第29話


 何が起きているのか確認する間もなく、ターボと百の体に、続けて衝撃が走った。


「うぐぉっ!」


「うわあっ!」


 精神的な、ある事柄に気づいてしまった衝撃ではない。ターボが口裂け女にやってのけたように、強烈なタックルを受けた時のようなそれだ。

 いや、例えではない。全く知らない何かが、身を屈めて、二人同時に両腕を使ってぶつかってきたのだ。先ずはターボ、続いて百に。

 二人とも男性ではあるが、唐突な、しかもラグビー部所属男子が繰り出すようなタックルに耐えられるはずもなく、それぞれ全く別の方向に吹き飛ばされてしまった。ターボは隠れていたのと別の電信柱に、百はブロック塀に、各々激突する。

 その様子を、口裂け女を拘束しているてけはただ見ているしかなかった。突然の襲撃自体は理解しているが、自身が支配している相手が自由になることだけは避けなければならないと分かっていたのだ。

 たとえそのせいで、残されたリカに、二人を襲った悪意が迫っているとしても。

 ターボでさえ逃げ切れなかったのだ。真正面からやって来たとしても、リカは身動き一つ取れなかった。

 だから、その首筋に鋭利な鋏が突きつけられても、ちっとも逃げる様子はなかった。

 その何かは、リカの首をいつでも貫けるように鋏を向けたまま、ゆっくりと彼女の後ろに回り込みながら、勝ち誇ったように、女性の声で言い放った。


「――さて、これで形勢逆転ねぇ?」


 口裂け女と同じ声だった。

 てけは驚愕し、リカは現状を把握して目に涙を浮かべる。

 百は予想通りだが信じられない事態に戸惑い、唯一冷静なターボが、口を開いた。


「……百クン、君の言いたいことがようやく分かったよ」


「ありがとう、ターボ君。結論から言えば、こうだ」


 その目の前にいる、ありえない存在。

 しかしありえて、今この場にいる概念。

 外見、中身、狂気、凶器。その正体に名をつけるとするならば、こう呼ぶほかない。


「『口裂け女』は、二人いる」


 彼らの前にいるのは、もう一人の『口裂け女』だった。

 身長および外見的特徴は全て、てけが捕らえた口裂け女と同じだが、長い髪をポニーテールにして纏めている。また、口裂け女はコートのボタンを留めているが、彼女は留めていない。そのせいでインナーの赤いシャツが見えている。

 何より大きな特徴として、彼女はマスクを着けていない。なので、耳元まで裂けた巨大な口が大きく開いているのが丸わかりだ。

 その口で、四人を嘲るように、彼女は言った。


「へえ、私達が二人いるってのには気づいてたのね。人間にしてはやるじゃない?」


 呻くような声ではなかった。声の質は間違いなく同じなのだが、違う声帯を喉に取り付けられたかのように、非常に流暢に話してのけた。

 ただ、何かに苛立っているのか、彼女が話す度に、鋏がゆらゆらと動く。


「ひ、ひいい……」


 その先端を押し付けられているリカは、たまったものではない。

 ターボも百も、リカがどうなるか本能的に察しているからこそ、動けない。自身の優位性を察した彼女は、命令口調で、てけに言い放った。


「そこのてけてけ、私の姉を解放しなさい。さもないとこの子の頸動脈がスパッと切れちゃうわよ? ちなみに私はあなたほど気は長くないわ」


 どうやら、彼女の中では、マスクをした方の口裂け女は姉という認識らしい。

 そしてその姉を助け出すのが、彼女の目的のようだ。

 彼女の言葉に嘘はない。発言の端々から、残虐性と恐怖、つまり口裂け女が本来持ち合わせる伝説としての脅威を感じられる。だとすれば、てけが今拘束している、怖れなどちっとも感じられないこの口裂け女は、いったい何だというのか。

 訳が分からず、てけは口裂け女を支配する鎌に一層力を加えて、ターボ達に叫ぶ。


「クソ、どうなってんのよ、これ!」


「てけ、事情は後で話す! リカの命がかかってるんだ、口裂け女を解放してくれ!」


 ターボにそう言われても、てけは動かなかった。

 生来の負けず嫌いなのか、プライドの高さが邪魔をしているのか。はたまた、自分が口裂け女を解放したところで、向こうがリカを助ける保証がないからか。サスペンス映画では、先に助けた方が人質を失うと、相場は決まっている。

 だから、てけは相手の提案に、条件で返すことにした。


「……アンタが先に解放しなさい。そうしたら、こいつを渡すわ」


「ふぅん?」


 てけの話を聞いた彼女は、鼻で軽く笑ってから、条件に応じないてけへの答えを示した。

 即ち、リカへの攻撃だ。

 一切の躊躇なく、彼女はリカの首元を鋏でちょっぴり裂いた。鮮血が噴き出るような事態にはならなかったが、赤い血が僅かに染み出し、リカの悲鳴が響いた。


「きゃああああっ!」


 こうなると、もう猶予はない。選択の余地もない。

 もたもたしていれば、向こうは確実にリカを殺す。


「てけ!」


「肘走さん!」


 相手の要求に応じたところで必ずリカが帰ってくるとは限らない。てけの考えも分からなくはなかったが、今は予断が許されない。ターボと百が、てけの判断を言及して、今直ぐ口裂け女を返すように指示するのは同時だった。

 一秒、二秒、三秒。

 四秒、たっぷり迷ってから、てけが叫んだ。


「…………ちくしょう!」


 そして、口裂け女の喉元から鎌を離して、肘だけでさっと離れた。


「ほら、解放したわよ! さっさとリカを放しなさい!」


 てけがもう一度彼女に向かって叫ぶのと同時に、口裂け女は立ち上がり、いそいそと彼女の方に向かって走った。ターボも百も、てけも誰も、口裂け女に再度攻撃が出来ないと判断してから、彼女はにやりと、意地の悪い笑みを浮かべた。


「聞き分けのいい子は嫌いじゃないわ。それじゃあ、はい、どうぞ」


 幸い、相手は嘘をついたり、取引を有耶無耶にしたりする邪道ではなかったようだ。

 彼女は鋏を下ろすと、乱暴にリカを解放した。リカは自分の安全と、恐るべき脅威から解放された安心感とが入り混じり、涙を流しながらてけに駆け寄った。

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