第43話
これこそ、ニュー口裂け女は予想していなかった。
やけくそではなかった。涙を流してもいなかった。ただ純粋な疑問と興味で、語部百は自分を殺そうとしている相手に、何を怖れているのかと言った。
怖れを与える立場である都市伝説に、何が怖いのかと聞く。その行為を前にして、ニュー口裂け女は口元を一層吊り上げ、目元をひくひくと動かした。
「…………へえ」
当然、共感ではなく、頂点を超えた怒りからだ。
返事よりも先に、というよりは思考するよりも先に、彼女は百の手に突き刺さったままの鋏を、思いきり踏みつけた。
「うあああああああっ!」
百の絶叫が響いた。
気を失ってしまいそうだった。いっそ、そうなってしまった方が楽だった。
だが、今の百は気を失ってはいけなかった。この場で気絶してしまえば、もう生き延びる術はない。自分だけならまだしも、ターボ、てけ、リカも死ぬ。ここから先、伊佐貫市に住む全ての人間に危害が及ぶ。
何より、百は自分の想いをぶつけるまで、気を失うわけにはいかないと思っていた。誰かの死よりも、痛みよりも、百はニュー口裂け女の真意を聞き、答えを叩きつけてやるまで、何度体を裂かれようとも、絶対に意識を手放さないと覚悟していた。
一方で、ニュー口裂け女の笑顔は消えていた。
どんなことを言うかと思えば、都市伝説が恐怖していると。今この場で最も強い存在が、何かを怖れていると。彼女にとっては、侮辱以外の何物でもなかった。
もう一度、彼女は鋏を携えて、百の口に狙いを定めながら言った。
「私が怖がってるって? 何を? 冗談でも笑えないわね、もう殺すわ」
怖い。出来ることなら、逃げ出したい。
それでも、震える口をどうにか正常に動かしながら、痛みを堪え、百は言った。
「はぁ、はぁ……い、今ので、分かりました」
疑問は、真実に変わった。
語部百は、静かに口を開き、話し始めた。
「…………僕は、一人でした」
何かと思えば、ただの独白。自分勝手な言葉の羅列が続くのかと思うと、ニュー口裂け女は直ぐに鋏を振るってやりたかったが、なぜかその声を聞いていた。
それでも、理性の崩壊を感じたのか、ニュー口裂け女は聞いた。
「いきなり何なの? 頭がおかしくなっちゃったのかしら?」
百の理性は狂ってはいなかった。
いや、狂いそうではあったが、辛うじて留まっていた。ニュー口裂け女に自分の想いを伝えるべく、唯一残っていた理性を必死に残していたのだ。もし、そんな使命感すらなければ、彼はもう正気を失っていたに違いない。
その想いの力は、彼自身気づかぬうちに、彼の身体的限界を超越していた。ともすれば都市伝説並みの強靭な精神を伴いながら彼は伝え始めた。
「友達を作りにくい性格で、小中学校、高校生になったって友達なんて出来ませんでした。人と話した回数は数えるくらい、彼女なんていません。いじめこそされなかったですが、代わりに人から関心を向けられることもありませんでした」
彼の言葉は、自身の生涯、その歩みだった。
その中身は、自分自身および他人からの無関心だった。いじめを関心の一種とするのであれば、いじめられもせず、かといって誰かから声すらかけられない生き方は、単純に言うのであれば孤独で、この年齢で体感するケースは少ないはず。
とはいえ、彼は百年生きた老人でも、ましてや波乱万丈の人生を生きた偉人でもない。
ただの語部百が、ただの人生を語るだけなのに、一体何の意味があるというのか。ごくごく普通の人生を話されても、普通は首を傾げるだけだろう。
「何の話?」
ニュー口裂け女も、その普通の例に漏れなかった。いや、彼女の場合、即座に顔面に鋏を突き刺さないだけ、まだましとも言える。
しかし、百は話を止めない。止めてはいけない、何としても。
「だけど、苦しいとも、寂しいとも思っていません。僕の趣味、都市伝説の蒐集があったからです。小学三年生の頃からずっと、ずっと、ひたすら没頭しました」
彼が孤独を感じない理由は、趣味である都市伝説の蒐集だった。小学生の頃から、ずっとずっと、ひたすら都市伝説に関する事柄だけに没頭し続けていた。
友達は必要なかった。恋人は必要なかった。きっと、家族だって必要最低限の付き合いだったのかもしれない。それらに費やす時間は全て、都市伝説に使われた。
金に糸目はつけなかった。時間は出来る限り注ぎ込んだ。集めた情報を資料にして、書籍はありったけ本棚に詰め込んで、気が付けば、自分の部屋と物置には彼だけの王国が出来上がっていた。誰にも踏み入られない、孤独な王国が。
その頃から、時折考えていた。
悪趣味だと言って、両親に趣味を取り上げられたら。健やかな精神の成長を妨げると言われて、教師に趣味を奪われてしまったら。
その共感が出来る人物が眼前にいる。だから、百は言った。
「――今の貴女が、殺人に執着するように。それだけが生きがいだと、思い込むように。だから、分かるんです。その唯一の生きがいが奪われるときの怖さが、痛みが」
じくりと、ニュー口裂け女の胸に何かが刺さった。
自分が怖れていると言われるだけなら、単なる侮辱に過ぎなかった。さっさと殺してしまえば、それでおしまいだった。
ところが、今は違う。百は彼女が怖れている理由と、怖れている物の正体を告げた。たった一つの生きがいを奪われ、手元に何も残らないのが怖いのだと、その感情を誤魔化す為に強がっているのだと言われたのだ。
彼女の中には、もう問答無用で百を殺す気はなかった。
その代わりに、胸の中に芽生えた奇妙な感覚の答えを知りたがっていた。自分を卑下しつつも、自分と同じところを持っていると言われて、彼女は胸の中にある感覚の正体をどうしても知りたくなっていた。
拒否しながらも受け入れたい、矛盾した感覚について。
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