第10話

 物体はそのままに、風景だけを動かして、その物体が超高速で動いているように見せかける手法だ。自主制作のクレイアニメで見るような世界の動き方を目の当たりにして、百の視界と脳は、そう錯覚してしまったのだ。

 だが、そうではないと分かった。なぜなら、自分の体がほんのちょっぴり重力に揺られたかと思うと、その重力と地球の法則全てを振り切り、加速したからだ。

 その速さは並ではない。電車や新幹線、バス、タクシーのような、ゆっくり加速して最高速に至るものでもない。いきなりトップスピード、それもリニアモーターカーに括りつけられて走行させられているような感覚だ。

 速い。早い。速すぎる。

 未知の世界。体感上、乗り物が出せる速さの平均速度を超越する速度。

 錯覚から解き放たれるのに一秒、状況を理解するのにもう一秒。ターボが自分を抱きかかえて、人間が出せるはずのない速度で疾走しているのだと追加の一秒で気付いた百が口から発する言葉は、もう決まっていた。


「う、うわああああああああああ――――――ッ!」


 絶叫である。

 その絶叫すら、あまりの速さに置いていかれる。百の顔が風で歪み、痛く感じられる。何かに衝突してしまえば、きっとその場で双方共に昇天だ。

 なのに、ターボの笑顔はいつものままだ。人の表情、建物、木々、それら全てが混同した何かしか見えない世界など無視して、彼は百に話しかける。


「人に見られないように走るのって大変だよね、この辺りは人通りが少ないけどもし見られちゃったらごめんね、明日学校で何か聞かれてもてきとーに誤魔化してくれるとありがたいでーす!」


「ひいいいいいい!」


「あうあうおおおああああああッ!」


 努めて人に見られないようにしている、もし見られてもばれないだろうし、問いかけられたら適当に誤魔化しておいてほしい、と言いたかったのだろうと、百は思う。

 実際はそれどころではない。ターボの信じられないスピードに追従するかのように、口と目をこれでもかと開き、鋏を振り回す口裂け女が追いかけてくるのが感じられたのだ。時速百キロはゆうに超えているその速さについてくるとは、やはり化け物だ。

 ただ、百ははっきりと理解していた。それと同じくらいの速度で疾走し、息切れ一つ起こさず、表情は笑顔のまま、百に話しかけるターボ、彼も間違いなく、人間ではない。

 右折、左折、左折、Uターンすると見せかけて加速。あの手この手で口裂け女を撒こうとするが、向こうもかなりのやり手で、なかなかターボを逃がそうとしない。彼もどうやら、この状況を楽しんでいるようで、百との会話を止めようとしない。


「それにしてもあんなに大きく口を開けてるのに、あーとかうーとかしか言わないなんて勿体ないよね! スピーチコンテストとか大食いコンテストに出たら優勝間違いなしなのに、ほんとーに勿体ない、って、語部クン、聞いてる?」


「………………」


 聞いていない。聞けるはずがない。

 あまりの速さと恐るべき体験を目の当たりにして、百はすっかり気絶していた。

 人間が生身で耐えられる加速など、知れている。訓練を積み、何回も実践をこなしたベテランですら、負荷を前にすれば気絶する時だってあるのだ。ただの高校生、しかもインドア派の百なら、吐瀉物塗れになっていないだけ、まだましだ。


「うううううおおおおおおおッ!」


 それを好機と捉えたのか、もっと加速してくる口裂け女の存在を、ターボは振り向いて確認する。このままの速さでは追い付かれてしまうと知って、ターボは舌を巻く。


「気絶しちゃったみたいだね。ま、そしたら楽しいお話は後にして、今は逃げるのに集中しちゃいますか!」


 にかっと笑って、ターボは足の動きを変える。単なるランニングから、明確に人を追い抜き、追い越す姿勢に。絶対に口裂け女に追いつかれない、本気の姿勢に。


「う、あううう?」


 ターボのこれまでは、ちょっとしたジョーク。これからは、全身全霊、本気の逃走。


「君、時速百キロ以上で走れるんだって? でもオレは、百五十キロ出せるんだぜ」


 言うが早いか、ターボはもう一段階、加速した。

 スーパーカーのアクセルを強く踏んだ時のように、運動靴から土埃が巻き上がる。人間どころか、ちょっとした軽自動車でも追いつけない速度で、ターボは本気の走りを、口裂け女に見せた。

 口裂け女のリアクションが、明らかに変わった。追いつける相手、獲物を見る目から、これから逃げ切られる相手を見る目に。


「そんじゃ、まったねーっ!」


 口裂け女は最初こそどうにか追いつこうと必死だったが、やがて少しずつ走るのが遅くなってゆき、ターボがもう一度振り向いた時には、その視界からはいなくなっていた。

 どこかの影に隠れて奇襲する様子もなければ、自分がいつの間にか追い抜かれたなどもっとあり得ない。人の気配も少しずつ感じられるようになってきて、ターボの中に生まれつつあった確信は、より大きくなった。

 つまり、口裂け女が此方への襲撃を諦めたのだ。


「(うん、人の気配が増えてきた。口裂け女の都市伝説から逃げきれたってとこかな)」


 だが、加速は緩めない。彼にとっての疾走は単に、気絶している百を口裂け女から逃がす為だけではなかったのだ。


「それじゃあ、てけとリカと合流するとしますか!」


 本来の目的。

 仲間への事情説明と彼への説明。そして、本題。

 全てを百に話すべく、ターボは人目につかないように、木々の隙間を縫うようにして爆走し続けた。人が彼を見ても、きっと旋毛風だと思うだろう速さで。


 そして、夕暮れの中、語部百は、目的地である校舎の裏で目を覚ますことになるのだ。

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