第46話


 ニュー口裂け女は自分にへばりつく感情を振り払うかのように、大声で叫んでから、百に向かってタックルをお見舞いした。迷っていたのが原因か、他の都市伝説にしたような威力はなかったが、それでも百を吹き飛ばすには十分以上だった。


「うわあっ!」


 百はまた、畳の上に倒れ込んだ。

 右掌の痛みは、もうなかった。あまりに連続した痛みを受け続けた結果、感覚がなくなってしまったのだと百は直感的に理解した。

 ぶらぶらと無意味に揺れるだけとなった右腕を意に介せず、百は倒れ込んだままにならず、即座に立ちあがった。

 体育の授業の成績は皮肉にも良いとは言えなかったが、今の百は自分が思うよりもずっと俊敏に動けていた。もう二度と倒れるまいと意識しながら、百は叫んだ。


「ニュー口裂け女さん!」


 ニュー口裂け女は、百以上に、覚悟を決めているように見えた。

 百への攻撃は、きっと殺す意味合いではなく、どうにかして離別すべきだと理性が告げた結果なのだろう。だからこそ、威力も低かったのだろう。

 どうするべきか、もう分からない。だからこそ、これまでの在り方にしがみつく。ニュー口裂け女を見る百は、彼女の考えの殆どを見抜いていたが、だからと言ってこれ以上説得の言葉が浮かんでくるわけでもなかった。

 その感情の隙を突いて、胸に手を当て、ニュー口裂け女は叫んだ。


「てきとー言って誤魔化して、私を懐柔しようたってそうはいかないわよ! お涙頂戴の話をしてもらって悪いけど、あなたが死ぬって結果は変わらない! これからもっと強くなって、この街を怖れさせる未来もね!」


 誰に言っているのか、もう彼女自身も分かっていなかった。

 ただ、叫ばなければ、どうにかなってしまいそうだった。

 そこにいるのは、もう伊佐貫市を脅かす恐怖の都市伝説、ニュー口裂け女ではなかった。自分自身に悩み、本当に進むべき道に苦しみ、生まれた感情に戸惑う、名もなきただの都市伝説だった。

 どうすればいいかなんて知らない。人を殺し、傷つけることしか知らない。

 だから、彼女の口から出てきた言葉は、人を傷つけ、突き放す言葉ばかりだった。


「さあ死になさい、怯えなさい、もっと、もっと……」


 きっと、頭の中にはたくさんの恐怖を伝える言葉が浮かんでいた。

 ところが、ニュー口裂け女の口から、その台詞は何一つ出てこなかった。


「もっと……あれ?」


 代わりに、流れるものはあった。

 彼女の大きな瞳から流れる、大粒の涙が。


「な、なんで、どうして、私、泣いて……?」


 意味が分からなかった。どうして自分の目から涙が零れて、頬を伝っているのか。涙は普通悲しい時に出るもので、その理屈で言うならば、今は流れない。

 それなのに、涙が止まらない。

 頬を擦ってみても、涙が後から流れてくる。まるで、何かを体から吐き出してしまおうとしているかのように伝い続ける涙を見て、百は静かに言った。


「分かってるはずです。今まで苦しくて、辛くて、痛くて。その逃げ道が見えたから、泣いてるんだって、僕は思います」


 諭すように話す百を、涙を止めずに睨み、彼女は吠えた。


「じゃあ、じゃあ、あんたが泣いてるのは、何なのよ!」


 そう。

 百の目からも、はらはらと涙が、堰を切ったように溢れ、流れていたのだ。

 ただし、百は自分が泣いているのを知っているようだった。涙の理由が分かっている百にとっては、止める必要はなかった。


「――だって、だって! つらい時、悲しい時に泣くなんて、当たり前じゃないですか!」


 ニュー口裂け女に指摘された百は、彼女よりずっと大きな声で叫んだ。

 本末転倒な話だが、彼の中で今や優先されているのは、ニュー口裂け女の想いを知り、言葉をぶつけることだった。自分と同じ気持ちだと知れたのが嬉しかったのもあるが、それ以上にその感情を否定する彼女に向かって、叫ばずにいられなかったのだ。

