰あたりまで消えてしまっている。
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