第41話
焼けるような痛みが、たちまちさっきまで体を支配していた痛みを上書きして、全身に行き渡った。しかも彼女は、わざわざ鋏を抜かずに、畳に彼の掌を縫い付けたのだ。血も必要以上に流れず、失血による失神すら許されない。
百が出来るのは、苦痛を前に喉の奥から絶叫することだけだった。
「あ、ああああああああああッ!」
その叫びすら、ニュー口裂け女を喜ばせるだけだ。
彼女は鋏から手を離し、百を見下ろしながら離れた。そして、彼の右側に立ち、言った。
「ほら、これでもう逃げられない。あなたを殺してから死骸を道端に捨てて、鋏は置いていくわ。これでこの街の連中はどう思うかしら?」
口裂け女の噂が満ちたこの街で、鋏で裂かれた人間の死体が見つかる。凶器に使われた鋏も一緒に。そんな物騒なものが見つかったなら、ニュースにならないわけがない。そうなれば、伊佐貫市の市民はどう思うだろうか。
言うまでもない。口裂け女が、実在すると噂になる。
噂は今までとは比べ物にならない早さで広まり、子供は怖れる。大人だって怖れるかもしれない。様々な恐怖が蔓延し、その度に人々は口裂け女について話し合う。誰かが止めても、人の口にとは立てられない。
即ち、口裂け女が真に実在し、好きなように人を殺せる世界が、この街に出来上がる。
「口裂け女がやってきた、人が殺される、そうして私は、ようやくこの薄汚い空き家から出て行って、思う様に殺し続けられる!」
彼女の言い分は間違いではない。
ただ、長い目で見れば間違いだ。いずれ身を亡ぼす。
人間が対処する。見かねた都市伝説課、日本妖怪連盟が動く。いくら口裂け女が強い都市伝説であろうとも、それを始末出来る立場の者がいて、意に反すると考えたのであれば、どう足掻いても始末されるのがおちだ。
百も、都市伝説課派遣チームもその未来は予測していた。だからこそ、唯一残された百は、その危険性をニュー口裂け女に説こうとした。
「そ、そんなことをすれば、人間は……ああああ!」
しかし、彼女はもう聞く耳を持たなかった。
突き刺した鋏を足で踏みつけ、百の肉ごと畳に押し付ける。その激痛で悶絶する百を見て、人間の脆弱さを再認識しながら、ニュー口裂け女は言う。
「人間がどうするの? 警察が出てくる? 夜の遊びは控える? 街灯を増やす? その程度でしょう、牙の抜けた都市伝説連中が過剰にビビってるだけよ、人間に出来ることなんて知れてるのよ。これから、それを証明してあげる」
彼女は自分の力に、微塵も疑問を抱いていなかった。自分は他の誰にも負けない力をこれから手に入れて、都市伝説として生まれた自分の意味を周囲に知らしめる。
敵はいない。自分に敵う存在などいるはずもない。その傲慢がいずれ己を必ず殺しうると考えることはあり得ない。口裂け女から傲慢さを完全に抜き取り、代わりにその全てを与えられた存在が、このニュー口裂け女なのだ。
ついでに言うならば、彼女は相当に短気だ。百の話に付き合っていたのが奇跡と呼べるくらいで、本当ならきっと、百が口を開くより先に、その口の端を耳元まで裂いて、顔を切り裂いていただろう。
そして今になって、ようやくその気になったのか、ニュー口裂け女は百の掌に鋏を刺したままにして、後ろからおずおずと近づいていた口裂け女を見ずに言った。
「頑張ったわね、人間風情が。でも、これで終わり……おい、そこのうすのろ」
「う、うう」
「鋏を貸しなさい。この人間の顔を滅多裂きにしてやるわ」
そうして、相手を見ないで手を突き出し、命令した。
彼女の手にはもう鋏がない。なら、人を殺さない方から借りて殺せばいい。
人を傷つけない口裂け女が持っている鋏など、所詮宝の持ち腐れだ。それなら、鋏を以って人を殺してやる方が使ってやるのが、有効活用だ。
そう思ったニュー口裂け女だったが、口裂け女は。
「う、う、ううあう」
どもるばかりで、鋏を渡そうとしない。
自分の命令に従わない姉の異変に気付いたのか、ニュー口裂け女は、今度は振り返って、もう一度同じ命令を下した。
「どうしたの、さっさと貸して。二度も言わせないで」
その声にも、苛立ちがこもる。
早くしろと急かすように、ぐっと手を突き出す。早く渡せと、目で命令する。
口裂け女は、そんな妹の目を見た。
絶対に逆らえない。反対すれば恐ろしい折檻が待っている。かといって、渡せばこの場にいる全員が殺される。人間も、都市伝説も、全て皆、殺される。
自分の心情を見抜き、在り方を認めてくれた人間も。
助けを求めるような百の目と、彼女の目が合った。百は助けてくれとも、やめてくれとも言わなかったが、確かにその視線が、怖れと助けを求めていた。
もう一度、ニュー口裂け女を見た。その目は人間と都市伝説、ついでにもたついて鋏を渡さない口裂け女への怒りに満ちていて、逆らうことも僅かな口答えも絶対に許さないと、確かに言っていた。
それでも、だとしても。
口裂け女には、自分が為すべきことが分かっていた。
出来ないとしても、危険だとしても、こう言わなければならないと知っていた。
その意志に従い、口裂け女はゆっくりと口を開いた。
「――だ、め」
拒否の意を、はっきりと、口にした。
「……あぁ?」
ニュー口裂け女は、一瞬自分の耳がおかしくなったのかと思った。
出来損ないの自分の姉が、自分に逆らうなどありえなかった。人を殺していなかった件についてもしっかりお仕置きしたし、二度とくだらないことをしないよう警告した。
なのに、今言った言葉は、台詞は、その発想から矛盾している。優れた立場にいる自分に対して首を縦に振らず、抵抗しているのだ。
面食らった表情をしている彼女に、口裂け女はもう一度、想いを告げた。
「だ、だめ。も、も、もう、やめ、やめ、よ?」
「……言ってる意味が分かんないんだけど? 何、何を言ってるの?」
湧き上がる怒りの感情をどうにか抑えて、ニュー口裂け女は聞いた。
ぎりぎりと歯を鳴らし、口裂け女を呪い殺してやると言わんばかりの目つきが齎す恐怖に耐えつつも、それでも口裂け女は勇気を振り絞り、出来る限り大きな声で叫んだ。
「だめ、ひと、ころしちゃ、だめ。もう、だめ、だめ、だめ!」
瞬間、ニュー口裂け女は、自分の中の何かが切れる音を聞いた。
「――――ッ!」
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