 そしてその叫びの意味は、彼女にとっては意味不明だった。

 だから、真意を問わずにはいられなかった。


「何がつらいっていうの、右手に風穴開けられたから!?」


「そんなの決まってます、ニュー口裂け女さんがどう見たって苦しんでるからですよ!」


「私、苦しんでなんて……」


「また逃げるんですか! 夕方の時みたいに、嘘ついて、また!」


 尚誤魔化そうとする彼女の前に、百の感情が爆発した。

 これまで生きてきて、一度だって爆発したことのない理性が遂に臨界点を超えたのだ。


「逃げないで向き合ってください、その苦しみが必要なんです! 泣いてる理由が知りたいなら、その苦しみと向き合ってください!」


 百の涙が止まらなかった。

 もう、止めるつもりもなかった。仮にニュー口裂け女が怒り狂って、自分の言葉が原因で自分が死ぬ羽目になったとしても、百は言いたいこと全てを言い切って死んでやると、心の底からそう思っていた。

 だから、包んでいたオブラートはもう引き剥がして捨てた。一切合切を伝えずに生きても死んでも、自分の中に遺恨が在り続けてしまうと百は確かに分かっていたのだ。

 説得すら、今や二の次だった。百の渾身の思いをぶつける言葉は、煽りのような属性を得て、ニュー口裂け女の心をザクザクと切り付けてもいた。


「貴女の言う通り、僕みたいな取るに足らない都市伝説オタクにだって出来たんだ、意識しないでだって出来たんだ、貴女に出来ないはずないでしょう!」


「ごちゃごちゃうっさいのよ、そんなことぐらい分かってるわよ!」


 幸い、というよりは運良く、ニュー口裂け女は売り言葉に買い言葉で返してくる性格だった。切り付けられれば切り付け返す、やられればやり返す精神の持ち主だったので、顔を涙と、今は鼻水も垂らしながら言い返した。

 鼻水で言うならば、百も同じだった。双方、もう顔はぐちゃぐちゃだ。


「本当に分かってるんですか! 嘘ついてるんじゃないですか!」


「分かってるわよ、人間風情がクソみたいな聞き返ししてんじゃないわよ!」


「分かってるなら、何をすべきかも知っているはずです!」


「ええそうよ、知ってるわよ、これからアンタを殺してやるってそれだけ――」


 分かってなどいなかった。ニュー口裂け女は最後の最後まで、きっと、都市伝説としての在り方に従って人を殺そうとしていたのだから。

 迷いに迷ったのだろう。その末に、自分では決められなかったのだろう。

 ひょっとしたら、誰かの後押しを欲しがっていたのかも。

 百だけの後押しでは足りなかったのかも。

 誰もいない状況でそんな夢物語を喋ろうとも、意味がないと、彼女が一番知っている。

 鋏をもう一度構えて、つべこべと喧しい百の口を引き裂いてやろうとした時、自分の肩に、誰かの手が触れたのを感じた。

 もしかすると、ターボ達都市伝説のうち、誰かが目を覚ましたのか。ならば、非力な人間よりも先にそちらを始末してやらねば。

 百を殺すよりもずっと冷徹な力を込めて、ニュー口裂け女は振り返った。

 ところが、そこにいたのは、ターボ達のいずれでもなかった。


「……う」


 口裂け女だった。

 ニュー口裂け女に蹴られ、叩かれ、埃塗れのボロボロだったが、どうにか起き上がる体力はあったのか、妹の肩に手を乗せ、彼女をじっと見ていた。マスクも既に剥がれ、耳まで裂けた大きな口が丸出しだったが、それでも呻き声しか出なかった。

 背後にいたのが敵ではないのに安心したニュー口裂け女だったが、味方ですらない相手に対して、彼女は辛辣だった。即座に鋏を突き刺さないだけまだ有情であるくらいの目つきで睨みながら、彼女は言った。


「…………なによ、お前」


 彼女の問いに対し、口裂け女はどうにか口の端を開き、答えた。


「……も、もう、や、やめよ?」

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